ガンジーから、「すべての日本人への手紙」
人間には、自分の聞きたい話だけを聞き、自分にとって都合の悪い話は全く無視するか、全く別の解釈を加える傾向があるのかもしれない。あるいは、自分の好むストーリーを語ってくれる語り部だけを集め、好みの証言集だけを聞き、満足する傾向もあるのかもしれない。
「日本がアジアを開放し、感謝されている」という『歴史観』は、果たして正しいものだろうか。「日本が欧米の植民地支配、帝国主義からアジアを開放した」という歴史観は、中国や韓国以外のアジア諸国にならば、一般的に認められている歴史観なのだろうか。或いは、「東京裁判」さえなければ、歪められなかった筈の歴史の事実なのだろうか。例えば、イギリスによるインド植民地支配が「搾取一方の悪」であり、逆に日本のアジア進出は歓迎されていたのだろうか。
1942年にインドのマハトマ・ガンジーが「すべての日本の人々へ」として記した手紙を、以下に訳して紹介する。
To Every Japanese : Selected Letters from Selected Works of Mahatma Gandhi
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『まず初めに言っておきたいのです。 あなた方に対する悪意は無いのですが、 私はあなた方の中国への攻撃には、非常に嫌悪感を持っています。 あなた方はその高尚な高さから、 帝国の野望に堕ちてしまいました。 あなた方はその野望に気付く事なく、 アジアの手足切断の製作者となり、知らずしてか、「世界の連合」や「 同胞化」を防ぎ、これら(「世界の連合」や「 同胞化」)無しにはあり得ない「人道主義への望み」を絶ってしまっているのです。
50年以上前、ロンドンにて勉強していた18歳の少年の時以来、 私はサー・エドウィン・アーノルドの書籍を通して、 あなた方の国の素晴らしい資質について学びました。 南アフリカ滞在中、 あなた方がロシア軍に対して勝利をしたと聞いた時には、興奮をした ものです。1915年、南アフリカからインドに帰国した後、我々のアシュラムのメンバーとしてしばし過ごした日本人仏僧たちと、私は親しくなりました。そのうちの一人は、 セヴァグラムのアシュラムでの貴重なメンバーとなり、 彼の義務への遂行、高潔な態度、 毎日の礼拝への尽きる事の無い献身、親しみやすさ、 どのような状況下でも変わらない落ち着き、 内なる平安の肯定的な証拠である自然な微笑みなどによって、 我々全員からの尊敬を得ていました。
しかしながら、あなた方による大英帝国への宣戦布告をもって、 彼は我々から引き離されてしまい、 我々は彼という同労者の不在を悲しく感じています。 我々を毎朝起こしてくれた彼の日ごとの祈り、 彼の小さな銅鑼の思い出だけが残されています。 この喜ばしい想い出を背景に、「 挑発を受けずして行なった」と考えられる中国への攻撃と、 またもし報道を信じるならば、 あなた方が優れて古い土地にもたらした憐みの無い荒廃を、私は深 く嘆き悲しんでいるのです。
あなた方が世界の大国と対等な位置につこうとした野心は、貴いも のだったかもしれません。 しかしながら、あなた方の中国侵略と枢軸国との同盟は、 到底是認できない野心の行き過ぎです。
あなた方が受け入れ、自分のものとした古典的な文学を持つ偉大な 古代の人々は、 実はあなた方の隣国人であり、私はあなた方がそうした事に誇りに感じるだろうと期待してい ました。お互いの歴史、伝統や文化への理解は、 今日あなた方を敵ではなく、 友として結びつけるべきだったのです。
もし私が自由人であったならば、 もし私があなた方の国に行けるならば、弱っているにしても、 自分の健康や、命さえ危険に陥れたとしても、 あなた方の国に行き、あなた方が中国、世界、 ひいては自分自身に対して行なっている悪行を止めるよう、 お願いするでしょう。
けれど私にはそのような自由はありません。また私たちは、 日本主義や、ナチスズムと同様に嫌っている帝国主義に抵抗する 特殊な立場にあります。私たちの抵抗は、 英国の人々に損害を与える意味はありません。 私たちは彼らを改心させようとしているのです。私たちのものは、 英国支配への非暴力の抵抗です。我々の党は、 外国の支配者との間に、真剣でありつつ、 しかも親しさのある論争を展開しています。しかしながら、 この運動に、外国勢力の支援は必要ないのです。 日本によるインド攻撃を間近に控えたこの時期を、( インド独立によって) 連合国側に恥をかかせる良い機会と考えているならば、 あなた方は明らかに誤解をしているのです。 もし我々が英国の困難を自分たちの好機だとしたかったのなら、 我々は戦争が始まった3年前に、そうしていたでしょう。
英国勢力撤退を要求する我々の運動は、 誤解されるべきではありません。実際、報道されているようなインド独立に対するあなた方の懸念が真実であるならば、英国による独立承認は、あなた方にインド攻撃の口実を与える事は無い筈です。
しかもあなた方の主張とあなた方の容赦ない中国への攻撃に、 整合性はありません。あなた方が「 インドから歓迎でもって迎え入れられる」 などという悲しい幻想に惑わされ、 過ちを犯さないようにお願いしたいのです。 英国撤退運動の手段と方法は、「英国帝国主義」と呼ばれようが、 「ドイツ・ナチズム」であろうが、 或いはあなた方であろうが、インドを全ての軍国主義、 帝国主義の野望から自由にすることによって、 インドを整えることにあるのです。
もしそうでなければ、 非暴力が軍国主義精神とその野望への唯一の媒体とする信念に逆 らって、 我々は世界の軍国主義化への卑しい観衆となっていたでしょう。 個人的に私は、インドの独立を宣言することなしに、 連合国軍側は、 ただの暴力を宗教的な高潔さで呼ぶ枢軸国軍側を打ちの めす事は出来ないのではないかと危惧しています。 あなた方がするような、容赦なく、効能的な戦闘によらなければ、 連合国側はあなたとあなたの同労者を打ち負かすことは出来ません 。しかし、もし彼らがあなた方のやり方を真似るならば、 彼らが世界を民主主義と個人の自由の為に救うという宣言は、 無価値なものとなってしまいます。
私は、彼らがあなた方の無慈悲を真似せず、 却ってインドの自由を宣言し、 スルタンによるインドの強制された協力を、 自由を得たインドの自発的な協力に変える事によってのみ、 彼らは力を得る事が出来ると考えているのです。
英国と連合国側に対して、我々は彼らが主張し、 彼らの益でもある「正義」の名によって、彼らに願いました。 我々は、あなた方には、「人道」の名によってお願いをします。 私は、あなた方が無慈悲な戦闘をする権利は誰にも無いと理解していない事実に驚 いています。もし連合国によるのでなければ、誰かがあなた方のやり方を更に改良し、 あなた方の武器によって必ずあなた方を打ち負かすでしょう。 もしあなた方がこの戦いに勝ったとしても、 誇りに思えるような偉業を子孫に残す事などは無いのです。 どのようにうまく語られたとしても、 残酷な仕打ちの物語に誇りなど感じられる筈は無いのです。
もしあなた方が勝利したとしても、 それはあなた方が正しかった事にはなりません。 あなた方の破壊力が大きかったことを意味するだけです。勿論、 公正と正義の行ないとして、その他征服されているアジア、 アフリカの人々への同じような自由の約束として、 まずインドを自由にしない限り、これは連合軍にも当てはまります 。
我々の英国への要請は、連合軍側の兵をインド内に保留させる、 自由インドの意思と結合しています。 我々の要請は決して連合軍の目的に危害を加えるものではない事を 証明し、また英国が空にした国に入って来ても構わないと、 あなた方に勘違いさせない事を目的としています。
あなた方がそのような考えを好み、実行しようとするならば、 我々の持ち得る全ての力を奮い立たせて、 あなた方に抵抗するでしょう。私は、我々の政府が、 あなた方とあなた方の同労者が正しい方向に向かい、また、 あなた方が道徳的崩壊、 また人間をただのロボットに軽減させる誤った道のりから退くよう 影響を与える希望をもって、この要請をしています。 あなた方が私の要請に応えてくれる希望は、 英国が私の要請に応えてくれる希望よりも、 遥かに少ないものです。
私は、英国人が正義への認識を欠いていないと知っており、 彼らも私を知っています。 私はあなた方を判断するほど熟知してはいません。しかし私が読んだ全ては、あなた方は嘆願を聞かず、 剣だけを聞くと語っています。 あなた方に関して聞く話しが全て誤りであり、 私があなた方の良心の琴線に触れられる事を、 私はどれほど願っているでしょう。 人間の性質がもたらす応答への絶える事のない信頼を、 私はやはり持っているのです。この信頼の力に基づいて、 私はインドでの運動を続けてきました。 そしてその信頼に基づいて、 私はあなた方に嘆願をしているのです。
セヴァグラムにおいて、
あなたの友であり、あなたの繁栄を祈る者、
マハトマ・ガンジー』
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以上に記されたガンジーの言葉を見る限り、当時の日本軍に対する彼の言葉は、英国に対する言葉よりも厳しい。少なくとも英国には公正や正義への意識が高いが、日本にはそれが無いと言っているのだ。
こうした批判は、日本がアジアを欧米の支配から解放した輝かしい史観を信じ、「日本の素晴らしさを世界に訴えましょう」と外国人への説得力を試みる人々には、受け入れられない指摘かもしれない。
しかしながら、ガンジーの厳しい批判を真実として受け入れた場合、今の日本は酷い国なのだろうか。もっとハッキリと言えば、今の日本人は、卑下されるべき人間なのだろうか。「無実」である必要を感じる為に、黒も白と言い含めることでもしない限り、決してそうではないだろう。
それでは、国の為に戦った一人一人の兵士ら「先人」は、卑下されるべき人間なのだろうか。そうとも思わない。本人が、残酷で不必要な戦争犯罪を犯したのでもない限り、或いは、政策や戦略に決定権を持つ立場でない限り、彼らとて、誤った政策や無謀な戦略の非はない。
国の為に戦った兵士に敬意が払われるのは、当然である。
それでも、「国の為に戦った先人」への感謝と、国家としての政策、軍や部隊としての戦略の是非は別なのだ。
自らの信じたい物語にとって不都合な情報を省いて良いならば、例えナチスであっても、その非道を正当化し、美化する歪曲史観が出来上がるだろう。そしてそうしたを喜んで主張する人々もいる。こうした人々は、歴史の事実を事実として学ぶ前に、そのキッカケとなる動機が問われるべきだ。
「日本人としての誇りを取り戻す為」の歴史教育、また史実の追及には、そもそも「日本人としての誇りを取り戻す」という動機があり、その動機の為に、結局は「日本人としての誇り」にとって都合の悪い情報は排除するプロパガンダに成り下がってしまっている。そしてこうした「日本人としての誇りを取り戻す」という動機のある歴史観から来る主張は、当然の事ながら、日本人としての誇りに関係の無い人々に対する説得力は無く、現在の日本人をして、仲間内でしか通用しない教義を語るカルト信者のように見せるだろう。