ナショナリズムとパトリオティズムの違いについて

ナショナリストと呼ばれる事に抵抗を感じ、「私はナショナリストではなく、愛国者です」と主張する方が多くいるが、ここでは主観や『自称』ではなく、客観的な定義の上で、違いを述べたいと思う。
 
ナショナリズムとパトリオティズムの違いについて、多くの人々が説明を試みてきた。その中で、イギリスの詩人、作家であり、政治ジャーナリストでもあったジョージ・オーウェルは、以下のように二つの違いを簡潔に定義をしている。
 
「愛国とは、特定の場所や特定の生き方への思い入れであり、ある人はそれが世界で一番優れていると信じているだろうが、そうした考えを他者に押し付けようとはしない。愛国はその性質上、軍事的にも文化的にも、攻撃性は無い。一方ナショナリズムは、力への欲求から離れられないものだ。どのナショナリストにも共通する目的は、更なる力、更なる名誉を、自分自身や仲間内に対してではなく、自身の人格とすっかり同一された集合体に確保させることにある。」
 
パトリオティズムが個人的な思い入れであるのに対し、ナショナリズムは人々を一致させる性質がある。人々を一致させるナショナリズムの性質の影響は大きく、例えば戦争が起これば、この性質が人々を敵に対して一致させるともいえる。
 
であるから、オーウェルの『ナショナリズムへのノート』は更に、「ナショナリズムは人々を一致させる一方、人々を別の人々に対して一致させる」と簡潔に定義している。

 

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                                        ジョージ・オーウェル, 1903~1950

 
そうした定義から考えれば、ナショナリストには敵があるのは納得がいくだろう。最近の日本人ナショナリストの主張を聞くと、何よりもリベラル派や(在日)韓国人、中国人を攻撃し、罵る事に意欲を燃やしているように感じる。リベラル派や中韓の人々について書かれている記事ならば、どんな『フェイク・ニュース』でも飛びつくだろうし、これはの人々について、あからさまな差別や偏見を主張しながらも、それを指摘されれば「これは差別ではなく、事実を言っているのに過ぎません」と言ってのける。
 
このようなナショナリズムは、仲間が増えるに従って、その主張が更に極端な攻撃性を帯びる。敵、或いは反対者を憎み、罵り、冒涜することで、愛国心を示そうとするから、論理が常識を超えて極端になるしかないのだろう。ある意味、共産主義者や過激派らが、仲間内で評価される為に、主義への狂信と敵への憎悪を深めていく傾向と酷似している。
 
それでも、ナショナリストらが自らの名誉や自己顕示欲の為に行動していると考えるのは、早計だ。彼らの殆ど多くは、自分個人の名誉ではなく、集合体の名誉を求めているものだ。但しこの集合体は、自らが属している集合体であり、しばし自身の性質やアイデンティティーを見出す場でもある。であるから、この集合体の名誉が毀損されていると感じれば、まるで自分の名誉が既存されているように感じるのだろう。
 
また特筆されるべきことは、多くの場合、これらナショナリストが守ろうとしているのは、実際の国家や国民という集合体ではなく、国家神話、もっと簡単に言えば、国家や国民に関するアイディアである点だ。であるから、彼らが信奉している国家神話やアイデアを共有しない同国民は、彼らの激しい憎悪の対象となるし、「国の安全保障の為に名誉を犠牲にするな」などという極論が生まれる。
 
ナショナリストが守るものが国家国民に関するアイディアであり、敵を意識した主義であるのに対し、パトリオット(愛国者)には、国や郷土、文化、同胞への自然な愛着があるだけだ。愛国者にとっては、「正しい」国家観や歴史の「真実」などは関係がない。であるから勿論、リベラル派も左翼も「愛国者」であり得る。
 
ナショナリストが「排他的」と呼ばれる理由の一つは、自分とは意見の違う人間の愛国心を認められない点にあるのではないだろうか。

 

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