チルチル、モコ、ミルク

ミチルがまだ生きていた頃、小学校からの帰り道、私は男の子数人が、段ボールを囲んでワイワイと騒いでいるのに出くわした。何をしているのだろうと、私は友達と覗いてみた。段ボールの中には小さな子犬が三匹いた。一匹は黒く光る短い毛の子犬で、もう一匹はヨークシャーテリア―のような子犬だった。三匹目がどんな子犬だったか、今となっては思い出せない。子犬たちは鼻をクンクン鳴らしながら、尻尾をちぎれる程振っていた。男の子たちは、これらの子犬を誰かから譲り受けたらしいが、これから近くの川に投げ入れると脅していた。私はこの子犬たちが川でおぼれる様子を想像し、何とかしてやりたくなった。

躊躇いがちに、「棄てるんだったら、ちょうだい」と言ってみた。勝手に生き物を拾ってきたら、母は何と言うだろう。そうでなくても家には既にミチルがいたし、私は普段から叱られてばかりだった。ただ、川に捨てられる運命の子犬たちを見捨てる事は

「いいよ。どれでも好きなの取って」

男の子の一人が選ばせてくれた。私は、毛の長い、ヨークシャーテリア―に似た雄の子犬を選んだ。子犬というのは、どうして誰にでもすぐ懐くのだろう。グレーと茶色の毛を持つ子犬は、小さな子供が母親の腕の中で安心するように、私の腕の中に落ち着いた。

私の予測に反して、母は子犬を飼う事にすぐ承諾した。子犬はチルチルと名付けられた。

チルチルが飼われてからすぐに、ミチルが轢殺されてしまった。父がミチルの墓に置いたツナの缶詰は、チルチルが平らげた事を覚えている。父は私がミチルの墓の前にうつ伏して号泣していた時、さすがに可哀想に思ったのだろう。胡坐をかき、タバコをふかしながらも涙を浮かべていた。

今にして思えば、父は自分が理解できる範囲の事においては人間的な行動をする事が出来た。但し、それ以外の事については、一々母から説明を受けなければ、何が正しい行動で、何がそうでないか、全く判断できないようだった。恐らく父は、戦後の極めて貧しい家庭環境において、倫理を教えられたり情緒的成長を遂げないまま大人になったのではないだろうか。

父は母のように泥酔して他人に迷惑をかけたり、よほどの事が無ければ突然理不尽な怒りを他人にぶつける事は無かった。母のように散財したりせず、実によく働いた。父だけが深夜を過ぎても働く事はしばしあった。以前も書いたが、祖父には教育、教養があり、祖父は常に紳士的であったが、働く事をしなかった。そして父は祖父の正反対であった。経済的に家族を養うという義務感は、父が祖父から望めなかった事だが、父は自らの飢えを通して、自分は家族を飢えさせる事をしないと決意したのではないだろうか。その通り、私たちは経済的に裕福だった。

チルチルを飼ってから、何故かもう一匹の子犬が飼われる事になった。母が知り合いから二匹の雌の子犬を譲り受けたようだ。母は、二匹いたうちの一匹は我が家が引き取り、もう一匹は隣に住む伯母が引き取る事になったと言って、私に好きな方を選んで良いと言った。私は、白い毛がふさふさしていて、とても綺麗な方を選んだ。この子犬はモコと名付けられた。

ミチルが叩かれたり、叱られたりする中、チルチルやモコが暴力を振るわれる事は無かった。恐らく外に住んでいたからだろう。ミチルが死んでしまった後にモコが来てくれた事は嬉しかった。チルチルが穏やかで大人しい性格であったのに対し、モコは神経質であり、好き嫌いがハッキリしていた。チルチルとモコは成犬となり、子犬を設けた。子犬はだいたい4匹くらい一度に生まれた。

チルチルとモコという両親に囲まれて育つ子犬たちは、これ以上は無いというほど可愛らしかった。小さな子犬が母親であるモコの乳を吸ったり、父親であるチルチルのもとで眠ったりじゃれ合う姿は、いつまで見ていても飽きなかった。彼らの小屋は、一階のトイレの窓の下に設けられ、黒い鉄のフェンスで囲われていた。私がトイレの窓から首を出す度に、彼らは家の壁に前足で寄りかかり、小さな尻尾がちぎれてしまうくらい早く振った。私が「チルチル」「モコ」と呼ぶと、それぞれ遠吠えのように吠えた。子犬は大抵、白か、茶色、黒だった。はじめてチルチルとモコの間に生まれた時、私と弟には、それぞれのお気に入りがあった。私は睫毛が長く、ウエーブがかった白い毛のマルチーズのような子犬を「ミルク」と名付け、可愛がった。弟はミルクよりも小さい白い子犬を可愛がった。子犬たちは次々に別の家庭に貰われて行き、最後の二匹はミルクと弟のお気に入りとなった。
                                      f:id:HKennedy:20200422005842j:image

ある時、従姉がこの二匹のうちの一匹を引き取りに来た。この従姉は母の一番上の姉、祖母の長女であった洋子(仮名)の長女である。従妹は母親であった洋子に似て、目鼻立ちがハッキリしており、とても綺麗だった。どちらの子犬を従妹にあげるのかの判断は、私と弟に任せられた。私も弟も、自分が可愛がってきたお気に入りを引き渡す事はしたくなかった。母は決められないならジャンケンをして、負けた方の子犬をあげなさい、と言い渡した。私たちはそれぞれ必死の思い出、ジャンケンをした。最初は引き分けだったが、次に弟が勝った。

「勝った!」と喜んだ弟を前に、私は目の前が暗くなったような気がした。声が出なかった。母は弟が勝った事を知り、「じゃあ、ミルクをあげなさい」と命じた。弟が喜びでホッとしている一瞬の隙をついて、私は弟の子犬を抱き上げ、従姉に渡した。事の顛末を全く知らない従姉は「この犬を貰っていいの?」と喜んだ。私は「うん。良いの。貰ってあげて」とだけ答えた。あっけに取られた弟は、自分が騙され、子犬を取られたショックに泣き出した。母は、泣き続ける弟をしばらく慰めた。弟は従姉が帰ってからも、自分の部屋の真ん中に正座し、泣き続けていた。その姿を見て、さすがの私も悪い事をしたと思った。弟の頭を撫でて、出来るだけ謝り、慰めようとした。何年かあと、私は弟にした、このひどい仕打ちを謝りたくなり、「あの時の事、覚えている?」と聞いた事がある。弟は全く覚えていなかった。彼の記憶に残っていなくても、私の記憶には、日が暮れても自分の部屋の真ん中で涙を流し続ける弟の小さな姿がある。


                                f:id:HKennedy:20200422002907j:image 

 一階トイレの窓から見下ろすと、チルチル、モコ、ミルクたちはいつも大喜びで、自分の名前が呼ばれる事を待った。犬たちは無償の愛そのものだった。すっかり惨めな気持ちになっている時でも、犬たちの喜ぶ姿を見ると、私が少なくとも彼らには愛されている事、喜ばれている事が伝わってきた。母に「死ね!」「出て行け!」と怒鳴られたり罵られると、私は犬小屋に出かけ、彼らによって大歓迎され、慰められるのが常だった。泣いている私の顔を彼らは我先にと舐め、涙を拭った。私は泣きながら、彼らの頭を撫で「いい子だね」と話しかけるのが精一杯だったが、犬たちにとっては、私がいるだけで大感激だったようだ。

私はフェンスに囲まれた犬小屋の辺りで、夜星を見る事が時折あった。もちろん、母に叱られ、家から放り出された為に、外に佇むしかなかったのだが、一人でじっと星を見上げながら、色々な事を考えた。怒鳴られたり、叩かれたりして悲しい現実も、本当は夢の中の出来事ではないだろうか。それとも空の遠くには、母がいつか話した神様がいるのかもしれない。母は私が悪い事をしたり、嘘をつくと、「神様が見てます!」と言って脅した。それまで私は何度となく「人が死ぬと神様になる」と教えられてきた。実際、家の仏壇には「ご先祖様」と呼ばれる人たちの古い写真が幾つもあった。「ご先祖様」たちは、時として「仏様」とも呼ばれていた。「神様」呼ばれる事もあった。ところが私には、死んだ人である筈の神様になぜ目が見えるのか理解できなかった。一度その疑問を母に聞いた事がある。母の答えは覚えていないのだが、その時に、何となく神様と仏さまは違う人なのだと感じた。神様の事については、どこにいるのか、誰なのかもわからなかったし、それ以上その話をしなかったのだが、誰もいないのに、いつも見ている人である、というふうに漠然と理解していた。そして叱られた後、一人で悲しく夜空を見上げていると、神様という存在が、実は今も見てくれているかもしれないと微かに思えたのだ。そして神様の見方は、父や母の見方とは、うっすら違う気すらした。

そうした夜、チルチルや、モコ、ミルクらは、叱られて家の中に入れてもらえない私を、しばらく天使のように囲んでいた。

家族の中でのヒエラルキーで私が一番下に位置していた事は以前にも書いた通りだが、ミチルが私より少し低い位置であったように、犬たちも私の下に存在していた。おぼろげな記憶によれば、犬小屋のあった一階トイレの外は、以前は地面だった気がするのだが、どういう訳か父がある日、そこに白いセメントを敷いた。地面だと、雨の日に犬小屋の辺りがぬかってしまうという配慮だったのだろうか、或いは雑草が生えて仕方がない、という中での考えだったのだろうか、今となっては確かめようがない。そのセメントが新しいうちは、確かに改良に思われたのかもしれない。しかし犬小屋の辺り一辺にセメントを敷くという策は、犬たちのフンや尿が行き場なくそこに溜まり、やがては犬や犬の鎖に付着するしかない現実にの前に、全くの悪策に思われた。

三匹の犬を飼っているものの、私たちは、彼らを散歩させたことをしなかった。小学生であった私は、犬が散歩を必要としている事すら知らなかった。犬たちの世話をしなさいと言われても、母が期待していたのは、時折エサと水をやる事だけだった。散歩もさせてもらえない犬たちは、毎日毎日、セメントの上で用を足すしかない。雨が降れば、尿もフンもセメント一面に広がり、これらを避けて歩く事は不可能となった。夏の湿った空気で蒸されたフンや尿の匂いも、ハエや蚊にとっては良いだろうが、潔癖症の私にはつらいものがあった。しかも散歩をさせてもらえず、鎖に繋がれた犬たちは、時折鎖を繋げたポールに絡まり、身動きができない状態で横たわっている事があった。何とか絡まった鎖を解き、助けてやりたいと思うのだが、この頃の犬たちは中型犬と成長しており、子供であった私以上に力があった。普段散歩をさせて貰えない為、エネルギーが有り余っているのか、糞尿でまみれた鎖の絡まりに少しでも余裕が生じると、また急に動いて絡みを解こうとする私の指を締め付けたり、動いた拍子に私を押し倒す事があった。糞尿で汚れ切った鎖に指を挟まれたり、足の踏み場もなく汚れたセメントの床に押し倒されると、いくら犬が大好きと言っても、さすがに悔しく、泣きたくなるのだった。

私には、大好きな犬たちの為であっても、出来ない事ばかりだった。彼らの食べ物は私たちの食べ残しであり、時おり既に腐ってひどい悪臭を放っていた彼らは獣医に診せられる事なく、蚊の多い夏にも薬を与えられなかった。水やりですら、時には忘れられたり、省かれたりした。しばらくすると彼らは、セメントで覆われた犬小屋から、それぞれ一匹ずつ、別の場所へ移動させられた。家から隣の叔母の家に行く途中の階段から見える位置にミルクの小屋が建てられ、そこから少し離れた位置にチルチルの小屋が建てられた。モコは一匹だけ、更に離れた位置、家からも途中の階段からも見えない位置に隔離された。私は学校に行く道に時折階段を通って行く事があり、その時にはミルクとチルチルの姿が見えた。彼らは私の姿を見ると喜んで尻尾を振り、関心を引こうと吠えた。モコは彼らの鳴き声を聞き、私の近い事を知ったのだろう。独特の遠吠えのような吠え方をした。私は彼らを可哀想に思ったものの、エサをやったり、新しく水を入れてやったり、鎖に絡まっている姿を見れば助けてやったり、時折彼らの頭を撫でてやる以上の事はしなかった。恐らく当時の私は、自分自身、打ちひしがれた気持ちを抱え、毎日過ごしていたのだろう。

ある夏の朝、私はどういう訳だか、ミルクが病気であり、死にかけている事を感じた。なぜそう感じたのか記憶に無いのだ、夜明けよりも早く目が覚めた私は、ミルクのもとに行った。ミルクは静かに地面に横たわっており、私の声を聞くと、顔を上げずに尻尾だけを振った。

私はミルクを鎖から外し、両腕に抱え、白い玉砂利の敷かれた庭の長椅子に腰かけた。ミルクは鳴く事も、動く事もせず、時折私を見ては尻尾を振ろうとした。朝日がミルクを金色に照らしてゆく間、私はミルクを撫で続けた。ミルクはゆっくりと、私の腕の中で、そのまま息を引き取った。私は大粒の涙をミルクの白く、汚れて、絡まり切った毛の上にいつまでもこぼしていた。世界中から音が無くなってしまったように、或いは音の無い世界に一人残されたように感じた。どれ程大声で泣いても、それが音にはならないのだ。ミルクの黒い目を閉じてやりながら、心の中で私はミルクに謝っていた。私が無理やりにでもミルクを引き取る事をしなければ、ミルクはもっと幸せに、長生きしたに違いない。私さえミルクを可愛がらなければ、ミルクは幸福でいられたのだ。これはミルクに限った事ではない。チルチルにせよ、モコにせよ、彼らがよそへ貰われていった犬たちと比較して短命であった理由は、私が引き取ったからなのだ。私は何という可哀想な事を、犬たちにしたのだろう。

私は何かがミルクの死と共に死んでしまったように感じた。私は自分自身にこう言った事を覚えている。

「私はもう、こんなに悲しい思いには耐えられない。これはもう、私に耐えられる悲しみではない。」

それから私は、その日の事を何一つ覚えていない。その日の事が、小学校高学年の事だったのか、或いは中学校に入った後の事だったのかの記憶すら無い。その後、チルチルとモコはどうしていたのかも、全く記憶に無い。ただ何年かした後、母が「モコが一番長生きをした」と、何かの拍子に言った事だけを覚えている。私は余りにもつらかったミルクの死によって、残されたチルチルやモコに全く関わらなくなったのだろうか。或いは、それからの人生そのものを、あまり記憶に残らないように、他人事のように生きてきたのだろうか。

いずれにせよ、その後一匹だけで生きただけではなく、一匹だけで死んでゆき、ミルクが死んだあとの記憶すら刻んでもらえなかったチルチルとモコの哀しさを思うと、およそ人が考えつくどのような慰めの言葉も、私には虚しく感じられてしまう。

 

(5/12)