私の怒り

長女は香(仮名)と名付けられた。香は利発で、機嫌の良い子供だった。顔は夫に似ていたので、穏やかな、おひな様のような可愛らしさがあった。子猫のようなソプラノの声で笑ったり、泣いたりした。声を聞くだけで、いつか読んだサン・テグジュペリの『星の王子様』に出てくる「五億の鈴が転がるような笑い声」を思い出した。香は清い天使のようだった。私はベビーカーを押しながら、天使に世界を案内している気持ちで、「小鳥さんが鳴いているね」「これはお花なの。綺麗でしょう。良い匂いがするでしょう。神様が作った世界は、きれいでしょう。」と教えていった。
母も、初孫である香を可愛がった。母は香を色々な人に見せたかったようだ。よほど可愛いかったのだろう。ところが私も、当時の夫も、自分たちの生活のペースを崩したくなかった。私たちのスケジュールは、まず夫の仕事のスケジュールに合わせられ、また香の睡眠や食事のスケジュールに合わせられていた。ところが私たちのアパートから徒歩で二分くらいの距離に住む母は、こちらの都合にお構いなしでやって来ては香と長く時間を過ごそうとした。もちろんそうした行為は、初孫を持った親として常識を逸脱したものとは言えない。ところが私は、初めての子供をとにかく大事に育てよう、私が育った環境とは出来るだけ異なった環境で育てようと必死だった。虐待から遠ざかる為には、なるべく父と母の影響を受けずに育てるしかないと単純にも考えていたのだ。
私は母のくだけ過ぎた言葉使いを嫌った。母が香を笑わせようとして、面白い音を立てたり、ふざけたりする事を嫌った。私は、母が香をからかったり、私の夫の悪口を言ったり、悪い言葉使いをする事を、一切許さなかった。「香はうちの大事な子供だから、そういう事は言わないでちょうだい」とハッキリ言った。もともと母は、自分に対する批判は一切受け付けられない性格だったので、突然始まった私の『独立宣言』には、当然のごとく逆上した。私は明らかに母とは違うやり方で子供を育てたいと主張し、暗に母のやり方を否定したからだ。母は、親としての自分の在り方が否定されたと感じ、さぞ悔しかっただろう。母は何度か怒鳴ってきたが、私は既に家を出ていたし、経済的にも実家の世話にはなっていなかった為、母が怒ったところで、香に会えずに困るのは母の方だった。私は母が怒りを爆発させ、しばらく顔を見せなくなる度にホッとした。

                                  
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私は母との距離だけではなく、父との距離の取り方にも困った。私が香を産み、父が祖父になったのだが、それでも父に対して抱いていた性的な不信感が無くなったわけではない。夕飯に招かれ、実家に夫と香を連れて行った時に、父が香をお風呂に入れたいと言い出した事があった。香は1歳になるか、ならないかの子供だ。それでも私は父を性的に信用できなかった。なぜ信用できないのか、その説明も出来なかった。当時の私の夫は、そういった事は一切知らされず、私の両親に関わっていた。私は母にも説明出来なかった。母はきっと怒り、事を大きくするだけだと思われた。私はどうして良いかわからなかったが、意を決して、自分も一緒に入ると言い出した。私は父に対して一瞥もせず、ひたすら香に集中した。父は、結婚して子供を産んだ娘が全裸になって一緒に風呂に入っている事を、何故か愉快に思ったようだ。面白い事であるかのように笑い、私をからかった。私は涙が出るほど悔しかった。悔しかったが、こうでもしなければ香を守れないと必死だった。
私は香を守る為に、両親との距離をとろうとし、その為に母との諍いが耐えなかったのだが、事情を知らない私の夫(当時)は私がなぜ絶えず母を怒らせているのか、理解できなかった。何が原因か覚えていないのだが、ある夜、母が怒りの電話をかけてきた。母は酔っていたのだろう。一旦怒鳴り散らして電話を切ったのだが、一時間程して再びかけてきた時には、夫が電話に出た。お風呂から上がったばかりの夫は、何が何なのかわからないまま、一時間近く母に怒鳴られた。母はこれで私たちと縁を切るという趣旨で電話を切った。
私は、初めて夫に事情を話した。夫は騙されたと感じたようだ。母娘は仲良いものと信じて、夫は私の実家近くに新居を設ける事にした。夫は「私が付き添っていますから、大丈夫です」という母の言葉を信じて、出産の待合室から退室した。「産後は、面倒を見てあげるから、実家でゆっくり休みなさい」という勧めを信じて、夫は私たちを預けた。ところが私の両親は、気軽に頼れたり、安心して関われる人々ではなかった。夫は心底驚き、裏切られたように感じ、私の父親と一対一で話をしようとした。夫は父を訪ね、「お義母さんが怒られているのですが」と切り出し、私たちの立場を説明しようと試みた。父は夫の話を聞き、私たちの言っている事に無理は無いと認めたようだ。ところが父は「そちらの気持ちはわかりました。ですがこの家では、正しいとか間違っているとかではなくて、お母さんが怒っていたら、誰も何も出来ません」と言い、夫を唖然とさせた。
私たちはその後、母から干渉されずに一年以上過ごした。誰かが自分に対して激しく怒っているという事実は、決して愉快なものではない。それでも精神的にはいくらか楽になった。
私が第二子を妊娠し、安定期を迎えた頃、実家から電話があった。電話をかけてきたのは、舞ちゃんの母親である叔母だった。私が実家に全く顔を見せず、よって香に会う機会を奪われた母が、叔母に頼んで、私の誤った考えを正そうとしたらしい。叔母はまず、母が怒っている事を述べ、近くに住みながら一年近くに渡って実家の両親を無視する事は異常だと訴えた。その上で私の気持ちを知ろうとし、「どう思っているの?」と聞いた。私は「今まで私は言わなかった事だけれど」と、私の家は普通の家ではない、普通の親子関係ではない、私は父には性的虐待を受けてきたし、母からは精神的虐待を受けてきた、と述べた。
叔母は、あまりにも予期していなかった返答に、言葉を失ってしまった。(母が怒っているからと言って、それが一体何なのだろう。私はもうこれ以上、この家が普通の家のようなフリをしたくない)そう考え、私は怒っていた。両親からの仕打ちを我慢するだけではなく、まるで彼らが尊敬や愛情、親しさに相応しい親であるかのようなフリを求められている事に対して、憤りを感じた。私は言いたい事を言い、今までのように、母からの赦しも和解も求めなかった。
叔母は何と言って良いかわからなかったらしい。「そういう事は、知らなかった」と返答しただけだった。私はそのまま電話を切った。全く知らなかった筈はないだろうと思った。母の暴言の数々、癇癪を爆発させる癖、酒乱の習慣など、知らない筈はないだろう。母の性質については親戚で知らない人はなく、叔母もそれで散々迷惑をかけられてきた筈だ。父の事であっても、父が通りすがりに胸を掴んだり、お尻を触ったりする事などは、叔母たちも嫌がっていたではないか。そこから少しでも想像力を駆使すれば、家族という密室の中でそれ以上の行為があった可能性を否定できるだろうか。いいや、ある程度は想像がつくものの、それらが何であるか、相応しい名称で呼んでこなかっただけだ。私は叔母に対しても憤りを感じた。叔母だけではなく、祖父母や周りの大人たち、良識あると思われる『善人たち』にも憤りを感じた。彼らは何かが行なわれているとある程度知りつつ、何の助けも差し伸べてくれなかったからだ。一体、幼い子供が虐待を受けていながら、それを見過ごす彼らの良さに、一体何の価値があるのか。
そのように憤りつつ、いや、これは叔母や周りの大人の責任ではないのだとも思った。悪が彼らから出ているのではないからだ。悪はどこから出ているのだろう。母からなのか。父からなのか。彼らとて、自分たちが何を行なったのか、ハッキリとした自覚はあるのだろうか。
その後何日かして、母から怒りの手紙が届いた。私が叔母に話した内容を、そのまま聞いた事、母の怒りだけでなく、自分の名誉がひどく汚されたため、法的手段に訴えると父も怒っている、と書いてあった。私は母からの手紙をそのままゴミ箱に捨てた。そのまま何か月か過ごし、私は第二子を出産した。

(8/12)