保守派アメリカ人と観た『主戦場』

ミシガン州アンナーバー市ダウンタウンにあるミシガンシアターにおいて、ドキュメンタリー映画『主戦場』が上映される事を、当日にミキ・デザキ監督から知らされた。ミシガンシアターは、私の自宅から10分とかからない距離にある。せっかくなので、主人や義兄、義妹夫婦、友人らを誘って、鑑賞する事にした。『主戦場』については、一度デザキ監督からリンクが送られており、それを主人や子供たちと鑑賞している。その時は、あまりの偏向振りに嫌気がさし、途中から注意を払う事をやめてしまったが、映画館では集中して鑑賞し続けるしかない。その分、細部に至るクリティカルな批判が出来るかと期待したのだが、実際には、展開が早すぎて、資料を提示している場合でも、その資料の全体はおろかハイライトされている部分すら読む時間が与えられていなかった。批判するべき点においては、だいたい今までにも書いた通りであるが、敢えて付け加えるとすれば、編集の結果、私の言葉がデザキ氏の都合の良いように切り取られている点である。これについては、後述する。

今回の鑑賞は、アメリカという国で、アメリカ人に囲まれて行なったので、アメリカ人として鑑賞する事が出来た。しかも極東の歴史や政治問題について疎いアメリカ人らと共に鑑賞した為、私自身、一般的アメリカ人の視点から鑑賞する事が出来た。

改めて書くが、一部の右派出演者らによる人種差別的発言や性差別的発言が、慰安婦問題に関する全体としての右派の主張の正当性を傷つけている点は、日本人右派が国内でどのように弁明、弁護しても否めない。これは右派の暴論に対して、劇場中に観客から漏れる、ため息やうなり声、舌打ちによく表れている。しかしながら、この映画が両論併記としつつバランスの取れた作品で無い事は、アメリカ人にも伝わるようだ。途中『女たちの戦争と平和資料館』事務局長である渡辺美奈氏は「一億円を貰っても奴隷だと思います」と語っていたが、こうした極論は、実際に奴隷が何であるか知る米国人、また現在も存在するISISやタリバンなど原理イスラム教過激派からの性奴隷の解放に関わる人々にとっては、真の奴隷の悲劇を軽んじる暴論に聞こえる。そしてこうした極論を、デザキ氏は、右派への人格攻撃を以てその主張の正当性を疑わせたようには編集せず、慰安婦を性奴隷と呼ぶ事への正統的論理として流している。

渡辺氏は更に「性被害を受けた女性を信じず、その証言を疑えばセカンドレイプになる」と語っていたが、冤罪というものを防ぐ為には、どんな証言も吟味されて当然である。勿論、慰安婦の女性の些細な記憶の不正確さ全てを以て「信用性が無い」というつもりは無いが、日本政府に謝罪と補償を求める女性たちの中には、慰安婦となったいきさつについて、つまり公権による強制があったのか、あるいは個人的選択だったのか等の核心の部分の証言において、証言を二転三転させている場合が多い。慰安婦となった核心の部分における経緯の信憑性を吟味する事すら「セカンドレイプになる」と呼ぶ姿勢には、真実よりも政治信念を優先させる姿勢しか感じられない。

「Believe women」は、2018年のブレット・カヴァナー最高裁判事承認是非への公聴会において、アメリカ保守派が最もうさん臭く感じたスローガンの一つである。アメリカの左翼が叫んだ「女性を信じて」「疑えばセカンドレイプ」等は、「女性である事が真実を証言している事にはならない。冤罪を防ぐ為にも、状況証拠を欠いた女性の証言は疑われて当然」という当然の反発をアメリカ保守派から招いており、渡辺氏がこうした発言を説得力のある論理であるかのように語り、デザキ氏が後押しした時点で、「単なる左翼プロパガンダ映画だったのか」という強い印象を与えてるだけに終わっている。

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    伝統あるミシガン・シアター。アンナーバー市ダウンタウンの中心に位置する。

しかも、日本人にとっては気付かない点なのかもしれないが、この映画がアメリカ人保守派にとって全く説得力を持たない致命的欠陥は、結論部分でのデザキ氏の主張にある。デザキ氏は、「日本の再軍国主義化運動の陰にはアメリカがあり、アメリカの手先となった故岸伸介首相があり、またその孫である安倍晋三現首相がいる」と描いている。また慰安婦問題と安倍政権による再軍国主義化を繋げる人物として加瀬英明氏を取り上げ、加瀬氏を中心に陰謀のネットワークがあるように見せている。安倍首相や日本会議による日本再軍国主義化の恐怖感を煽ろうしているのだろうが、その「日本再軍国主義化の恐怖」とは「アメリカの起こす戦争に、日本が巻き込まれる事への恐怖」なのだ。デザキ氏は自身のナレーションを以て、アメリカの起こす戦争を日本の若者が戦うことになっても良いのか、と問うているが、これは恐らくデザキ氏が日本人左翼からの感化を受け、彼らのトーキングポイントをそのまま引用した結果だろう。アメリカの戦争に日本が加担する事は、日本人左翼やデザキ氏にとっては、とてつもなく恐ろしい事なのかもしれないが、普通のアメリカ人からすれば「同盟国なのだから、当然なのでは?」と、一蹴してしまえる幼稚な問いかけである。実際、主人にも、義兄であるテッド•ケネディにとっても、「安倍政権が中国やロシア、あるいはイランに操られていて危険」というのならともかく、「安倍政権にはアメリカの意向が働いて危険」という流れは突飛に思えたようだ。アメリカを悪の根源として描き危機感を煽ったところで、当然ながら、アメリカの戦争も含め、アメリカを悪の化身として捉えるこの映画は、一般のアメリカ人には反米プロパガンダ映画としか映らない。この映画についてのレビューは、右派のものも、左派の書いたものも含めて読んだが、この点が指摘されていない事を鑑みても、日本の左右両派の歴史観が、欧米左翼による「アメリカ・西洋自虐史観」に影響されている為と理解できる。またアメリカや欧米を悪の根源とする歴史観以外の歴史観がある事をデザキ氏が理解できない点は、アメリカ人としてあまりにも稚拙な失態だ。 

       

ちなみに安倍首相は、トランプ政権や共和党を含め米国保守派からの評価が決して低くない。アメリカ人保守派による日本会議への警戒心があっても、少なくとも外交や安全保障問題における安倍首相は、理に叶った現実的政治家として見られている。デザキ氏は質疑応答中、「生存する慰安婦の女性たちが亡くなった後は、この問題は消滅してしまうのではないか。安倍政権はそれが分かっていて、問題の解決を遅らせている」と答えていたが、多くのアメリカ人は2015年に慰安婦問題の解決に向けて日韓合意が結ばれた事と、その合意を韓国が破棄した事を知っており、「安倍政権が解決に乗り気では無い」とは説得力に欠ける。

 

この映画へのレビューには、「歴史修正主義者の主張を左派が次々に論破している」といった感想も少なくないが、議論というものは、言い切ってしまえばそれが論破となるのではない。ましてや監督による反対意見の引用が、論破している事にもならない。日本在住の人々が論破というものをどのように理解して使っているかは定かではないが、アメリカ的な考えで言えば、説得力のある議論とは、反対意見との議論を戦わせて相手の説の破たんを証明するところにある。しかし「主戦場」では、後出しジャンケンのように、右派の主張に反対する意見を左派に述べさせ、それで「論破した」事にしてしまっているのだ。議論を戦わせる事に慣れているアメリカ人からすれば、右派の論客として登場する人々も、それなりの理屈があって主張をしている筈なのに、左派による反論の後に述べられるべき右派の意見は紹介されず、議論が成り立っているとは思われないのだ。大抵の人々は、反対意見のある事を承知の上で、それらを考慮しながら、それでもより説得力のある論理を信じるものだ。右派がなぜ、例えば吉見義明氏による『性奴隷説』や『強制連行説』等を知りつつ、それらの見解を否定するのか、そうした根底に迫って議論を戦わせ、初めて本当の『議論』らしきものが生じるのだが、デザキ氏は、一部右派の暴論に余りにも捉われ過ぎた結果か、「女性差別や人種差別が右派の主張の根源にある」との見方しかできていない。「歴史修正主義者らがこのように主張するのは、彼らが性差別主義者で、人種差別主義者であるからです」という単純な描写は、説得力に欠けるのだ。特に、何かと言えば左派から『性差別主義者』『人種差別主義者』と左派によってレッテルを貼られてきた保守派アメリカ人からすれば、単純なレッテル貼りによる人格攻撃によって主張の正当性を疑わせようとした試みとしか映らない。一緒に鑑賞した友人のマーシャ・バーバーは、どちらかと言えばリベラル派なのだが、「何であれ、色々と複雑な問題だと思うけれど、監督は単純に極論だけを好んで紹介している気がした」と感想を漏らし、義妹であるサラ・ランプトンは慰安婦となった女性の境遇に心を痛めつつ、それでも「監督の分析は子供っぽかった。違う意見を悪者のように書いていて、あまりにも二極化した見方だった。白黒つけすぎていたし、善人対悪人というふうに描いていた」と述べている。因みに彼女たちは、慰安婦問題について映画の中で語った以外の私の意見を知らない。

 

デザキ氏の編集による、全体の内容を無視した発言の切り取りについて述べるが、私の場合を言えば、デザキ氏による執拗な「当時、アメリカ人ライターへの寄付、調査資金提供について非倫理的、道義に反していたと考えましたか」という質問に対して、「いいえ。考えませんでした」と答えた。しかしインタビューの中で私は、「調査の為の資金は提供しつつ、そのライターが達する結論については口出しない事が約束された提供でしたし、同様の、ジャーナリズムやアートに対する、結果内容を束縛しない支援は、どの財団でも行なっています。私は財団が行なうべき事を個人的範囲で行なっただけです。実際、あなたのこのドキュメンタリーの為にも、私は、内容や結果を束縛せず金銭支援したでしょう」と笑いながら付け加えた事も覚えている。デザキ氏は自分への寄付が言及された途端、「オーケー、オーケー」と、すぐに話題を変えてしまった。しかもこの部分は編集でカットされている。

 

私がGoFundMeを通してデザキ氏に寄付した理由は、秦郁彦氏にもインタビューしているとデザキ氏に聞いたからであり、秦氏が出演されているならば、それなりのものとなるだろうと期待したからだ。一応匿名での寄付であるが、金額としてはそれなりに高額であり、それが私からの寄付である事をデザキ氏は承知し、感謝も述べている。秦氏の出演は、結局秦氏が辞退した為に実現しなかったが、資金提供の結果が思い通りの作品を生まない事は当然あり得るのだ。そうした可能性を承知した上での提供であるのに、一方を不道徳としつつ、自分への寄付だけは受け付けるという姿勢は、偽善も良いところだろう。

 

『主戦場』制作への金銭支援、寄付が日本人の間でなかなか進まない事を、デザキ氏は「アメリカ人と比較して、日本人はアートを支援するという姿勢があまり発達してない」と嘆いていたが、確かにアメリカ人は、ジャーナリズムやアートを金銭サポートする事に慣れている。これは、「文化や学問への支援、チャリティーは、国ではなく個人が行なうべき」という考えが徹底しているからだろう。(因みに去年は、私の主人が資金援助した別のドキュメンタリーもミシガンシアターで上映されていた。) このような、チャリティーや文化に対する支援への意識の違いに付け込んで、まるで不正の賄賂か何かを送って情報操作をしたかのような描き方に、私はデザキ氏ならではの独善的二重基準を感じる。

 

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                   ミシガンシアター入り口   Shusenjo Q & A, with Director Miki Dezakiとある

デザキ氏や彼の支持者がどのように主張しても、この映画が偏向している内容である事は明らかである。デザキ氏による右派への偏見や偏向は、歴史認識の如何にかかわらず、彼の主張を拾うだけでわかる。デザキ氏によれば、日本の歴史修正主義者ら(反対派)は言論の自由を理解せず、彼を黙らせようとしている勢力となるのだが、ドキュメンタリーに出演している朴裕河氏は、韓国の慰安婦側によって名誉棄損で訴えられ、韓国司法によって刑事責任を問われている。その点については質疑応答でも認めていた。またデザキ氏は、さまざまな書き込みによって身の危険を感じている旨を語り、実際に彼が危害が加えられていないのは、「彼ら(歴史修正主義者)との繋がりがあまりにも明らかなので、(実際に危害を加える命令が出ていない)だと思う」といった類の解答をしていたが、こういったパラノイア的な見方については、映画主催者の一人であるマーカス・ノーンズ(ミシガン大学教授)がやんわりと否定していた。

因みにノーンズ教授は、日米のプロパガンダ映画を含め、日本映画研究の専門家であり、アレクシス・ダデン女史が、アメリカ人学者の連名を集めて日本政府によるマクグロウヒル社の教科書への意見介入に反対した際、彼女に協力する学者としての声明に名前を連ねた学者の一人である。たまたま、お互いの子供を通しての繋がりがあり、以前一家で私の自宅のディナーにお迎えした事がある。アメリカの政治趣向で言えばリベラルな人物であると思うのだが、デザキ氏が訴えられている件で、「(私見ですが)作品が余りにも偏っており、彼らを悪人と描いている事が根底にあるのでは?」という憶測に、同意していた。

デザキ氏は、「ケント・ギルバート氏、トニー・マラーノ氏だけではなく、最近は歴史修正主義者のお抱えアメリカ人としてジェイソン・モーガン氏が人気を呼んでいる」と述べていたが、デザキ氏は、これらアメリカ人の肩入れの動機に、ビジネスが絡んでいる事を示唆していた。しかしながら、全ての人がビジネスだけが目的で運動をする人々のではない。むしろ多くの活動家は、ある問題に触れ、興味を持ち、自分を納得させ、感動させる主義主張に出会い、そうした考えに心から同意しながら運動に参加する場合が殆どではないか。そうした可能性を無視して、ただのビジネスや、有名になりたい願望によってのみ人々が政治問題に関わると考えるなら、「デザキ氏の背後には中野晃一氏があり、中野氏の背後には誰某があり、その背後には何々という団体があり、結局はそれがジョージ・ソロスに繋がる」といった、それこそ加瀬氏を頂点とした陰謀の系図を真似て、アメリカ人右翼が喜びそうな陰謀論を唱える事もできるのだ。デザキ氏は、己の繰り広げた陰謀説の幼稚さを、自分が同様の陰謀の系図に当てはめて語られない限り、理解できないのかもしれない。但し、自分に対する寄付は疑問に思わずに、別のライターへの寄付は不道徳と位置付けるような独善的二重基準をデザキ氏が持ち続ける限り、デザキ氏が自分より大きな世界を理解する事は、所詮不可能だろう。