異論との共存

アメリカにおける保守派、リベラル派の間の論争でも似たような傾向があるが、多くの人々は、自分をリベラル派、民主主義者、また言論や思想の自由を護る自由主義者と自負していながら、自分の意見とは違う意見や価値観を受け入れ、それに敬意を払う事が出来ない。異なる見解を持つ人々に対して、「彼らは道徳的、及び倫理的な欠陥を持っている」で片付けてしまうのだ。「金銭が絡んでいるからだ」「自分の利益を考えて、だろう」「正しい情報を得ていないのかもしれない」などとは、まだ好意的な方だ。純粋な意味で、人というものはそもそも独立した考えを持つものだし、他人にもそれぞれ自分とは違った良心、或いは倫理観を持ち得るのだが、多くの人々は、他者が良心や論理に従って、しかも相反する考えを持ち得る事を受け入れられないのだ。

『主戦場』でも見られたような最近の日本の左右派、及び日韓の論争を聞いていると、以前私がロサンゼルスにおいて行なった、あるインタビューを思い出す。

2014年、私はロサンゼルスにある日系人とほかのアジア人のお年寄りの為に建てられた『リトルトーキョー・タワー』に住んでいる韓国系の方に、2時間半にわたるインタビューを行なった事がある。この方は当時、タワー内の日本人と韓国人が、調和して共存できるように委員会を作っている方だ。

「文化の違いによってたくさんの諍いや難しい事が起こったりします。」彼は言った。「例えば、韓国人の住民は、煙や匂いが廊下へ流れるように玄関を開けて料理をしたいのです。(規則では禁止されている。)それを日本人が嫌がります。」

「そう言った諍いはどう解決なさるのでしょうか?」

「そう言った場合は、我々は日本人の方に、『大目に見てやってください』と言うことにしています。でなければ共存なんて出来ないでしょう?違いはあっても受け入れないと。」

 

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また彼は、『非常に腹立たしい記事』を見せてくれた。この記事は、廊下の掲示板に張ろうとしている日本人男性から彼が奪い取ってきた物のようだ。

グレンデールの慰安婦像の撤去を求めるチラシだった。

「これは本当に腹立たしい記事です。」彼の声は大きくなった。「日本人の住人がこういう事をするから、調和が得られないんです。」

『組織的な慰安婦強制連行は無かった』という記事の話題が彼を怒らせた。心臓発作や脳溢血が起こるのではないか、或いは彼の怒りの収集がつかなくなるかもしれないという危惧を感じ、私は彼が落ち着くように話題を変えた。

この92歳(当時)の老人は、民主主義を信じると言う。彼によれば、北朝鮮だけでなく、韓国も本当の民主主義国家ではない。韓国には政治腐敗が多く、その為に彼はアメリカに移住してきたらしい。

「少し前、民主主義を信望していらっしゃると仰いましたね。民主主義の政治形態を信用なさると言うことですか?」

「ええ。そうです。」

「民主主義の基本精神を信じなさる、と言うことですね?」

「その通りです。」

「韓国は民主主義国家ではないと仰いますね。」

「はい」

「では、民主主義国家の基本である言論の自由についてはどうお考えになりますか?」

「大事な美徳ある価値です。韓国は言論の自由を必要としています。」

次の質問をする前に一呼吸をおいた。

「では、国が言論の自由を伴う民主主義を発展させる時、この記事のような『バカな見解』はどうしたら良いと思われますか?」

彼は、私の質問を期待していなかったのだろう。どもってテーブルを叩いた。「く、国が、本当の民主主義を発展させるならば、こう言った『バカな見解』はなくなります。」

私はいよいよ声を低くして言った。「民主主義国家にはこう言った『バカな見解』がいくらでも出て来るとは思われませんか?」

「いいえ!」 彼は自分の考えが伝わるように、一言一言ハッキリと発音した。「国が真の民主主義国家になる時には、みんなもっと教育を受け、賢くなります。ですからこう言った声は無くなります。本当の民主主義があるところでは、みんな同じように考えるのです。」

 

勿論、習慣や意見の違う人々との共存は、一方だけが我慢をすれば良いものではないし、言論の自由や民主主義も彼の言うようなものではない。この老人を嗤うことは簡単なのだが、では果たしてどれだけ多くの人々が、自分の習慣とは違う人々と共存し、自らの信念に相反する政治的、或いは宗教的見解に対して、落ち着いて意見を聞けるだろう。

違いとの共存は、知識や知恵の無さや倫理観の欠如に依らず、その人の本質、好み、優先順位などにより人々が多種多様の意見、価値観を持ち得る事への受け入れに始まる。たとえ事実関係においては同様の認識をしても、それに対する意見や解釈は違い得るのだ。こうした違いを前提に、どのように違いを受け入れ、お互いを弾圧し合う事なく共存できるのか、その道が探られるのべきであるが、大抵は「中間地点を探す」や「異論のままである事に同意する」、或いは「共通の認識が持てる話題を優先させる」等の『妥協』に辿りつく。

 

前出の韓国人老人を嗤う右派であっても、ナショナリストらの発言を嗤う左派であっても、異論の根底には知識や倫理観の欠如があると考える限り、同じ類である。

彼らには、お互いを嗤う資格は無い。