映画『主戦場』と、言い得て妙なる保守派の『自業自得』

朝日デジタル、産経新聞や東京新聞らの報道によれば、映画『主戦場』の為のインタビューと映画の仕上がりに大きな隔たりがあるとして、保守派論客がデザキ・ミキネ監督に法的措置を示唆し、また映画の上映中止を求めたようだ。これに関した記者会見が5月30日に行なわれている。

この記者会見における朝日新聞の質問で私の名前が出されたが、私は、グレンデールの慰安婦像に紙袋が被せられた事については確かにトニー・マラーノ氏の行動を批判したが、藤木氏の発言についてはインタビュー当時知り得ていない。であるから、「例えば藤木さんはですね、え『フェミニズムを始めたのは不細工なひとたちなんですよ』と、あの、『心も汚い、見た目も汚い』そういうようなことを仰っていて、で、これがまた、あの、デザキ氏のあの、批判の対象になって、あの、ケネディ日砂恵さんとかですね、になっていますが、これについては、、、」と名前が出た事には驚いた。わざわざ私の名前を出さなくても、こうした発言を批判する声は、他の保守派の言論人から上がらないのだろうか。

因みに、私もこの映画をひどく偏りのある映画だと考えるうちの一人だ。右派の主張の後にそれを打ち消す主張があり、あたかも右派の一つ一つの主張が論破されているかの印象を与えている。特に終盤において、加瀬英明氏を陰謀工作の陰の首謀者のように扱うあたりなど、余りにも稚拙であり、論するに値しない。保守派、及び安倍政権が、加瀬氏を頂点に戴き運営されているかのようなインプリケーションには、「デザキ氏の背後には中国、韓国の勢力がある」と、無責任な一部保守派がソーシャルメディアで呟くのと同じ程度の愚かさがある。しかしながら保守派が最も懸念すべき点は、左派だけでなく、今まで慰安婦問題や政治にそれまで関心の無かった層が、この映画の中でのリベラル派論客の主張に、より説得力を感じた事ではないか。日本国内に於いてすら保守派が説得力を失い、左右の優劣が逆転しまいかねない現状について、右派はまずデザキ氏による編集に責任を押し付け、彼を非難するだろう。ある人々は私の事も批判するかもしれない。しかしながら、比較的新たな層を左傾化させたのは、一部右派による言論、多くの保守派が仲間の言論として内心苦々しく思いながらも容認している、差別的言論にある事に間違いないのだ。それは、彼らがソーシャルメディアで発言する内容から判断できる。

たとえば国会議員である杉田水脈による「どんなに頑張っても中国や韓国は日本より優れた技術が持てないからプロパガンダで日本を貶めている」「日本が特殊なんだと思います。日本人は子どものころから嘘をついちゃいけませんよと(教えられてきました)」「嘘は当たり前っていう社会と、嘘はダメなのでほとんど嘘がない社会とのギャップだというふうに私は思っています」という類いの発言は、論理や知性にではなく、ただ憎しみや怒りという感情にだけ訴える、扇情的なプロパガンダである。このようなレトリックは、嫌韓、及び嫌中感情に染まっていない人々をして、ウンザリさせるだけだ。杉田氏の論理で、どのように反対議論に太刀打ちするのだろう。右派が「嘘つき」呼ばわりする左派の論客らや政治家は、日本人ではないのか。『帝国の慰安婦』を出版したが為、韓国人慰安婦や挺対協から起訴された朴裕河氏のような韓国人学者らは嘘をついているのか。6月4日には天安門事件から30年が経ったが、迫りくる戦車の前に立ちはだかり民主化と自由を求めたあの中国の市民は不誠実なのか。一体杉田氏には、「何々人は」と他国の国民を総じて指し、彼らがどのように教えられ、育てられたか述べるだけの実体験があるのだろうか。私は米国に18年以上住み、親しく付き合う友人にも中国人、韓国人がいるが、彼らが日本人以上に嘘つきであるとか、技術が劣るとか考えた事は皆無だ。杉田氏が保守論客を代表するだけではなく、国会議員である事を考えれば、彼女の発言は厳しく咎められるべきだ。それを容認し続ける限り、日本の品位を疑われて当然だろう。

                              f:id:HKennedy:20190607160110j:image

テキサス親父こと、トニー・マラーノ氏による慰安婦像に紙袋を被せる行為や、藤木氏による「フェニミズムを始めたのはブサイクな人たちなんですよ。ようするに誰にも相手されないような女性。心も汚い、見た目も汚い。こういう人たちなんですよ」という発言について言えば、これは女性への蔑視であると言えるだろう。外見や容姿を以てある人を侮蔑の対象とするという行為は、男性相手には効果が少ないし、容姿の美醜を気にする男性もあまりいない。つまり女性であるからこそ深く傷つく侮蔑の仕方を用いて嘲りの対象とすれば、マラーノ氏や藤木氏が女性に対する差別主義者ではなくても、やはり女性への差別行為を行なったと言える。マラーノ氏は、映画の上映中止を求める記者会見に於いてビデオ出演し、グレンデールの慰安婦像になぜ紙袋を被せたかの説明を試みたが、いくら米国の報告書に「彼女(慰安婦)たちは米国や日本の感覚からして魅力的ではなかった」などの記述があり、”一部米国人の中に魅力的でない女性と関係を持つ際に、男性は紙袋を被せる”といった説があるからと言って、マラーノ氏が慰安婦像に紙袋を被せなければならなかった理由とはならない。一般のアメリカ人の良識や名誉にかけて言えば、私が知る範囲で、こうした話を聞いたり、実際行なった事のあるアメリカ人はいない。却ってこのような礼儀にかける行動をアメリカ人男性が行ない、またアメリカ人女性が容認しているなどの勘違いを広められたことに対して、迷惑がるアメリカ人が多い。また藤木氏は、記者会見中、サウジアラビアなどの、組織的な女性差別の行なわれている国と比較して、日本には差別が無い旨を説かれた。少なくとも、サウジアラビアに言及された理由は、「そうした発言の中での一部」だと言いたかったのだろう。日本には、サウジアラビアやその他の国による『組織的女性差別』が無い事には同感である。しかしながら、イスラム教主義国による、『貞節』という美徳を悪用しながら男性が女性の価値を決めるという行為にしても、藤木氏らによる『美醜』という物差しで男性が女性の価値を決めるという行為にしても、それは女性への差別である。フェミニズム運動やフェミニストらに対して反論があるならば、彼女らの主張に対し、論理的に反対の声をあげ、議論するべきだろう。論理やアイディアに対する批判ではなく、あくまでも感情を傷つける攻撃を行えば、議論では立ち向かえないと認めるようなものだ。私はマラーノ氏にしても藤木氏にしても、女性差別主義者であるとは考えない。彼らの言動が『差別主義』というイデオロギーをもとにしたものではないからだ。意見や主義主張を同じくする限り、彼らが他人に対して礼を失する事は無い。この点が真の差別主義者と違うところだ。しかしながら、反対する立場の人々に対して、真の差別主義者らが使用する悪質な表現を用いる事に躊躇が無かった点は指摘しておく。マラーノ氏にせよ、藤木氏にせよ、日本という国を心から想い、自らの犠牲を払ってまで国に尽くそうと考えている事には疑いが無い。だからこそ尚更、彼らの軽率な言動が、純粋な動機を疑わせている事実を残念に思う。

くり返すが、人種(国籍)による差別にせよ、女性への蔑視にせよ、「慰安婦問題の根底に差別意識は無い」と主張するならば、保守派は差別発言から一切の関わりを絶つべきだし、仲間内の事ではあっても誤った言論は批判するべきだ。ここ数年、私はアメリカの保守論客の言論を注視してきたが、彼らは責任ある立場であればあるほど、過激な、扇情的言論や差別的主張、誤った主張について、仲間内であっても批判する。そうでなければ仲間の非の責任が自分にも及んでくるからだ。その通り、今回の主戦場を観た多くのリベラル派や、政治に興味の無かった層は、「歴史修正主義者たちは、人種差別主義者であり、女性差別主義者でもある」との印象を受けている。沈黙は必ずしも同意を意味するものではないが、非難されるべき言論の責任を負いたくないならば、沈黙を同意と受け取る人々が多い事を弁えるべきだろう。

最後に、この映画によって左派が勢いを増した事は否めないが、この映画の上映差し止めを要求すれば、他者から見れば、右派による、気に入らない言論への弾圧とうつる。この8人の連名による上映中止を求める声は、本当に商業目的がある事が知らされていなかったからなのだろうか。藤岡氏は、契約書を注意して読まず、それへの署名を単なるセレモニーだと考えたと説明していたが、日本という国は、このような言い訳が法的に通用するのとは思えない。ちなみに私は、デザキ氏がインタビューを求めてきた段階、或いは直後から、映画祭に出品する可能性がある事、一般公開の可能性がある事を知らされていた。私はこの映画の出来、及びデザキ氏による編集に非常に不満があるが、個人的信頼を損ねたとしても、法的な契約違反だと考えた事は無い。上映中止への要求に対して、慰安婦たちへの名誉棄損で起訴された朴裕河氏も「内容がどうであれ、差し止め要請はやめていただきたいものです。出演者として、私も見たいです。問題があれば内容で批判しましょう」と言っておられる。内容への批判ではなく、頑なに上映中止を求めるならば、保守派にとって論理的主張が無いだけでなく、どんな手段を使っても異論を黙らせたい印象を与える。勿論、自由に物事を考える人々は、そういった手段に屈し、保守派の主張に同意してくれることはない。言論弾圧という暴力性に却って反発し、正反対の主張に魅力を感じるだろう。

日刊ゲンダイのヘッドラインによれば『保守論客が騒ぐほどヒットの自業自得』となっているが、これから慰安婦問題のコンセンサスが大きく左に傾いたとして、保守派の自業自得とは正にその通りだ。これは、慰安婦問題における左派の主張の正しさを証明するものではない。しかしながら、問題点に辿り着く前に、多くの保守派論客がすっかり信頼を失なってしまった点は、大きく反省すべきだと思う。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/255278/2