言論の自由とヘイトスピーチ
アメリカや日本の憲法でもって保障されている言論の自由を論じる際、『言論の自由』という概念がどこから生まれたか考える必要があります。
この概念は、ヴォルテールの伝記小説である「ヴォルテールの友人たち」を書いたイギリスの歴史家であり、作家のエヴェレン・ベアトリス・ホールが、この伝記小説の中でヴォルテールに言わせた言葉です。
「ヴォルテールの友人たち」に記されている背景によれば、フランスの哲学者であるクロード・オードリアン・エルヴェティウスの出版した『頭の中』という本が、大きな批判と騒動を呼び、パリ議会とソルボンヌ大学によって非難をされました。ヴォルテールはその本の中身については賛成出来ないものの、エルヴェティウスに対する攻撃を不当なものと考えていたようです。エルヴェティウスの著書が公開焚書の処分を受けたと聞いた時に、ヴォルテールの反応としてホールが言わせたのが「私はあなたの意見には全く反対だが、あなたがそれを言う権利は、死んでも守ろう」という言葉です。この言葉が、のちの『言論の自由』という概念の原則となっています。
つまり、もともとの『言論の自由』の概念の原則は、自分にとって賛成のできない言論であっても、それを言う他人の権利を認める…というものであることが分かります。
この原則をもとに、全ての国民が『言論の自由』を享受し、この自由は憲法によって保障される国民の権利となりました。
くり返しますが、憲法と法律(条令)の大まかな違いは、「憲法が国を縛るものであるのに対し、法律は国民を縛るものである」点です。ですから憲法は、国民が国に対して行使できる権利が記されている規定と言え、『言論の自由』とは、原則的には、国民が国に対して行使し得る権利です。
これらから考えれば、「自分にとって賛成のできない言論であっても、それを言う他人の権利を認める」という原則が、「他人が不快に感じ、賛成できない言論であっても、それを言う権利を自分も有する」と解釈され、もともとは「国家権力によって検閲を受けたり、弾圧される恐れなく、自身の思想や良心を表明する自由」であったものが、国家権力相手ではなく、「その他の国民や他国民に対しても、自身の思想や良心を表明する自由」を含まれる事になったと言えます。
ところが、『言論の自由』とは、憲法で保障されていると言っても、どのような言論でも許される、という意味ではありません。
まず、暴力や損害を与える事を目的とした、或いは奨励する言論は、『言論の自由』の中には含まれていません。
アメリカの場合を述べますが、1919年、オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア判事と、最高裁判事全員一致の意見として、人込みで混雑した劇場に於いて「火事だ!」と意図的に、虚偽であると知りつつ叫んだ男性の為の裁判で、「保障されている言論の自由の中には、暴力を奨励したり、損害を招くことを意図した言論は、含まれない」という前例があります。
またそれをもとに1969年には、黒人に対しての差別を表明し暴力を奨励したクー・クラックス・クランのメンバーが訴えられた裁判で、「ある言論が直接的な暴力を招く意図を持ち、或いはその可能性があると承知している場合は、言論の自由の保障には含まれず、その保護の下にはない」と言論の自由の規制に一応のガイドラインが設定されました。
この事件の際には、州警察の介入によってクラン団のメンバーらが拘束されましたが、裁判所はこの権限を州が有している事を認めています。
人込みで「火事だ」と叫ぶことや、飛行機内で「爆弾を所持している」と述べる事などは、憲法によって保障される『言論の自由』ではありません。同様に「報道の自由」や「表現の自由」などについても、いくら憲法で保障されているとしても、別の国民の権利を侵害すると認められる場合には規制される場合があり、その判断基準には「公益性」が主に挙げられます。
ですから個人やメディアが、時に「言論の自由」や「報道の自由」を標榜して他人のプライバシーを侵害したり、名誉を棄損する場合、これらの自由は公共性とその他の国民に与えられている権利に照らし合わせて制限される事があります。もともと、これらの自由が何を保障していたのかという原則に立ち返れば、当然の規制とも言えます。
言論の自由が保障されているからと言って、この権利は決して「神聖にして冒すべからず」ではありません。絶えず、その他の権利や公共性によって判断されます。繰り返しとなりますが、暴力を奨励するものや、損害を招くと知りつつ意図的になされる言論は、言論の自由には含まれていません。
「〇〇人を殺せ」というような、暴力を奨励したり、損害を招こうとする主張は、その対象が誰であっても許されるものではなく、原則から見ても、判例から見ても、言論の自由を隠れ蓑にして逸脱した違法行為だと言えます。
日本はヘイトスピーチを禁ずる一方、違反者への罰則は規定していないようです。個人的な考えですが、せめて暴力や損害を奨励したり、それを誘発する可能性を意図する主張の類いには、罰則が定められる必要があるのではないかと感じます。