国旗掲揚、国歌斉唱と「国民の権利」について
国旗掲揚や国歌斉唱について、私個人は賛成しております。日本の国旗や国歌だけではなく、外国のものに対しても、礼儀として敬意を払います。では国旗掲揚・国家斉唱が『憲法』によって義務付けられるべきか、という点において、これには反対を致します。
法律が制定する事が出来るのは、大抵、何が国旗であり、何が国歌かです。また憲法は、国民の権利や自由を保障し、国民に対する国家の権限を縛り、それを弱めるものです。「国」と言うと、何故か自民党政権しか思い浮かばないかもしれませんが、自民党と、共産党を含めた野党が政権交代をする可能性はあります。
例えば、自民党の憲法草案が、国民の義務として「公共の秩序に反しない限り…」として「国民の権利を制限する」とすれば、自民党が政権を握っている場合はともかく、共産党を含む野党が長期政権を握った場合では「秩序」に対する解釈が変わる可能性もあります。
今後70年、或いは100年の間に、「秩序」の解釈が変わる事態に陥らないとは断言できません。
政権政党が変わったとしても、憲法改正は容易に行なえない事を鑑みて、憲法が国民に課せる義務は少なく、国家権力を縛ってくれる方が、国民にとっては望ましいと言えます。
憲法が国民の権利を保障し、国家の権力を弱めるものであるのに対して、国会によって制定される「法律」や地方自治体によって制定される「条例」は、国民を縛るものです。「法律」や「条例」は、憲法の下に位置します。憲法改正をするのに両院の三分の二、また国民投票の過半数が必要であるのに対し、法律や条例を改正するには、議会の審議によって、主に新しい法律を作る形で改正されます。
国民に対する「国旗」や「国歌」に関する規定は、憲法ではなく法律で決められるべきで、実際に、公立学校での国旗掲揚と国歌斉唱は法律で定められていますが、個人がこれにどの様に関わる事が許されるかは司法の判断によります。たとえ法律で敬意を払うことを強要しても、憲法に認められている国民の思想や表現、信条の自由に反すると「裁判所」が判断する場合があります。国民と国が争う場合には、裁判所が法律や憲法を基に判決を下します。(これが「三権分立」と呼ばれるシステムです。)
「表現の自由」や「信条の自由」が保障されてある限り、法治国家は国民の権利を侵す権限を与えられてはいませんし、今までの裁判所の判例を見れば、国旗掲揚の際に起立を義務づけたり、国歌斉唱を強要することは出来ません。但し、国立、公立学校の教員を含む国家(地方)公務員の場合は、国家(地方)公務員に対する義務の一環として法律によって定められ、最高裁の判決を見てもこれを支持しています。
実際、公務員を縛るものには「国家(地方)公務員法」があり、違反をした場合の処分として、減給、戒訓、或いは懲戒免職を含む罰則が定められています。
例えば、公務員である教師が、国旗掲揚や国歌斉唱を拒否したり、国旗掲揚時の規律や国歌斉唱をしないように生徒に訓示を与えた際、職務を怠ったとして処罰される場合があります。大抵の場合は、校長など学校側との折り合いがつけられますが、中には受けた処分が不当であると裁判に訴える教員もいるでしょう。これを憲法や国家(地方)公務員法を基に判断するのは、国会や行政ではなく、裁判所です。
ですから、国民を縛る法律は国会によって定められますが、法律の制定や法執行の是非を憲法と照らし合わせて判断するのは、裁判所の権限・管轄であって、政府(政権)や、地方自治体、国会、議会の管轄・権限にはありません。
国民が「権利」や「義務」ばかり主張する社会になる…という懸念もあるかもしれませんが、実は「権利」や「自由」を認める社会というものは、自らがそれらを謳歌するばかりではなく、他人が権利と自由を謳歌することを認める「義務」も生じます。つまり自分が自分の信条や権利を主張する傍ら、他人の信条や権利の主張を認めなければなりません。これは相手の信条や主張が、どれほど不快で、間違っているように思われてもです。
国旗・国歌の例を挙げるならば、国旗を掲揚し、国歌を斉唱する権利が、表現、思想の自由として認められている代わり、国旗を掲揚せず、国歌を斉唱しない権利も、表現、思想の自由として認められています。国旗掲揚・国家斉唱するべきだという主張も、或いはこれらをしたくないという主張も、憲法が思想、表現の自由を認める限り、いずれの場合も国が強制することは出来ません。
私は先ほど述べたとおり、自分自身の信条や主張として、国旗掲揚や国歌斉唱に賛成をしています。しかしながら、掲揚し、斉唱したくない他の人の権利を侵害する事は出来ません。同時に、国旗掲揚や国歌斉唱に反対する人々も、国旗掲揚に敬意を払い、国歌斉唱する私の自由を侵害する権利は与えられていません。
「国は何をしている…」という場合、多くの方は、政府(行政)を意識されるようですが、政府も法律を守って行動しなければなりません。予算案を出す権限は内閣(総理大臣と国務大臣)だけにあり、法律案は内閣、或いは国会議員によって提出され、与野党を含む議会によって審議されます。議会によって審議され、可決されたものが、法律となり、その法律に従って行政(内閣と内閣の下にある省庁)が機能します。
憲法や法律、又三権分立を考えた際、「国」と一言で言っても、役割があり、特に国民の権利に対して政府に与えられている権限は、『独裁国』でない限り、それほど多くはありませんし、是非は『行政』と『立法』から独立した『司法』によって判断されます。例えば、議会の定めた法律であっても、裁判所が「憲法違反」と判決を下した場合は、法律の改定をしなければなりません。行政の行ないが法律違反と認められた場合も、司法の判断に従う義務があります。このような『三権分立』によって、法治国家があります。
ですから、極端な言い方をすれば、安倍首相が「外国旗の掲揚禁止」を法律で定めようとしても、与野党を含む議会によって審議されます。例え議会によって可決され、法律となったとしても、裁判所が憲法と照らし合わせて判断を行ない判断を下します。勿論、安倍首相とすれば、裁判所による判断がどのようなものか、或る程度の予測はつくでしょうから、司法によって「違憲」の判断が下ると疑われる法案を提出して野党やメディアの反発を買い、その他の重要審議を遅らせる事はしないと思われます。
ちなみに、学校における外国の国旗掲揚については、これが公立校によるか私立校かにもよりますが、日本国旗がともに掲揚されている限り、法律違反とは(私には)思われませんが、もちろん最終的判断は司法が行ないます。(ただし、そのような司法判断例は確認出来ませんでした。)
耳障りで不快な言論や主義主張に付き合わなければならないにしても、自由や人権の保証されている民主主義の法治国家が、その他の共産主義、全体主義、イスラム主義の国家よりも優れているのは、実は多様性が国民の権利としていかに認められているかという一点にあります。
ここで、共産主義国や、イスラム主義国と、民主主義国家であるイスラエルを比較してみます。
民主主義国家には、「反愛国的・反政府」言動が国民やメディアの間には多く見られます。北朝鮮や中国、イランなどへ行けば、国民は彼らの国がいかに素晴らしいか語ってくれます。彼らの学校へ行けば、恐らく国旗が掲揚され、国歌が斉唱される中、座っていたり、仏頂面をしている教師や生徒らはいないでしょう。彼らの指導者を称える肖像も高らかに飾られ、マイクを向ければ、いかに彼らの国が優れているか、いかに他国(特にアメリカ)が数々の悪を行なった悪の大国だか語ってくれます。これは国によって反政府・反愛国言論が禁じられているからです。
イスラム主義国も同様です。彼らは自分たちの国や宗教がいかに優れているかを宣伝し、敵国への同情や理解を示すような言論は厳しく禁じ、弾圧します。まさに政府が介入して、愛国とイスラム主義を宣伝し、その他の言論や主張、信条を認めません。
反対に、中東で唯一の民主国家であるイスラエルはどうでしょうか。イスラエルは言論、思想、学問、宗教、報道の自由が保障されている民主主義国家です。イスラエル国家に対する誹謗や中傷、悪質なプロパガンダや『陰謀説』などは、絶えず世界中を駆け巡り、ISISの起こすテロの原因はイスラエルにあると、ISISがテロを起こす度に非難を浴びます。パレスチナ人の嘘は真実として報道され、左翼はパレスチナに同情的であり、国連はイスラエルに対する非難決議をその他の国家に対する非難決議をまとめたものよりも遥かに多く可決しています。イスラエルは基本的にイスラエル人のものであり、エルサレムは歴史的にも宗教的にもユダヤ教の聖地ですが、イスラム教国はこれをイスラム教の聖地と主張し、国連はこれに同調しています。悪質なユダヤ人陰謀説や、果てはホロコーストの歴史事実を否定する言論さえ存在し、日本の保守派の中にもこれらを信じ、主張する人々が多くいます。
これに憤慨し、イスラエルは悪質な反ユダヤ主義言論、反イスラエル言論を違法とし、禁止しているでしょうか。
イスラエルが近代民主主義国家として、言論や信条、宗教、思想、報道の自由を保障する限り、いくら「歴史的に誤っている言論」であっても、法的には容認するしかありません。これらの自由(権利)を保障すると言うことは、(自分にとって)「正しい」「正しくない」に関わらず、相手の権利を認める事です。たとえ真実と思われなくても、言論を封じる手段は、言論の自由を謳う法治国家には与えられていません。
しかしながら、実はこの、国民に与えられている自由や権利による『多様性』によって、イスラエルという民主主義国家は、他の民主主義先進国と強い軍事同盟を結ぶことができ、国連による数多の非難決議や、パレスチナ政府によるイスラエル製品に対するボイコット運動(BDS運動)にも拘らず、イスラエル製品をボイコットする側にこそ不利益を生じさせる、技術の発達を誇っています。技術や産業、文化の発達は、国民の権利と自由にかかっていると言えるのです。
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国民の権利を保障する民主主義国家には、様々な言論や思想、信条が存在します。国民の権利とは、政府に反対する権利とも言えます。多くの国民は、自らの主張や信条が政府と一致している時は、自由や権利を必要としません。ところが自らの主張や信条が変わる可能性や、政府の方針が変わる可能性はあります。その時に、政府の方針や主張に反対する自由のない社会では、政府による弾圧が起こります。
私たちに与えられている選択は、「政府の方針に逆らう自由の与えられている社会に生き、全く同意できない、胸のムカつくような異論の存在も我慢していく」か、「全ての国民が、時の政府の方針に逆らう自由のない社会に生きる」かしかないように思われます。