『心の部屋』

中学や高校時代の思い出というものは、その人の一生を温かな思いにする場合もある一方、大人になってからもその人を苦しく縛る場合がある。多くの場合、そうした苦しい思い出は、学生時代のごく一時期に起きた出来事であるにも関わらず、その時期の全てを象徴したり、その他全ての出来事を台無しにしてしまうような力を持っているかのようだ。

勿論、学生時代を楽しく、明るく過ごす人々も多いだろう。私の子供、特に末の息子などは、そういった類いの一人である。ところが殆どの人は、一つや二つのイヤな思い出を抱えたり、「高校なんて、人生の最低の時代だな」と苦々しく思い出す事があるようだ。

私の場合を言えば、どの時代の事を考えても、それなりにイヤな思い出を抱え、あまり良い事は思い出せないうちの一人である。今にして思えば、私にはどのように他人と接するかの知恵が欠けていた。親とすれば、社交などは学校という子供の為の社会に出て学ぶものという考えがあったのかもしれないが、それでも親と子との間で、或いは親が他人にどのように接しているかを通して、予めの良い知識を得られていれば、どんなに大きな助けとなっていただろう。ところが私の場合、親が良い模範を与える存在では無かった為、特に洗練された家庭の子女が通う私立の学校に入学すると、本当にどう振る舞って良いか見当もつかなかった。それどころか、自分がどのように振る舞うべきかわかっていなかった事を、大人になって気付いたくらいである。

以下は私の学校時代の思い出を、思いつくまま正確に記録しつつ、現在の自分の視点を書いたものである。

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私の記憶には幼稚園での思い出は殆ど無い。生前、母親から聞かされた話によると、私はどういう訳か、一度幼稚園を変えている。恐らく母の考えか都合によるのだろうが、一番目の幼稚園の記憶は、どうしても思い出せない。二番目の幼稚園での記憶は、バスの運転手さんが優しかった事と、担任の先生が可愛らしい女の先生で、何故かその可愛らしさを「トマトのようだ」と感じた事、幼稚園の旅行で、電車でリンゴ狩りに行き、途中駅の売店で買い物をしていた母親が発車のベルが鳴っても座席に戻って来なかった事、また年中さんのクラスには「バラ組」や「ユリ組」など綺麗な花の名前のクラスがあったのに、年長さんになると、「ヒマワリ1組」「ヒマワリ2組」と、全てがヒマワリ組となってしまった。当時の私には「ヒマワリ」という花が優雅さの欠片も無い、とても大雑把な花に思え、残念に思えた事を覚えている。

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            『子犬と雨の日の子供達』(1967年 ちひろ美術館蔵)

幼稚園から小学校にどのように移ったのかの記憶が曖昧なのだが、小学校に入ると、自分には大人しい性格と大人しくない性格の二つがあると、ぼんやり考えた事がある。二年生くらいの時に「一年生の時には、ずいぶん大人しかったのに、今はおしゃべりが出来るようになった」と何となく不思議に思えたのだ。尤も「大人しい性格」は、どの学年になっても顔を覗かせ、先生が何か言って、その意味が分からなくて困っても質問できず、また自分の気持ちを説明できないといった弊害を生んでしまった。

私の家は同じ小学校に通う家庭の中でも裕福な家として知られ、母もPTAの副会長であった為か、同級生からは「先生に贔屓されている」とからかわれる事があった。ところが実際には、先生方はどなたも優しい方々だったのにもかかわらず、私にとっては怖い存在であった。

小学校時代の思い出として今の私が不可解に考えるのは、なぜか宿題や美術のクラスの作品を提出できない事が多々あった点だ。

美術の先生は、少し年配の男の先生で、とても穏やかな方だった。先生は私の作るものや描く作品を「これは、いいね」などと褒めて下さるのだが、私にはそうした作品を完成させたり、提出する事が出来なかった。時折、先生からそれとなく「この間の作品、きちんと出しなさいね」と注意されるのだが、結局出さずに済ませる事が殆どだった。私は提出を促す先生を恐れ、なるべく先生を避けて時間を過ごしていた。美術の時間でなくても、先生に声をかけられるのが怖くて、遠くから姿を見つけると、隠れたりもした。手先は器用な方であったし、それなりの良い作品も作れた事があるのだから、なぜ作品を完成させ、提出できなかったのだろう。

またどういう訳だか、洋服の胸元に付けるべき名札や宿題を忘れる事が多々あった。うっかりしていて忘れたのかどうかもハッキリしない。ただ名札の提示や、宿題を答え合わせる時には恥かしさと恐怖感で一杯になっていた事を覚えている。同級生からは「先生に贔屓されている」とからかわれながらも、私にとっては不安感と戸惑いで一杯の時間を過ごす事が多かったのだ。そこまで恥かしい経験をしたのだから、忘れ物が減るかと思えば、そうではない。次の日には、昨日の恐怖など全く経験しなかったかのように、新たな忘れ物をしているのだ。

また小学校時代の思い出として、私はとても不安を感じる子供だった事があげられる。今思い出しても説明の仕様が無いのだが、私の不安感は、給食を準備する時に校内のスピーカーを通して流れてくる「手を洗おう」という歌によって更に煽られた事を覚えている。なぜだか私は給食の時間に泣きたい思いを抱えていた。その衝動を必死で堪えている時に明るく大きな音で流れる音楽が、治っていない傷口に荒々しくまとわりつく動物のように感じられたのだ。私にはなぜ給食の時間が怖かったのか、思い出せない。ただ『手を洗おう』を思い起こす度に、当時感じた、言いようのない不安感がよみがえるのだ。

小学校時代の自分にはそれなりに友達もいたし、成績も良い方であった事を考えれば、何を恐怖に感じ、何に怯えていたのか、説明するのが難しい。ただ、忘れ物が多かっただけではなく、宿題や作品を完成させたり提出させる事が出来なかった事を併せて考えた場合、私は当時、何かの思いで一杯になっており、体はそこに在っても心はそこに在らずだったのではないかと推測する。

こうした学校に関する記憶と関連して、小学校の時代の思い出として、一部分ではあるが鮮明に残っている記憶がある。

ある夏の朝、父の乗っていたバイクの後ろに座っていた弟が、バイク後部マフラーの隙間に足首を挟まれ「熱いー!」という大きな叫び声をあげた事がある。父はバイクを急遽止め、バイク前部に座っていた私は急いで降りた。弟を見ると、弟の足首の皮膚がドロドロに溶け、弟は泣き叫んでいた。私は恐怖で一杯になり叫び声をあげてその場から逃げた。逃げながら「私はこの世界から遠くまで逃げる。これ(弟のケガ)が起こっていない世界にまで逃げて行く」というようなことを必死で考えていた。そしてその後の記憶がスッポリかけてしまっている。私はどのように家に帰ったのだろう。弟は病院に行ったのだろうが、どのように病院に行ったのか、救急車を呼んだのか、父が運転して連れて行ったのか、全く覚えていない。それが起きた場所も、弟の叫び声も覚えていながら、その後の出来事をキレイに忘れている点を考えると、私は一定以上の酷い記憶や経験というものを、随時『今は考えない部屋』という『心の部屋』に、無意識のまま閉じ込めてしまい、その扉を固く閉じてしまってきたのではないだろうか。記憶がスッポリ抜けてしまうような経験は、私の場合それ以降、大人になっても続く。そうした経験の起きた場所や、誰がその場にいたかなどは思い出せても、その直前、直後、何があったのか全く思い出せないのだ。

高校の頃のある日、自分の心の中に、その部屋の存在が意識された事がある。「自分の心のどこかには部屋があり、一定以上のイヤな事がそこに閉じ込められている。私はそこには絶対に近寄ってはいけない」という漠然とした思いだ。私はその時々の自分にとって耐え難い一定以上の経験をその部屋に閉じ込め、「無かった事」にしてきてしまったのだ。そして「無かった事」にされたそれらの経験やそれから来る感情は、時折、私の防衛能力が最も無防備である睡眠時に悪夢として現れ、現在の私が苛まされているのだ。

私は専門的に学んだセラピストでも心理学者でも無いので、こうした経験にどのように対処するべきか、権威を以て他者に助言できる立場ではない。しかしながら自分の経験として考えた場合、トラウマとなるような過去の経験だけでなく、幼少期や学生時代のイヤな体験は、忘れるように努力するよりも、大人として思い出してあげる必要があるのではないかと思う。「イヤなことは忘れて前進しよう」で済ませられるのなら、それで良いかもしれないが、夢にまで見たり、後味の悪さを感じるような経験は、前進する事でそのひどい体験を生き抜いた大人として、思い出し、感じ、言葉にした方が、その時の自分の救いや癒しに繋がるのではないかと思える。

そうした事を考えながら、次回は中学生時代の事などを綴ってみたいと思う。