慰安婦を性奴隷と定義する事への反論

ドキュメンタリー映画『主戦場』を視聴された方々の間で、私がインタビュー中、「南京を知れば知るほど、慰安婦たちが性奴隷であると思えてきた」等と答えた事になっているが、先の投稿でも述べた通り、そのような事実は皆無である。この点は、デザキ氏にも確認したが、私はそのような事は一切述べていない。私が述べたのは「南京を学ぶにつれ、(それまで鵜呑みしていた)ナショナリストらの主張を、懐疑的に見るようになった」である。第一、秦氏の著書に説得された形で南京の虐殺についても見識を変えた私が、氏の著書を読み進めるうちに氏の反対する慰安婦性奴隷説に傾いたとするのは、論理的に無理だ。

何せ私は慰安婦を性奴隷と呼んだことは無いばかりか、慰安婦性奴隷説を唱える吉見義明氏の著書を読む必要性すら感じていない。吉見氏については、歴史研究を政治活動の手段としている人物としか認識していない。

『主戦場』のミキネ・デザキ監督の考えでは、「慰安婦は性奴隷ではない」と主張するからには、性奴隷であると唱える吉見義明教授の著書を読まなければならないらしい。私にはこうした主張は、「地球が平らでないと主張するには、『地球平坦説』を唱える人々の著書を読んだ上でなければ正しい批判は出来ない』と言っているのに等しく聞こえる。

勿論これは、慰安婦性奴隷説を唱えた吉見氏の議論が、地球平坦説と等しい程愚かに聞こえるからではない。そうではなく、地球平坦説を唱える人々の著書を読まなくても、その主張の誤りを結論付けられるように、吉見氏の主張は、落ち着いて考えれば、同意する方が困難な理屈なのだ。しかも、戦前、戦中において、日本や韓国で行なわれていた貧しい家庭による身売りというものに関する知識を少しでも持っている人々にとって、慰安婦を性奴隷と呼ぶ新しい定義の方が、『歴史修正主義』と聞こえる。

因みに、歴史家の秦郁彦氏は、英訳された著書『Comfort Women and Sex in the Battle Zone』で慰安婦たちの状況を、東京吉原傀儡で働いた売春婦たち、戦地に赴き働いた女性看護婦、また兵士らのそれと比較して、科学的と言える程冷静に、細かく記している。(同著282頁から285頁参照)

秦氏の検証によれば、慰安婦たちの給与は彼女たちの客であった兵士らの10から13倍にもなり、二、三年働けば、借金を返済した後に故郷に家が建つほどの稼ぎであった。戦地における慰安婦たちの行動制限を指して『奴隷状態』と結論付ける声があるが、戦地である事を考慮すれば、外出や行動にある程度の規制があるのは、何も慰安婦に限った事ではない。兵士にとっても、また陸軍病院で働く看護婦にとっても同様である。

「高給といっても、インフレーションを鑑みれば、大した金額ではない」と、慰安婦だけがインフレーションの影響を受けているような主張はおかしい。インフレのあおりは、兵士や看護婦、一般人も被ったのだから。

一兵卒の給与は月に7円50銭であり、軍曹になると月23円から30円。戦闘の手当がついても、それは倍額までと限られている。戦地の陸軍病院で働く看護婦エガワ・キクの給与は月90円であったが、彼女のもとに来て診てもらっていた慰安婦の給与は月250円であった。

「高い給与を受けていた」に対して、「仲介業者がピンハネをしていた」と、あたかも慰安婦の手元に稼ぎが残らなかったように反論する人がいる。実際には、戦時中、東京の吉原で働いていた女性たちは、手取り分が25%から40%に引き上げられたが、沖縄やその他戦地の慰安婦たちの手取り分は50%から70%にまで引き上げられている。手元に残った賃金で言えば、慰安婦たちは、日本国内の売春業に従事する女性の給与の少なくとも5倍を稼ぎ、平城の売春街で働く女性の10倍を稼いでいる。売春業は、その女性が何人の客を取るかによる。多くの客を相手にした女性が高い給与で『劣悪な労働条件』なのか、多くの若い男性が戦地に駆り出された為、若者の残り少なくなった東京に於いて少ない客を相手にした女性が、僅かの給与で「劣悪な労働条件」なのか、各々判断が違うだろうが、私には、慰安婦たちが吉原の女性よりも性奴隷であるとは思えない。

「その意思に反して」という『強制性』を鑑みても、赤紙によって徴兵された兵隊たちより、慰安婦たちは奴隷なのだろうか。慰安婦を奴隷と呼ぶ論理は、現在の日本人が享受する自由や生活のレベルと比較すれば、当時の日本人、及び韓国人の多くが当てはまるものだろう。現在でも、戦地に赴く兵士、看護婦には、行動や居住の選択に自由が無いし、廃業の自由と言っても、契約を交わして職を得る人々にとって、現在においても、契約の期間が過ぎるまで勝手に廃業できない。第一、貧困の為、或いは騙され、売られて風俗で働く女性たちは、現在の日本、韓国にもいるが、果たして彼女らは一般に性奴隷とは呼ばれているだろうか。

吉見氏の性奴隷説は、慰安婦たちがなぜ吉原の売春婦たちよりも『奴隷』なのか、なぜ看護婦や兵士らより『奴隷』なのか、言ってみれば、何故慰安婦たちだけを『奴隷』と定義しなければならないのか、客観的に説明し得るものではない。

尤も私は、個々の慰安婦たちに、語りつくせない悲話があった事も想像できる。親に売られたにせよ、騙されたにせよ、自ら応募したにせよ、何らかの事情で慰安所で働いたのだ。戦後の苦労もあったかもしれない。しかしながら、彼女たちの苦難は、兵士や陸軍病院の看護婦、また吉原で客をとっていた女性と比較して、より悲惨であったとは言い切れものなのだ。慰安婦たちだけを奴隷と定義する為には、彼女たちよりもはるかに賃金が少なく、行動規制されていた兵士や看護婦、また彼女たちと境遇を同じくしていた吉原の娼婦も奴隷だったとするしかない。吉見氏の発言として、現在も風俗産業で働く女性を指して、彼女らも性奴隷であると呼んだ事があったようだが、それが事実であるならば、そのような理屈は、もはや歴史の事実を追求する研究者の姿勢ではなく、ただの政治イデオロギーを広める活動家のものだ。

勿論、別の人々にとっては、私が以上にまとめた秦氏の説明は不充分であり、それでも慰安婦達を性奴隷だと呼びたいだろう。その通り、数百ページを越す秦氏の著書に記された氏の検証は実に多岐に渡り、私の投稿にまとめ尽くす事は不可能だ。ただこれらの検証は、私が慰安婦を性奴隷と考えない理由として充分なのだ。


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慰安婦という呼称であった女性たちを性奴隷と呼び直す吉見氏の姿勢には、客観的な史実の探求よりも、吉見氏の個人的信念が感じられる。歴史家の目標は、歴史真実の客観的追及である。ところが吉見氏による無理な定義修正や、度重なる反対意見に対する訴訟を通した弾圧を考えると、歴史事実の調査は目的の為の単なる手段であり、目的そのものは別のところにあると思える。

私にとって、吉見氏は歴史家を気取った政治活動家である。氏の著書は、歴史と言う、政治とはかけ離れた学問を学ぶ上で必読の書物ではない。

たとえ、慰安婦たちを性奴隷と定義する吉見氏の動機が、慰安婦一人一人に対する心からの同情であり、善意からであったとしても、何故、これまでのように彼女たちを慰安婦と呼んだまま同情し、心を寄り添う事が出来ないのだろう。

歴史家を気取って政治活動を行なう人物は、右派にもいる。私はそのうちの一人として、阿羅健一氏をあげて批判した事がある。阿羅氏は、果たして南京において日本軍による虐殺が行われたかどうか、当時南京に駐在していた日本人には聞くものの、実際誰よりも虐殺について知る筈の元日本兵たちには聞かず、虐殺を「まぼろし」と呼んでしまっている。「組織的な30万人の虐殺」に対する反論のつもりしれないが、これでは客観的史実の検証とは程遠い。吉見氏や阿羅氏にとって、歴史とは目的を達成する為の手段でしかないのではないか。

一国の歴史というものは、ある思想にとって便利な事の連なりでは決してない。善か悪で割りきれる程、単純なものではないのだ。そしてこれは、私自身の誤りからも言えるのだが、「信じたい歴史観」がある限り、それを補強してくれるプロパガンダに対して、我々はあまりにも弱い。