伊藤詩織氏批判について考える

アメリカに暮らしていると、日本の話題も、こちらが積極的に探そうとしない限り、自然に入ってくることはあまり無い。ジャーナリストである伊藤詩織さんの『勝訴』のニュースについて、私は親日派の友人であるポーランド人数学者から「これは日本の裁判に関する、良いニュースだ」という形でニューヨーク・タイムズのリンクが送られてきた為、その記事を読んで知った。https://www.nytimes.com/2017/12/29/world/asia/japan-rape.html

記事を読んだ時点では、この『勝訴』は当然の事と思われ、日本の保守派の間でもそのように受け取られているだろうと考えた。ところが、色々なところから、被害者側である伊藤氏の方に非があるとする意見が目につき始めたので、私なりに日本の記事もいくつか読み、山口氏が月刊Hanadaに書かれた記事も拝読した。https://hanada-plus.jp/articles/250 https://hanada-plus.jp/articles/260

これらを踏まえ、私なりの意見を纏めてみる。

 

重要なタクシー運転手の証言とホテルのカメラ

Motoko Rich氏によって書かれたニューヨークタイムズの記事は、伊藤詩織氏勝訴のニュースを『Me Too』と関連付けて、この勝訴をもって日本の性被害女性もこれから名乗り出易くなるのでは、と期待しているようだ。私はどの事案であっても、一つ一つのケースをそれぞれ判断していくのが良いと考える為、急進的一部の左派から聞こえる、訴え出る女性が嘘をつく筈が無いと信じる事が大切であるかのような極論には賛成しないが、この記事を読む限り、裁判所の判断は納得がいくものだと思われた。私が読んで、山口敬之氏による強要性を最も強く感じたのは、伊藤氏と山口氏を乗せたタクシー運転手の証言である。運転手の証言によれば、駅で降ろして欲しい旨を伝えた伊藤氏の複数回に及んだ願いを無視して、山口氏は何もしない事を約束しながら、運転手にホテルまで車を走らせることを指示したと言う。伊藤氏はタクシーの車中で嘔吐もしている。また警察が入手したホテルのカメラには、伊藤氏が意識の無いまま山口氏に抱えられてホテルのロビーを移動する姿も映っている。これらの点から考えれば、伊藤氏が性行為への合意をハッキリと示す状態ではなかったと理解するのが自然だろう。検察による不起訴の処分を不服とした伊藤氏が民事裁判に訴えた事に反発する形で山口氏が月刊Hanadaに寄稿した『私を訴えた伊藤詩織さんへ』も読んでみたが、やはり山口氏による「合意の上での性行為であった」という主張を信じるに足るには至らなかった。

 

鈴木裁判長の指摘した山口氏証言の矛盾

山口氏の主張だけを拾っても、(氏によれば)何度も嘔吐を繰り返した女性の酔いがほんの数時間後にはすっかり醒めているのに対し、山口氏自身は伊藤氏に宛てたメールで「私もそこそこ酔っていたところに、あなたのような素敵な女性が半裸でベッドに入ってきて、そういうことになってしまった」と、山口氏の酔いは醒めていなかった旨を書いている。しかも民事裁判の法廷において、性行為が行なわれたベッドはドアの近くにある伊藤氏が寝かされていたベッドであったと証言しているのに、伊藤氏が入ってきた「私の寝ていたベッド」は、ドアの近くのベッドであったとも答えている。これでは、同意の上での性行為であったという核心部分についての説明に矛盾があると、東京地裁の鈴木昭洋裁判長が「不合理に変遷していて信用性について重大な疑いがある」と指摘したのも無理はない。

 

被害女性の複雑な心理

特に「もしあなたが朝の段階で私にレイプされたと思っていたのであれば、絶対にしないはずの行動をし、絶対にしたはずの行動をしていない」等の主張は、その基準が山口氏の主観や予測がベースとなっただけのもので、科学的データや調査を基にしたものではない。山口氏の主張は、伊藤氏との性行為を山口氏が強姦だと考えていなかった、という主観を主張したものでしかないのだ。加えて言えば、知り合いによるレイプやデートレイプ等の後の被害女性の複雑な心境や行動はさまざまであり、全ての被害女性が一様の反応をするとは思われない。「レイプであったら、こうした行動はとらない筈」という類の主張は、山口氏に限らずその他の右派言論人からも聞こえるが、期待の反応をしなかったからと言って、その性行為に同意があったか無かったかの証明とはなり得ない。むしろ「我々が納得する言動を行なわない限り、レイプ被害者だとは認めない」という偏狭な偏見や期待をこれらの人々が持っている証でしかない。私の知り合いにも強姦の被害者となった女性はいるが、レイプ被害後、彼女は加害の男性に対して強い不信感や嫌悪感を感じながらも、表ざたにするよりも、加害男性の反省をそれとなく求めつつ、今まで積み上げてきた関係の全崩壊に至らないように、出来るだけ穏便に済ませる方法を探っていた。男性の反省が全く無く、むしろ開き直る態度であった為、加害男性との関係を完全に絶ったようだが、それでも「あなたの側に隙があったのでは」と批判される事を嫌がり、泣き寝入りに甘んじている。彼女のように、強姦でありながらも、出来るならば穏便に済ませようと試みたり、或いは自分の身に起きた事が犯罪ではないかのように否認する被害女性の複雑な心理などは、単純な事柄以外に思考が及ばない人々には決して理解できないだろう。

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泥酔すれば女性に非があるのか

密室での出来事であり、真相はわからないという意見があるとして、私が違和感を強く覚えるのは「男性の前で泥酔状態となるまで飲酒したのだから、伊藤氏には女性としての非がある」という理屈だ。

山口氏は『Hanada』に寄せた文章で、伊藤氏が日本人相手のキャバレーで働いていた事や、就職の紹介を求めて連絡を取ってきたと書いている。キャバレーで働いていたのだから、伊藤氏は女性としてルースであり、強姦ではないと言いたいのだろうか。山口氏の記述に呼応するように、若い女性が就職の紹介を男性に求め、その男性と食事に行き、二人で飲酒をした上、意識が無くなるまで飲酒をしたのだから、レイプされてもしかたないというかのような、伊藤氏への批判が右派から上がっている。私は、こうした主張をする日本の右派の『性に対する女性の権利』への意識が、日本の左派や、保守派を含めた欧米人と比較して、発展途上のままである事を感じる。これは、左派や欧米に強姦や性犯罪が無いからでは無い。左派や欧米にも性犯罪は発生する。職業上立場を利用したり、女性を泥酔させ、性的搾取を行なおうとする男性は、左右を問わず、どこの社会にもいる。しかしながら、そうした行動を良しとしたり、弁護したり、却って女性の側を非とする声など、左派や欧米には無い。他者が自分の体に対して持つ権利という概念が確立している人々にとって、相手の弱みに付け込んで、他者から搾取する行為は、「弁解する余地がない」「人として恥ずべき行為である」と理解されているからだろう。

そもそも「泥酔状態に陥って隙を見せたのだから、隙を見せた方が悪い」という主張は、あまりにも醜悪だ。伊藤氏と山口氏の問題に関して自民党の杉田水脈議員は、「(伊藤氏には)明らかに女としての落ち度がありますよね。男性の前でそれだけ飲んで、記憶をなくしてっていう」と発言しているが、敢えて皮肉を込めて指摘すれば、映画『主戦場』の中で杉田氏は、「騙される方が悪いという考え方は(日本人の考え方ではなく)、中国人や韓国人のものだ」という類の発言していた筈だ。杉田氏はあまり事実や一貫性を考慮しながら発言をされる方ではない。むしろ無知を土台とした偏見や稚拙な身内意識によって発言しているだけだろう。それでも「一般論としながら、女性が男性の前で泥酔すれば、女性としての非がある」という見解や倫理観は、杉田氏のような暴論によって知られる人物以外からも聞く。しかしながらそうした論理は、果たして保守派が掲げる「美しい日本」に相応しいものなのだろうか。

 

財布を落としても戻って来る日本

例えば、職の斡旋を求めてきた人物が意識を失うほど泥酔して、眠り込んでしまったとする。こうした場合、眠り込んでいる人物の財布を奪い、中に入っているお金を盗むことは容易だろう。一緒に飲酒している相手は、こうした状況に遇った場合「人前で泥酔している方に隙がある」として、泥酔している人物から財布や貴重品を盗んで良いのだろうか。「合意の上でのやり取りだった」として、泥酔状態にある人物との合意が成り立つと主張できるだろうか。「職を下さいと言ってきた人物が財布を盗まれましたと被害を訴えるところに矛盾を感じる」等、盗まれた側に非があるかのような議論を行なうだろうか。しかも「財布を落としても、中のお金が盗まれる事なく持ち主のもとに帰って来る」と言われる日本で、である。もし誰かが「日本は、泥酔して財布を落としても、中のお金が盗まれる事なく持ち主のもとに届けられる国です」と日本社会の倫理観の高さを謳いながら、「男性の前で女性が泥酔したのだから、女性は強姦されても非は彼女にあります」などと本気で主張すれば、その人は、金銭の価値は理解できても女性の尊厳を理解できない野蛮で未開発な人物であると批判されるべきだろう。

 

山口氏はどうすれば良かったのか

「山口氏が泥酔状態に陥った伊藤氏を抱え、自らの宿泊するホテルに連れ込んだのは山口氏なりの親切心からの行動である」という意見は、一応の理解が出来る。「泥酔状態の若い女性を駅で降ろすわけにはいかない」と真摯な心から行なう場合もあるだろう。「悪い人に付け込まれるかもしれない」「酔ったままで無事に家に帰れるだろうか」等の心配は当然である。しかしながら山口氏が、もしそうした紳士的な親切心や善意から来る心配によって、伊藤氏を自分のホテルの部屋に連れてきたならば、当初の紳士精神に従って、山口氏は伊藤氏の弱みに付け込まず、何も無いまま彼女を無事に帰すべきであった。

また当然過ぎて主張されていないが、山口氏にとってはホテルに連れ込んだ時点で何ら疚しさも後ろめたさも無く、完全に合意の上の性行為であったならば、後に伊藤氏から合意の上での性行為ではなかったショックを知らされた時には、自らの『勘違い』を潔く謝罪し、それに徹するべきだった。伊藤氏について「あなたは、キャバレーで働いていました」と暴露して攻撃するよりも、誠実で紳士的姿勢を山口氏が徹底して示していれば、伊藤氏の受けた傷も浅く済んだかもしれない。まして「自分は疚しい思いからではなく、心配と親切心からタクシーをホテルまで走らせ同室に泊め、同意の上だという勘違いのもと、性行為に至ってしまった」という高潔な動機の主張も、一般的には信じ易かっただろう。

そうではなく、事件とは関係の無い伊藤氏批判を発表し、伊藤氏に責任転嫁し、彼女に味方する野党議員の存在を以て自らに対する政治的陰謀の存在を示唆する山口氏の姿勢こそが、彼の人格の高潔さに疑いを抱かせてしまっている。