「日本は謝罪していない」という意識

昨日息子に「なぜ韓国の人は、北朝鮮人の事を嫌いな以上に、日本人が嫌いなの?」と聞かれた。
息子はアメリカで育ち、学んでおり、政治の話も、米国の政治についてしかしていない。日本については「日本語の読み書きができるように」と大学のクラスで日本語を受講し始めてから、興味を持ったようだ。「なぜ韓国の人は、…日本が嫌いなの?」という質問も、恐らく大学のクラスで学ぶ内に、どこかで知った情報なのだろう。
私はまず「なぜ韓国の人々が、一般の北朝鮮人を嫌うべきだと思うの?」と聞き返した。日本も1945年8月のソ連侵攻によって国土が共産主義と資本主義(及び民主主義)に二分されていたら、民主主義地域に生きる日本人は、共産主義下に置かれた北方の日本人を憎むだろうか。
およそ息子の聞きたい事は、「なぜ韓国人は、北朝鮮政府を敵視する以上に日本を敵視するのか」という疑問だろう。特に国民の権利が保証されていない国においては、政府の責任を国民に押し付ける事は出来ない。私は北朝鮮政府と北朝鮮人とは違うという事を説明した。
次に「なぜ韓国人は日本人を嫌うのか」という質問だが、私には自分なりの考えが無い訳では無いが、私の見解は日本人としての私の見解である。出来るだけバイアスのかかっていない理解を息子には得て欲しい。「なぜ韓国の人は」という質問は、韓国人の感情について聞いている質問であり、私がそれを正しく理解しているとは思えないのだ。
と言う訳で、私が尊敬している、ある韓国人の方に、息子に代わって質問をしてみた。その方が挙げた回答は、およそ次のようなものだ。
 
---根底には、植民地支配や慰安婦問題などの歴史問題のわだかまりがあげられます。けれど、嫌悪感情や、いわゆる「反日」と言われるナショナリズムの高まりは、ここ30年の間に運動家らによって作られたものです。また「謝罪も補償もしない、厚かましい日本」という誤った認識の定着が、歴史上のわだかまり以上に大きな反発の原因となっています。---
 
なるほど、と思う。日本人の私とすれば、「日本は既に補償し、何度も繰り返し謝罪したではないか」という思いが反射的に浮かぶ。「なぜ韓国の人々は、日本が何度も謝罪した事を認めないのだろう」という疑問も湧いた。
しかしながらふと、「日本人はどう考えているのだろう」という疑問が生じた。
日本人保守派の間には「日本は悪い事はしていない。謝罪しなければならない違法行為は、何も行なっていない」という声がある。河野談話に反対した人々も、2015年の日韓合意に反対した人々もいる。日本政府がお詫びらしきものを匂わせる声明を発表する度に「よけいな謝罪はするな」と憤る人々もいる。
実際に、私もその一人だった。日本政府や外交官らが謝罪らしき発言をする度に、「慰安婦問題での誤解を解こうと苦心しているその努力に、水を差すようなものだ」と憤り、 アメリカ人から「日本は悪い事をしていないと言っても、日本政府は謝罪をしたでしょう」と聞かれる度に、「政府が誤るから誤解が定着するのだ」と感じた一人だった。私自身が、日本政府による謝罪を何とか打ち消そうとしていた一人だったのだ。
私の知る日本人保守派の間にも、「謝罪は一切必要無い」から「何度も何度も回数を重ねて謝罪する必要は無い」「河野談話は真の謝罪ではなく、日韓政府高官による政治工作の産物だ」「日韓合意によって誤った解釈が国際社会に定着する」など、出来るだけ「謝罪ではない」を定着させたい人々がいる。ソーシャル・メディアを使った日本人同士の議論の場でも、謝罪したか否かで意見が異なる。「謝罪した派」の中でも、「くり返し謝罪しなければならない程の悪事を行なったか」となると、殆どの保守派は「否」と答えるだろう。更に、「なぜ謝罪したのか(謝罪したのは国際法を犯したからか)」と聞けば、「謝罪した派」の中の意見も細かく分かれるのだ。
多くの日本人ナショナリストは、政府が謝罪した事を認めても、謝罪への誠意については出来るだけ過小評価したいのだ。出来るだけ誠意の無い謝罪を、国際社会に気付かれないままサラリと述べて、「未来志向」の二ヵ国関係を築こうとする。であるならば、韓国の人々が「日本人の謝罪には誠意が無い」と考えても仕方が無い。
日韓のナショナリズム感情は、「謝罪」の事実を対極する方角から眺め、お互いを非難しつつ、それでいながら結論は「謝罪ではない」と恐ろしく似通っているのだ。
 

f:id:HKennedy:20201117154300j:plain

 個人的な意見として、私は過去の謝罪や補償は最大限宣伝され、評価されるべきだと思う。破棄されたとはいえ2015年の合意などは、国際社会の記憶が新しいうちに日本の正式な立場として強調されるべきだ。但し(大声で宣伝する事でも無いが)それ以降の謝罪の必要を感じていない。必要とされるのは謝罪ではなく、ナショナリズムを抱えたお互いを理解する努力、違った意見を認めながら協力する分野においては協力し、評価し合う姿勢ではないだろうか。
私はこのように考えるが、こうした考えすら多くの人々は反対するだろう。右翼でも左翼でもない、穏健な人々の交流が切れてしまわない事を願う。
ポーランド人学者、アンジェイ・コズロウスキー教授は、「日韓の歴史問題の拗れは、現在声を大きくする両国の右翼と左翼の活動家らがこの問題に疲れ切ってしまうまで、解決しないのではないか」と匙を投げている。あたかも日韓の歴史問題は、双方のナショナリズムによって和解できないように仕組まれているかのようだ。
実際に、黒人奴隷の歴史、ルワンダの虐殺など、議論すればするほど対立が深まる歴史問題は多く存在する。実は北方領土問題も、原爆についても同様である。むしろ歴史問題とは、そういう問題かもしれない。「目覚め」れば目覚めるほど、お互いの傷が深まる歴史問題は多いのだ。これは勿論、議論をするな、問題意識を持つな、という意味ではない。一定以上の議論、議論が白熱化した後の更なる議論は、却って溝を深め、和解を遠のける傾向があるという観察でしかない。
私には、日韓の間に横たわる問題が、程度の差はあれ、そうした歴史問題の一つではないかと思える。