言論人による言論弾圧
東スポの報道のよれば、[出演者である保守系論客8人のうち、すでに7人が上智大学教授でデザキ氏の指導教員であった教授に対し、上智大学が規定する書式に基づいて「研究参加同意撤回書」を送付。残る1人も撤回書を独自に送る予定で8人全員となる。上智大学の規定では、同意撤回書が出された場合は、無条件で映像や音声を廃棄することが義務づけられている。提訴している出演者で教育研究者の藤岡信勝氏は「上智の規定によって映画『主戦場』は、もはや存在の根拠を失い、世の中に存在してはいけないものになっているのです」と指摘する。]とある。https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/movies/1610712/?fbclid=IwAR1ogJkJRzVLATfLuiI0HM3QxMFrQUQL2pKbkYRiJ2ctpTnfiY18Kunuy1w また[ 藤木氏は「10月4日にデザキ氏と配給会社を刑事告発し、受理されました」と明かす。「テキサス親父」ことトニー・マラーノ氏と藤木氏が共有著作権者であるユーチューブの映像を商業映画に無断使用されたなどとして、著作権侵害で埼玉県警熊谷署に刑事告訴したという。告訴状は処罰を求めるもので、受理された場合、警察には捜査義務がある。「主戦場」騒動が事件かするわけだ。]ともある。この刑事事件化については、韓国で元慰安婦の女性らに訴えられている朴裕河氏も「よくわからない」とした上で「私のケースと同じだと思う」と書かれていた。
私は弁護士でも裁判官でもないので、印象だけ述べるが、幾人かの『主戦場』出演者による訴訟は、反対する意見への弾圧に見える。私はこの映画の出来に対して良い印象を持っていないが、それでも出演者たちがインタビューを受ける時点で、この映画の出来によっては一般公開もあり得る、という可能性を知らなかったとは信じ難い。なぜなら私の事を言えば、インテビューを受けた時点でその可能性を伝えられており、むしろ一般公開の可能性があった為に、忙しい中インタビューに応じたのが本当だ。私でさえそうなのだから、テレビ出演や講演会、執筆に忙しい8人の保守派論客の方々が、一般公開される可能性の無い一修士論文の為に、わざわざ時間を割くだろうか。デザキ氏を訴えている諸氏は、商業目的だとは知らされておらず、あくまで学術研究という事だったのでインタビューを受けたと主張する。勿論、彼らがインタビューを受けた時点での動機について、どのような主張も法的には可能だ。しかしながら、果たしてその論理に客観的説得力はあるだろうか。
また映画出演における契約書への署名についても、藤岡信勝氏は「単なるセレモニーだと思った」と言われていたが、この言い訳は、契約書への署名という法的行為に法的拘束力はないと言っているに等しい。もし契約書に法的拘束力を認めなくて良いならば、そうした解釈への便乗、乱用が多く生じる事だろう。因みに右派は、元慰安婦たちが慰安所で働き始めるにあたり、それぞれ契約書へ署名しなければならず、売春行為をさせられるとは全く知らなかったという今さらの主張は偽りである、と指摘している。70年以上前の十代の少女達でさえ、契約書へのサインでもって自己の責任を問われているのだ。大学教授でもある藤岡氏の言い訳は、あまりにも稚拙である。
上智大学のルールに基づいて「研究参加同意撤回書」が送付されたようだが、この映画の著作権を上智大学が持っているか、デザキ氏が持っているかによって上智大学のルールを適用できるかどうか、判断が分かれる。もし著作権をデザキ氏が所持している場合、一般公開されている作品の在り方について、上智大学の規定が適用されるとは思われない。また研究参加同意の撤回の権利が無期限にあるか、有期限かによって「映像や音声を廃棄する義務」への判断が分かれる。一般的に言って、研究参加同意撤回の権利が無期限にあるとは思われない。作品の完成後、一部の協力者による参加同意の撤回で、作品そのものが「存在の根拠を失い、世の中に存在してはいけないもの」になるとすれば、一般にも多くある共著の書籍、雑誌、インタビュー、映画などは、存在できなくなる。上智大学が設けた規定は、研究への協力を行なった後から作品の完成前の期間を指していないだろうか。もし上智大学の規定が研究参加同意の撤回期限を無期限に認めている場合、さまざまな便乗や乱用が多発しそうな規定である。
私が冒頭に自分が弁護士でも裁判官でもない事を挙げた理由は、それでも世の中の裁判例として、一般が非常識と思う判例もあり得ると弁えているからだ。であるので私の印象は述べつつも、実際にこの裁判がどうなるか、予測する事はしない。しかしながら法的な結論はともかく、この裁判は保守論客が勝っても、彼らの主張への印象を甚だしく傷つけるという点において、彼らは既に敗北してしまっている。例え日本の裁判所が彼らの主張を全面的に認め、『主戦場』が闇に葬られたとしても、海外の多くのメディアは、右派出演者が法のテクニカリティーを利用して気に入らない意見を封じ込めた『言論、表現の自由の敗北』と報道するだろう。そして実際、その通りなのだ。
デザキ氏による映画の出来に不満がある事は以前に述べた。この映画が客観的であるとか、公平、中立であるとは全く思えないが、そうした定義は観る人の主観による。デザキ氏はインタビューを申し込む際に「慰安婦問題をリサーチするにつれ、欧米のリベラルなメディアで読む情報よりも、問題は複雑であるということが分かりました。(…)私は欧米メディアの情報を信じていたと認めざるを得ませんが、現在は、疑問を抱いています。(…)大学院生として、私には、インタビューさせて頂く方々を、尊敬と公平さをもって紹介する倫理的義務があります。また、これは学術的研究でもあるため(…)偏ったジャーナリズム的なものになることはありません」と書き、右派論客からの協力を得たようだが、彼らへのインタビュー等を通して、彼らの主張への反感を強めたのではないだろうか。一部右派から聞かれるあからさまな差別発言は、他者の名誉に関心を払う人々のものとは到底思えず、多くの人々が不快な印象を持ったが、特に米国で育ったデザキ氏がああした発言を看過できるとは思えない。
繰り返しになるが、私はこの映画の仕上がりに不満を持った一人である。しかしながらデザキ氏を法的に訴える事には強く反対をしている。言論や表現の自由の保証されている国において、誤った意見や『嘘』に対しては、更に『正しい意見』を提供し、他者を啓蒙し、説得するしかないのだ。デザキ氏を訴えている人々は全て、この映画への反対意見を述べる機会の無い人々ではない。
最後に、政治趣向の如何は、ある人の人格を保証するものでは無い。しかし右派も左派も、自分の政治趣向と同じ主張をする人々は無条件に擁護し、反対の政治趣向を持つ人々に対しては、それらの人々が人格的に劣るものとして、否定してきた。映画『主戦場』を巡る一部右派による法的措置は、右派による言論の自由への挑戦と受け取られる。しかしながら、左派とて反対意見への法的弾圧を幾度となく行なってきている。朝日新聞の植村隆元記者は桜井よし子氏と西岡力氏らを訴え、吉見義明氏も桜内文城元衆院議員を訴えていた。その時、果たして左派は、右派言論人や衆議院議員の言論、表現の自由を擁護し、仲間による自由への挑戦を批判しただろうか。気に入らない言論に対する弾圧は、左右どちらの側も行なっているのだ。因みに、私は左派のジャーナリストにも、右派のライターにも「名誉棄損で訴える」とそれぞれ脅された事がある。勿論彼らに法的根拠がある訳ではない。邪魔な言論は封じ込みたいだけだ。
邪魔な言論を封じ込みたい『言論人』がいるとして、我々はそうした人々が同じ政治趣向を主張している場合、彼らへの批判を控える傾向がある。言論弾圧が反対派によるものであったら、頭ごなしに批判するとしても、政治的な主張が同じである場合、何らかの言い訳を探してきては、彼らを擁護してみせる。こうした二重基準の傾向は、ジョージ・ブッシュ元大統領が見事に指摘している。「しばし我々は、反対するグループをそのうちの最も悪い例で裁きながら、我々の仲間については、その最高の動機で判断する。そしてそれにより、我々の理解と共通の目的の絆を緊張させている。」https://www.washingtonpost.com/news/on-leadership/wp/2017/10/20/the-most-memorable-passage-in-george-w-bushs-speech-rebuking-trumpism/
政治が余りにも二極してしまうと、我々のうちの多くは、二種類の異なる物差しや測りを必要とするらしい。しかしながらそこにはもはや、公平も公正も存在しない。