恐怖の日々

幼少の頃の私は、怖い事ばかりだった。私を怖がらせたのは、両親や大人に叱られる事ではなく、母親に見捨てられる事だった。幼少の頃のベッドタイム・ストーリーと言えば、夜、寝る前の読み聞かせだが、私の母はその時間、「十五夜お月さん」(作詞:野口雨情、作曲:本居長世)をできるだけ悲しそうに歌って私を泣かせるのが好きだった。

 

1 十五夜お月さん 御機嫌(ごきげん)さん
  婆(ばあ)やは お暇(いとま)とりました

2 十五夜お月さん 妹は
  田舎へ 貰(も)られてゆきました

3 十五夜お月さん 母(かか)さんに
  も一度 わたしは逢いたいな

母は歌詞の説明を、出来るだけ私の状況に似させ、「妹は田舎へ貰られてゆきました」という個所を「弟は田舎へ貰られてゆきました」と変えて歌い、この少女は意地の悪い父親に虐められて過ごす中、もう二度と会えない母親を恋しく思うのだと説明するのだった。私は母を失う恐怖感と悲しさで大泣きしてしまうのが常で、穏やかに眠りにつくどころではない。「ママ、死んじゃいや」と声をあげて泣き出す私を、母は満足そうに見つめながら、ただ黙って眠るように言いつけるだけだった。

また幼稚園の行事でリンゴ狩りの遠足があり、母子でどこかのリンゴ農園に出かけた記憶がある。不思議な事に、幼稚園の記憶は私には殆ど無い。私が覚えているのは、帰りの電車の中で、駅のプラットホームで売っているお弁当か何かを買いに、母が電車から降り、発車のベルが鳴り、ドアが閉まっても戻ってこなかった記憶だ。母は直前に、電車のドアが閉まるまでに母が戻って来られなければ、私は母ともう二度と会えなくなると説明していた。私は恐怖で一杯になり、どうか電車から降りないでほしいと頼んだのだが、母はすがる私の手を振り払って電車から降りてしまった。声も挙げられない恐怖の中、私は母が発車のベルが鳴るまでに電車に戻ってくれる事を願い、ただじっとしていた。ところがベルは鳴り、母が戻って来ないまま、電車は発車してしまった。その後何が起こったのか、私は全く覚えていない。何の事件にもならなかったのだから、恐らく母は発車の前に電車に飛び乗ったのだろう。その上で、しばらく私の様子を伺っていたのではないだろうか。母はこのように、自らの行動で私を怖がらせ、幼い私が泣きながら母にすがりつく姿を楽しんでいた。必死にすがる子供の姿を見る事で、自分への愛情を再確認していたのだろう。

私が小学生の頃になると、母に見捨てられたらどうしよう、という恐怖感は、「私は既に見捨てられている」という諦めに変わる。私の両親は、そのころ夫婦喧嘩のたびに、離婚したら誰が誰を連れて出て行く、という言い争いを始め、口論に際して常に優勢であった母は、必ず一つ年下の私の弟を指し「私はこの子を連れて行くから」と言い放ち、父は「じゃあ、こいつはどうするんだ」と私をあごで指すのだった。

「そっちで面倒を見ればいいでしょ」

母親は、まるで私が口論の原因であるかのような顔で私を睨みつけるだけだった。父親は貧乏くじを引いてしまった、という顔でちらっと私を見るのだが、私はいたたまれなくなり、ケンカに気付かない振りをして下を向くのが精一杯だった。
             
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それでも母が父との口論の末、本当に家を飛び出したことがあった。母は私の弟の手を取り、「私はこの子を連れて行くから」と言って、簡単な荷造りを始めたのだ。私は恐怖感と悲しさで一杯になり、小声で「私も一緒に行きたい」と懇願した。母は厳しい顔つきで「お前はここに残りなさい。連れて行かないから」と、まるで当然の事であるかのように、ぴしゃりと言い放った。弟の方は、どこかに遊びに行くかのように、楽しそうに母の言う事に従っていた。母は弟の手を取り、家の坂を下って行った。当時住んでいた私の家は山の中途にあり、母と弟が坂を下っていく様子がしばらく見えた。だんだん小さくなっていく二人の姿を見つめながら、私はじっと庭に立ち尽くしていた。黙って泣いていたのか、声をあげて泣いたのか、今では思い出せないが、まるでそこは、音の無い世界のようだった。泣いても叫んでも何も変わらない、何の慰めの声も無い世界だった。晴れた日の事で、遠くには山々が青く見えた事を覚えている。二人の姿が見えなくなった後も、私は青い山脈を見つめて泣いていた。

ところが母と弟が別居するに至らなかったのだから、二人は何時間か経った後、家に帰って来たのだと思う。母とすれば、実際に飛び出る事で、何か感情的にスッキリするものがあったのかもしれない。父ともすぐに仲直りをしたのだろう。私に対しては、抱きしめるでも、慰めるでもなく、何事も無かったかのようだった。弟はどこかのお店でお菓子を買って貰い、無邪気に楽しんでいたらしい事を、母が何年か後、笑って話していた。

一度爆発してしまうと、母の怒りは何時間も何日も続いた。母は私が泣く事をとても嫌がった。恐らく自分が非難されているように感じたのだろう。叱られて涙を流す事は、被害者のように振る舞う行為であって、即ち、母の考え、ルールや躾の仕方に反抗し、母を加害者として見做す行為と受け取られた。怒鳴られたり、叩かれたりして私が泣いてしまうと、母はいよいよ怒りを倍増させ、怒りの期間も延長された。であるので、私は出来るだけ泣く事を我慢した。何が原因であっても、涙を流せば罵倒されるのが常だった。

いつからなのか覚えていないのだが、私の両親は私の外見を醜いと嘲り、罵るようになった。「お前みたいなブスは、誰も好きになってくれないから」と、時には怒りながら、時には嗤いながら繰り返した。二人は口論の際に、私の醜さを以て相手を批判したりもした。「あの子が不細工なのは、あんたに似たからでしょ」と言い合った。しばらくすると二人は、言い争いそのものよりも、私を笑いものにする事を楽しんだようだった。こうした辱めは、一人の女の子であった私には悪夢のようだった。私は今でも、誉め言葉であっても、何であっても、外見についての会話を居心地悪く感じ、出来るだけ早くそういう話題を終わらせたくなるのだが、特に思春期を迎える中学生、高校生の頃は、父の視線がイヤだった。父はしばし、通りすがりに私の胸やお尻を掴んで下品に笑ったが、父のニヤニヤした笑いは、そうした望まない接触が私のせいであるかのように思わせた。体形がより女性らしく変わっていく事は、自然な成長の結果なのだが、父の下品な笑いには、まるで私が父を性的に誘惑したいが為に体形を変えているのだと訴える卑しさがあった。私には父の卑しさがたまらなくイヤだったが、父に触れられる事を拒絶すれば、私は自分の醜さを認識していない自惚れ屋だとからかわれるので、あまりハッキリと拒絶は出来なかった。私は、女性として存在する自分がイヤだった。

 

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