虐待について、私の経験を語る

栗原心愛ちゃんという10歳の女の子が、父親からの虐待によって殺されという事件で、傷害致死の疑いで逮捕された父親の第五回の公判が開かれたというニュースを読んだ。それに関連した児童虐待に関する記事で、2017年には大阪府箕面市で筒井歩夢くんという4歳の男の子が、母親と交際相手らからの暴行で亡くなり、母親に懲役9年が判決として下されたこと、また昨日のニュースとして、同じく4歳の岩井心ちゃんという女の子が両親からの暴行を受け、低栄養状態で衰弱死しており、両親が逮捕されたとあった。

こうした児童虐待の記事は、探せばいくらでも出てくるのだろう。

幼い子供たちが彼らを守るべく保護者によって殺されてしまった事件が知らされるつど、我々は心を痛め、こうした事が二度と起こらないよう祈るものだが、実際に虐待されている子供に遭遇してもどうして良いかわからないのが本当だろう。せいぜい、自分たちの目撃したものが虐待でない事を祈るばかりだ。虐待をしている親の多くは虐待を認める事は無い。しかも彼らは親権を持った大人として、子供の体にあざがあったとしても、或いは子供が虐待により情緒不安定に陥っていたとしても、自分たちの行ないを弁護し、正当化する事が出来るのだ。被害に遭っている子供が虐待を訴えても、事件にでもならない限り、子供の声が届く事は無い。しかも事件になった時には、既に子供たちは死んでしまっているのだ。

大人たちの社会は、「このような悲劇を繰り返してはいけない」とか「虐待によって失われる幼い命を救わなければならない」と言いつつ、虐待をされている子供たちに声を与えていない。彼らが声をあげる機会を、社会として設けていないのだ。虐待を受けた子供に声をあげる場が少しでも与えられるように、私はある少女の声を文章とする事にした。実はこの試みは2017年から始められており、私はその少女が思い出すままを、まず英語で書きだした。この少女は思いつくままに、時には何時間も語りながら、また時には数か月黙って過ごしつつ、起こった事をランダムに語り出した。この少女の記憶の多くは途切れており、場所や状況や言葉は鮮明に覚えていても、その直前直後に何が起こったのか忘れてしまっていたりする。まるで実際には起こっていない事のように自分の人生を生きてしまった為、嫌なことの多くを意図的に忘れてしまっているのかもしれない。彼女は、それでも、失くしていたと思っていたものが別のものを探している最中に見つかるように、嫌な出来事も別のキッカケで思い出される事があると言う。

これは、そうしてランダムに思い出された少女の記憶の綴りである。そしてその少女とは私だ。

 

一番初期の幼少期の思い出として覚えているのは、父親にタートルネックのセーターを着せられた時の記憶だ。私はセーターのチクチクした素材がクビを痒く刺激するのに耐えられず、「これ、かゆいからイヤ」という類の不満を言った事を覚えている。父親は突然飼い犬に噛まれた人のように、一瞬ひるみ「こいつ、生意気だ」と言い放った。その後、怒りに満ちた父親に頭や顔を叩かれたのか、或いはそれだけで収まったのかは記憶にない。

「生意気だ」「自分勝手だ」という叱責は、私が幼少の頃から、また結婚し、子育てをするようになっても言われ続けた事だ。私は未だにタートルネックのセーターが好きではない。素材によっては首が痒くて仕方ないし、そうでなくても首を絞められているような圧迫感を感じるからだ。チクチクした素材がイヤだという事は、決して「生意気」でも「自分勝手」でもない筈なのだが、私の両親にとっては「親の言う事をきかない」という悪事だったようだし、「親の言う事をきかない」といった悪事は、子供が犯し得る悪事の中で、一番悪い事のようだった。

タートルネックのセーターだけではなく、その他にも「親の言う事をきかない」と言ってしばし叱られたのは食事中が多かった。私は偏食の傾向があり、しかも小食であった。今では贅沢な悩みのようだが、子供の頃は食事時がいつもつらかった。もっと食べるように、何でも食べるように、と言われるのがイヤで、それだけで元々の小食が更に減退するのが常であった。私の母親は、無理にでも私に食べさせようとして、叱ったり、怒鳴ったり、叩いたりしたが、時には「私がご飯を食べきらなければ、神様が来てお母さんを殺してしまう」といった作り話によって食べさせようとした。ある時は、ウナギの美味しいというレストランで、一匹のウナギが私に栄養を付けさせようとして死んでくれたのだけれど、私が食べない為に命が無駄になってしまった、という悲しい話をした事がある。こういった悲しい話をされると私は泣き出してしまい、涙と鼻水でしゃくり上げながら、無理やり食べ物を口いっぱい頬張り、味わわなくて済むようにお茶やお水で食べ物を流し込むのが常だった。
                             
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更に悪い事に、私はたばこの煙や匂いが大嫌いだった。今でも日本でたばこを吸っている人のそばを通り、たばこの煙を吸い込むと、こめかみの辺りが痛くなる。ヘビースモーカーやチェーンスモーカーという人々が一日に何本の煙草を吸うのか知らないが、私の両親は絶えず煙草を吸っていた。二人とも車の中であっても、食事中であっても煙草を吸うので、エアコンの冷風や暖房の温風を逃がさないように窓や扉を締め切る夏や冬は特に嫌だった。小学生くらいになると、窓を開けて吸ってくれるように何度も頼んだが、両親にとって私の頼みをきくという事は、即ち甘やかす事に思われたようだ。両親は、むしろ私の頼んだこととまったく逆の事を行ない、願っても無駄たと思い知らせる事の方が、子供の自我を砕くという正しい躾であるかのように振る舞っていた。

私の家は、母方の祖父母の大きな敷地内にあった。竹森や苔で覆われた手水鉢、白い玉砂利を布いた日本庭園を持つ和風建築であり、大きな家だった。隣の白い洋館には母の妹夫婦が住んでいた。私の両親は、バツとして食べ物を与えないというような、躾という名目の虐待はしなかったが、怒鳴られたり、叩かれる事は頻繁にあった。幼稚園のまでの頃は、両親が叩こうとすると、私はすぐに祖父母の家に走って逃げたようだ。祖父母は私を庇い、特に祖父は私の両親を厳しく咎めたようだが、母は「私だって叩かれて育てられた」と言い返していた。母が少しでも反抗的な態度をとったり、怠慢な態度を示した場合、祖父から酷い体罰を受けて育てられたことは事実のようだが、私の母親は、体罰よりも言葉の暴力を加える事が多かった。叫んだり、罵ったり、いかに私さえ存在しなければ母の人生がマシになるか、時には「死ね!」と怒鳴ったり、「ブス!」と罵ったりして何時間も過ごした。その間に、正座を崩したり、ため息をついたり、反抗的な態度を少しでも見せれば、火に油を注ぐだけだった。7歳くらいの頃には「私さえ生きていなければ、みんな幸せになるのに」という思いが私の中にすっかり定着していた。

それでも私は母が大好きだった。母親を好きでない子供などいるのだろうか。私にとって母親は、明るく輝く太陽のようで、叩かれても力の限り尻尾を振って飼い主を迎える子犬のように母親を慕っていた。きっと母親には、私の選択的記憶によって思い出されないだけで、楽しい面、或いは優しい面があったのかもしれない。私は母を好きだった分、母が私のように悪い子供によって不幸になる事が申し訳なく、悲しく感じられた。

ところが私の父親との関係は、先のタートルネックのセーターの思い出と、もう一つの奇妙な思い出とに始まっている。それは私が4歳か5歳くらいの事だったと思う。夜、布団の中で、父親に裸の胸を吸われている思い出だ。子供ながらに奇妙なもの、得体の知れない恐ろしいものを感じていた。当時一つ年下の弟が母に付き添われて東京の病院に入院していた為なのか、家には私と父しかいなかった。それ以降始まったのか、或いはそれ以前から感じていたのか定かではないが、私は父の傍では居心地の悪さしか感じた事が無い。幼稚園や小学校低学年の頃父親と入浴していても、私は父親に裸を見られるのがイヤで、常に背中を向けていた。父はそうした態度が気に入らないらしく、怒鳴ったり、叩いたりしたが、それでも私は父親に裸の姿を見られるのをイヤがった。父の膝に座らされた時にも、言葉では表現できない居心地の悪さを感じた。父とは廊下ですれ違うのもイヤだった。すれ違いざまに胸やお尻を掴まれた記憶があり、その時の父の下卑た笑い顔は今でも思い浮かぶ。私が感じていた得体の知れない怪物に対するような父への恐怖感、不信感は、説明のしようが無かった。

この怪物の正体は、私が中学生の頃、ハッキリとされた。自分のベッドで寝ていた私は、何故か隣で寝ていた父の指が私の下着に伸び、性器を丹念に触り始めた事で目が覚めた。私は恐怖で声が出なかった。しばらくして父は、ゆっくりと自分の手を引っ込めた。その間どのくらいの時間が過ぎたのかはわからないが、恐らくほんの1分以内の事だったのだろう。しかし私には永遠の時間が流れたようにも感じられた。翌朝私は、母にその事を報告した。母は笑って「お父さん、寝ぼけていただけでしょ」と受け流し、それ以上何も言わせなかった。それ以上追求すれば、母が私の「思い違い」を自惚れだと告発し、罵倒する事が分かり切っていた。私は黙ってそれ以上は言わなかったが、納得はしなかった。父は寝ぼけていなかった。私が夢を見たのでもない。私が幼少の頃からその存在を感じていた化け物は、確かに存在していたのだ。私は、「お母さんが信じてくれなくても、みんな信じてくれなくても、何が起こったかは私が知っている。私は絶対に嘘をついていない。これからは私が自分で自分を信じてあげなくちゃ」と自分自身に言い聞かせた。

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