政治目的を達成させる手段としての歴史
『主戦場』というドキュメンタリーを視聴された方々の反応を見ていると、右派の人々と左派の人々の反応に驚く程の共通点があるとわかる。多くの人は、一国の歴史という、違う考えを持つ多くの人々の関わった記録の連鎖を、まるで一貫性のある、しかも自らの延長線上にある、単純な物語のように受け捉えている事だ。
ある人々にとって日本の歴史は美しく、誇りを持てる物語であり、また別の人々にとっては、恥ずべき、それを否定する事よってのみ存在が許される悪事の連鎖である。どちらの側にせよ、自分の望まないの歴史観を主張されると、まるでそれが自らのアイデンティティーへの脅威となるかのように反応する。個々の出来事を、別の出来事と分けて判断する事が出来ないのだ。
具体的に述べるならば、「南京の大虐殺を認めれば、当然、慰安婦も性奴隷としたのだろうと誤解される」といった恐怖感が右派にあるのに対し、その通り左派は「南京を行なった日本軍なのだから、当然、慰安婦も性奴隷としたのだろう」と考え、右派の心配がただの疑心暗鬼ではない事を証明してみせる。「いや、南京は南京で、偏見を持たず史実に沿って検証しよう。慰安婦という制度は慰安婦という制度で、偏見を持たずに史実に沿って検証しよう」と考える人は、実はごく僅かだ。私が秦郁彦氏の歴史検証にとって感服している理由は、個々の事件を、膨大で多岐に渡る資料検査と共に丁寧に検証し、あらゆる可能性を考えた上で、こじつけや無理な論理なく、しかも含みを持たせて結論付けられるからだ。この秦氏の徹底的な研究姿勢は、秦氏と意見を異にする海外の研究者からであっても評価が高い。秦氏には、導き出したい研究結果が無い。秦氏にとって歴史検証は、「真実」を知る為の手段である。歴史検証を、自分の導き出したい政治主張を補足する為の道具とする「歴史家」が多い中、秦氏は異例の存在だ。
「歴史検証を自分の導き出したい政治主張を補足する為の道具とする」というと、左派はすぐに右派を思い浮かべるだろう。確かに、日本は中韓以外のアジア諸国からは解放者として感謝されている『アジア解放者史観』など考えれば、それも頷ける。しかしながら、こと慰安婦問題に関して言えば、「慰安婦たちは性奴隷であった」とする左派とて同じなのだ。
実際に、吉見義明氏が発見したとされる資料は、『支那事変の地における慰安所設置のため、内地においてこの従業婦等を募集するにあたり、ことさらに軍部了解等の名儀を利用し、そのため軍の威信を傷つけ、かつ一般民の誤解を招くおそれあるもの、あるいは従軍記者・慰問者等を介して不統制に募集し、社会問題を引き起こすおそれあるもの、あるいは募集に任ずる者の人選に適切を欠いたために募集の方法が誘拐に類し、警察当局に検挙取調を受けるものがある等、注意を要するものが少なくないことについては、将来これらの募集等にあたっては派遣軍において統制し、これに任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施に当たっては関係地方の憲兵及び警察当局との連係を密にすることにより、軍の威信保持上並びに社会問題上手落ちのないよう配慮していただきたく命令に依り通知する。』というもので、常識的な読解力を以て読めば、誘拐や人身売買による慰安婦調達が無いように注意を通達する文書である。外国語ならばともかく、この程度の日本語文書の読み方など、わざわざ歴史家に不自然に注釈して頂かなくとも、大人であったら理解できる筈だ。
そもそも、吉見氏がこの文書を以て、「軍が関与していた証拠」とし、「謝罪と補償を」と要求しても、それまで歴史家や政治家らが、慰安所の設置や運営に「軍の関与は無し」としていた訳ではない。軍の関与があった事は、吉見氏の発見に依らなくても、当時はみな知っていた事だ。吉見氏の主張を読むと、軍の関与は日本やドイツだけに見られた、いかにも非道で特有の事に感じられるが、実は兵士の使用する売春施設に軍が関与する事は、多くの国にも普通に行なわれていた慣習である。兵士という戦力を性病によって失わない為には、私設の売春宿であっても、軍が関与をしていた方が安全だったのだ。米軍が使用していた、ハワイ、ホノルルの売春施設に於いても、米軍や、軍施政下にある現地政府、警察らの介入が多岐に渡ってある。これらの関与によって性病の発生率が、一般の売春宿のそれと比較して少ない事が好意的に記されている。
吉見氏は、慰安婦たちには、他には見られない人権侵害があり、軍が直接奴隷狩りのように韓国人女性らを強制連行した証拠が無い事を認めながらも、『広義の強制』などという定義を持ち出して「謝罪を、補償を」と主張するが、『広義の強制』等と言えば、先に挙げたハワイのホテル・ストリートにおける売春婦らも、同様の、或いはそれ以上の強制を味わっていた。彼女らの半数はサンフランシスコの私設売春宿からリクルートされてホノルルまでやってきた白人女性たちで、残りの女性らは現地の女性たちである。サンフランシスコという遠地からの売春婦らが望まれたのは、自力で海を渡ってサンフランシスコに帰る事が不可能であった為、彼女らには、施設のルールに従うより選択肢が無かったからである。彼女たち売春婦たちには、ホノルル到着すぐに『10のルール』が伝えられ、これに署名、指紋押捺した後、売春許可が与えられた。このルールは厳しく、「慰安婦たちに移動、居住、行動の自由らの選択が無かった」どころではない。
【彼女(売春婦)は、ホノルルから山を越えたカイルア・ビーチ以外の、ワイキキ・ビーチを含むビーチを訪れてはならない。
彼女は、バーや上級のカフェなどの顧客となってはならない。
彼女は土地や自動車を所有してはならない。
彼女は特定の恋人を作ったり、外で男性と一緒にいるところを見られてはいけない。
彼女は兵士、軍関係者と結婚をしてはならない。
彼女はダンスに参加したり、ゴルフコースを訪れてはならない。
彼女はタクシーの前方座席に座ったり、男性と一緒に後部座席に座ってはならない。
彼女はマダム(売春宿の女性経営者)の許可なく、本土に送金してはならない。
彼女はマダムの許可なく本土に電話してはならない。
彼女は働く売春宿を変えてはならない。午後10時半を過ぎて外出してはならない。】
しかもご丁寧な事に、これらのルールを破った場合には、警察によって打ち叩かれるという罰則までがついていた。彼女たちは一日100人の男性の相手をする事が求められていたようだが、私には、この数は多すぎるように思われる。一人につき3分間という決まり事があり、そのためのテクニックも考え出されたようだが、もし本当ならば、慰安婦たちによる「一日何十人もの兵士の相手をさせられた」という訴えよりも多い。
戦時中のハワイは、合衆国に併合された状態であり、朝鮮半島(韓国)が日本に併合されていた状態と同様だ。韓国は1948年に独立するが、ハワイは1959年に合衆国第50番目の州と認められる。もしハワイが韓国と同じように独立していたら、当時のホテル・ストリートで働いていた現地女性らは、米軍に対し、謝罪と賠償を求めるだろうか。誰もが認める奴隷制度があったアメリカだが、さすがに謝罪はしたものの、補償はしていない。当時、違法では無かった行動に対する国家の補償を認めれば、キリがないからだ。であるから例え道義的責任は認めても、補償という法的責任は認められないのは、たとえ非道であっても、法治国家として当然である。
吉見氏による「慰安婦は性奴隷だ」という呼称の修正にせよ、「謝罪と補償を」という要求にせよ、もはや歴史家としての範疇を超えた、明らかな政治活動だ。勿論、歴史家の政治活動自体が悪いのではない。そうではなく、ある歴史家の政治活動や政治意見に反対する事が、あたかも歴史事実への否認であるかのように歪曲する事に問題があるのだ。(この点、私は秦氏の歴史検証には深く敬服するが、政治的意見に全て賛成をしている訳ではない事を記しておく。尤も秦氏は、彼の政治意見に反対する事を歴史の歪曲などとは間違っても主張されないが。)
私は、その他様々の史実に対する理解を改めたように、慰安婦の実態についても、納得のいく論理の提供があるならば、喜んで意見を変えようと思う。その際には、IWGレポートに価値が無い事を自分の誤りとして認めたように、今までの意見が間違っていたと明確にしよう。私には、自分を正しく見せたり、右派であろうと左派であろうと、誰かの気に入る為の主張をする事に意味は無いからだ。それでも吉見氏の主張には、未だ全く説得力を感じない。私と同様、多くの保守派が韓国側や吉見氏の主張に同感できない理由は、吉見氏の主張が感情的、情緒的であるだけで、論理的ではないからだ。
本来、慰安婦を性奴隷と呼ぶか、呼ばないかは、言葉の問題だけでもある。性奴隷と呼ぶ事で、彼女たちの置かれた悲惨な状況への同情を表したいようだが、その背後には補償への要求が見え隠れすれば、「慰安婦たちの言葉だけではなく、証拠を下さい」と言うのはどの国であっても当然なのだ。吉見氏の主張する「オーラル・ヒストリーから証明を行なおうとするアプローチ」など、それこそ歴史だけでなく、事実検証という定義の改竄である。このような『アプローチ』を認めれば、それこそ日本は特異な国となり、信用を失う。
右派の中にある極論を以て、その全ての問題を測れる程、歴史は単純ではない。同様に、誰かを個人攻撃してその主張への信憑性を損なう手段は、その主張を正面から議論する自信が欠如している証拠だろう。藤岡信勝氏による「国家は謝罪してはいけない」という発言に私は同意しないが、氏の発言の動機も頷ける。吉見義明氏による「オーラル・ヒストリーというアプローチ」など認めれば、どんな嘘でもまかり通ってしまう。左派が極論と呼ぶ藤岡氏の発言は、吉見氏の極論があっての事だし、それを前提で言えば、藤岡氏の方が世界の常識に叶っている。
重ねて言うが、吉見氏による文書発見はともかく、「謝罪を、補償を」等は氏による政治活動である。勿論、右派にもそうした政治活動がある。右派であっても、左派によっても、学者による政治活動が悪いのではない。しかしながら、意見が分かれて当然である政治活動への反対意見が、まるで歴史という学問への侮辱であるかのように受け取られるところに問題があるのだ。米軍にもあった売春施設の使用を考えれば、日本の慰安婦制度というものを特別視、糾弾する理由は、本来見当たらない。吉見氏の意見は、彼が歴史学者という権威を利用しなかったならば、注目するに値しない。歴史という学問の威を借りて政治活動を行なう学者こそ、学問の自由を冒涜していると言って良い。
このような意見は、左右両派から、等しく主張されるべきである。