反対者への『国籍による人種差別』---塚本幼稚園問題

学校法人「森友学園」が運営し、教育勅語の唱和や「愛国心と誇りを育て」る教育を幼稚園児に施すことで知られる『塚本幼稚園』が、保護者に宛てて「邪(よこしま)な考えを持った(名前は日本人なのですが)在日韓国人である・支那人であるそれらを先導する人、それに金魚のフンのようについてくる人は近づいてきます。」と書かれた文書を配布していた事が、日本からの話題としてアメリカにも伝わっている。勿論、日本に対する良い印象を与えるニュースではない。

Nationalist Osaka preschool draws heat for distributing slurs against Koreans and Chinese | The Japan Times

上記の文章だけでは理解しにくいのだが、要は、インターネットのブログによって塚本幼稚園に対する批判が起こった際、それを「韓国・中華人民共和国人等の元不良保護者」の仕業であるとしているらしい。

塚本幼稚園、保護者にヘイト文書 「民族差別の疑い」大阪府が調査 

 

また幼稚園の公式サイトで、塚本幼稚園を批判するブログを開設した保護者に対して「専門機関による調査の結果、投稿者は、巧妙に潜り込んだ K国・C国人等の元不良保護者であることがわかりました。(元々の表現は、韓国・中国人等の元不良保護者)」としているが、『専門機関』とは何の事だろう。

http://www.tukamotoyouchien.ed.jp/wp-content/themes/tukamoto/pdf/attention2.pdf

 
園長と学校法人の理事長を兼ねる籠池泰典氏は、塚本幼稚園の公式サイトの『園長の部屋』でも「この国がなければ世界はまさにルールに基づいて動く。全てが民主的にルールに乗っ取って動く世界に駄々をこねて世界平和を乱す元凶は中華人民共和国(支那)なのだ。...かの国がない方が世界平和につながるので、4つ位の国に分裂させるか、なくしてしまうことだ。」と書いている。

平成25年7月23日 教育も外交も同じこと|平成25年|園長の部屋|塚本幼稚園幼児教育学園

 

中国の軍事拡張主義は、確かに警戒されるべきだ。しかしながら、よほど中国以外の専制独裁国等の動向に無頓着でなければ、「この国がなければ世界はまさにルールに基づいて動く」「世界に駄々をこねて世界平和を乱す元凶は中華人民共和国(支那)なのだ」とは言えないだろう。たとえ中国が「4つ位の国に分裂」されたり、消滅してしまったとしても、「世界平和」は訪れない。

 

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籠池泰典園長の余りにも単純な論理は、軍事、及び外交戦略、経済関係を視野に入れた複雑な世界情勢への深い知識を基にした主張とは到底思えない。また、書かれてある文面から察しても、教育者である事すら疑わしく思われる程の文章力である。
 
籠池泰典氏は、ブログ投稿者の身元は「日本人名である」と認めつつ、「巧妙に潜り込んだK国・C国人等の元不良保護者であることがわかりました。(元々の表現は、韓国・中国人等の元不良保護者)」と断言する。籠池氏の言う通り、幼稚園に批判的なブログの投稿者の身元調査までしてくれる専門機関が果たしてあったとして、こうした表現が差別でないとするからには、投稿者の主張や意見と国籍が、どのように関係しているのかを説明する必要がある。投稿者の主張や意見が、その国籍を原因としたものでなければ、言葉を変えれば、韓国籍、中国籍であるからこそ、このような主張や意見があるのだと論理的に説明できなければ、「表現の自由」に対して「国籍による差別」をもって反論をしているだけと言える。
 
ところが、信条や信念、主張、政治趣向と国籍や民族性は殆ど関係がない。「こう考えるのは、在日韓国人だから。中国人だから」というような無知は、「在日韓国人や中国人はこう考えるに違いない」という偏見の裏返しであり、籠池氏がこれにこだわる限り、彼は教育者に相応しい思慮や知識を欠如していると言える。
 
籠池氏が人種差別主義者かという判断は、多くの人が疑いを持つだろうが、彼の信条に共感するナショナリストには「ただ事実を述べているに過ぎない」と映るだろう。
 
自分で意識しているか、いないかによらず、誰でも、他人種や他国籍への『偏見』を持つ事が多かれ少なかれ、あるだろう。こうした無知を基にした偏見を、実際に他人種や他国籍人と関わることよって解消する人もいるが、直接の関わりから得た体験こそ「特別例」と捉え、「偏見」を揺るがない「事実」であるかのように固執する人もいる。後者のような人々にその偏見や差別を指摘しても「これは差別なのではなく、事実を述べているに過ぎないのです」と悪びることがない。
 
実際、KKKのメンバーや白人至上主義者でさえ「自分は人種差別主義者ではない」と主張し、「ただ異人種間の分離主義を主張しているに過ぎない」と主張する。誰が言いだしたかは知らないが、日本人ナショナリストの間では「韓国人を見たら泥棒と思え」等のレトリックが「事実を反映しただけで、人種差別ではない」と開き直られている。
 
論理や事実の客観的把握ではなく、感情的な憂さ晴らしや他者への憎悪による一体感を得る為の言論は、一時の感情的高揚をもたらすだけで、健全な国家や社会の建設の為に何らかの良い影響を与えることはない。却って、論理的な思考を妨げ、感覚を頼みとした排他的極論を生むだけだろう。
 
排他的ナショナリズムは、自らが敵とするグループへの憎しみや偏見によって一致し、集合体の精神性に自分自身のアイデンティティーを重ね合わせているだけだ。
 
籠池氏の文書は、本人が意図したか否かには関係なく、明らかに差別的だし、思慮の浅い、低俗な理屈の羅列ばかりである。勿論、中国の軍事拡張主義、人治主義といった、氏の懸念の全てが的外れなのではない。しかしながら、懸念への現実的対処は、暴論や極論では決してできない事を、大人であるならば認識する必要がある。
 
私は、海外からこうした日本の様子を眺めているが、日本が真に尊敬に値する国になる為には、こうした排他的極論への批判が『保守派』の間から出るか否かによると考えている。その先行きが明るいとは言えない。