祖父母について

虐待をする親というのは、若く、知識や、金銭的余裕の無い親だという先入観が、一般的にはあるかもしれない。もちろん、そうした例も多いだろうが、私の両親は会社を経営しており、金銭的にもかなりの余裕があった。そうは言っても決して『成金』ではなく、どちらかと言えば「世が世なら」という類の、落ちぶれてしまった家だった。父方の祖父は、紀州徳川家の向かいの、某伯爵家とある作家の間の家に、50人を超す使用人に囲まれながら「若様」と呼ばれて育ち、帝国大学を卒業し、弁護士の資格も持っていたらしい。教育者の家に生まれた祖母は女学校を卒業した後、二枚目俳優である上原健に似ていた祖父とお見合いをして結婚している。祖父母の間には男の子が四人生まれ、私の父は三男である。ところが敗戦によって財産をすっかり失ってしまったにもかかわらず、祖父には働いて家族を養うという感覚が全く無かった。一家は祖母が女で一人で働き、養うことになる。父が子供の頃は、一家は大変貧しく、一つの生卵を兄弟四人で分け合っておかずにしたのだと聞いた。私の記憶にある祖父母は、いつも小さな家に静かに過ごしていた。訪ねて行けば、白い馬にまたがり、腰にサーベルを差した曾祖父の写真や、軍服姿の祖父の写真などが壁に飾ってあり、「源氏物語」や「枕草子」、「徳川戦記」等のたくさんの本があった。祖母は時折、家系図なるものを見せては、昔の時代の事を楽しそうに話してくれた。祖母の話によれば、先祖の一人は、幕末の日本に開国を迫るマシュー・ペリー提督との交渉の為の、日本側通訳団の一人だったらしい。某大名家一族から養子に入った人物の名もあった。寡黙であった祖父は、「昔の話は、もうその辺でよさないか」と言いつつも、決して祖母を粗野に扱ったり、声を荒げる事もなく、いつも紳士的だった。

父と祖父は、全くと言って良いほど正反対の性質であった。祖父は教養深く、丁寧であり、品があった。私の父は、祖父の紳士ぶりを軽蔑しているかのようであり、「若様」と言われて育った祖父を「バカ様」と言ってからかった。上品な言葉使いをする祖父とは対照的に、父はいつも野卑な言葉を使っていたし、きちんとした場に出ると、どう振る舞って良いかわからない子供のように、しどろもとろした。

父の祖父への対応を見ると、父は祖父の育ちの良さや教養の高さを憎み、そうしたものには結局一切の価値が無いかのように、あからさまに軽蔑していた。父からしてみれば、いくら育ちが良く教養が高くても、家族を養う為に働く事をしなかった祖父は、尊敬に値しなかったのだろうし、父が少年期に体験した飢えを思えば、憎く思えたのかもしれない。父は、母と結婚し、母の実家に養子に行くことで、初めて貧困から抜け出せたようだ。

一度だけ祖父が、余りにも礼を欠いた父の態度に雷を落とした事がある。母の実家に皆で集まっている時の事であり、恐らく父は、いつものようにぞんざいで、あからさまに祖父母をバカにした言動をとったのだろう。祖父は父を叱った。父は反省の態度を見せたくない反抗的な子供がするように「うるさい」「バカ」「ぶっころすぞ」など、ぶつぶつ呟いたが、決して大人として反論しなかった。祖父が声を荒げた事は、その一度きりで、それ以前も、それ以降も無かった。父に対しては、「もう、あの子も大人だし、何を言っても通じない」という諦めのようなものを感じていたように思われた。私には、父からぞんざいな扱いを受ける祖父母が気の毒に思われ、いたたまれなかった。       

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母は、小さな山や貸しアパートをいくつも持つ、大地主の家に生まれている。ところが母の生い立ちは複雑であった。その複雑さは、母の母、つまり私の祖母、またその母、私の曾祖母から始まる。

母の母、つまり私の祖母、菊子(仮名)は、祖父との結婚前、親戚の家で行儀見習いをしていた際、その家で働いていた別の男性に強姦され妊娠し、その男性と結婚をしていた。もともと菊子は役人と教育者の間の家庭に生まれ、何不自由なく育っていたのだが、どういうわけだか菊子の母親伊都子(仮名)は、菊子と妹の妙子(仮名)、またその妹の泰子(仮名)を夫のもとに残して離婚をする。伊都子は別の男性と再婚をし、一男一女をもうけ、私が生まれた頃は一族の長として、皆に恐れられる存在だった。母に言わせても、伊都子は厳しく、威厳があり、気軽に甘えられる存在では無かったようだ。伊都子は明治の時代にもジーンズを履き、英語を教えていたという。伊都子の末の娘は米国の大学に留学し、永住権を獲得していたのだから、当時とすればかなりハイカラな家だったのだろう。

伊都子が家を出た後、菊子ら姉妹は、父親である英二(仮名)の下で育てられる。英二は村の人々が何かのきっかけで暴動を起こした時に県から遣わされた役人であり、その温厚で人徳の高い人柄によって、村の人々の信頼と尊敬を得たようだ。のちに、是非村に留まって欲しいという村の人々からの懇願によって、小さな村に住み続けたと聞く。教育熱心でありながら、温厚で愛情深く、妻が家を出た後の娘たちの世話も嫌がる事なく見たようだ。菊子が初潮を迎え、何事か全く理解できず、びっくりしていた時には、英二は血で汚れた娘の下着を洗いながら、月経について説明してくれたという。「お父さんは本当に優しい人で、メンスについても教えてくれた」と菊子は何度も懐かしそうに語っていた。

菊子はピアノを弾き、女学校の運動会の時には、ピアノの伴奏をした。女学校を卒業した時は、総代として答辞を読んだという。おっとりした性格で、しかも世間知らずであった菊子は、行儀見習いとして当時大きな商店を営んでいた親戚の家に奉公に出るが、その勤め先で、奉公人の一人であった太一に犯され、そのまま妊娠してしまう。全く意にそぐわない事だったのだが、奉公先の親戚に説得され、いやいや太一と結婚する事にしたらしい。菊子は女の子を出産し、その子を洋子(仮名)と名付けた。

洋子が手が離れるようになると、菊子は自分の叔母の家に手伝いに出る。叔母(正子)は病気がちで、もう何年も寝たきりであったという。菊子は寝たきりであった正子の世話を毎日するうち、今度は正子の夫、次郎(仮名)に強姦される。その強姦が一度きりであったのか、数回あったのかは定かではないが、菊子は次郎によって妊娠をし、双子の女の子を出産する。その双子の女の子の一人が、私の母である。

菊子は、太一と結婚している身で次郎によって身ごもり、次郎の子供を出産するが、双子の女の子の赤ちゃんのうちの一人は次郎の実子として役所に届け出を提出し、もう一人の赤ちゃん、母は太一の実子として届けられる。今となってはあり得ない話なのだが、菊子も母も伯母も「あの頃は、役所なんて、みな良い加減だったから」と他人事のように笑っていた。

私の母は、血の繋がらない太一の下で育てられ、伯母は子供のいない次郎の長女として次郎の下で育てられる。叔母である正子はどんな気持ちがしただろう、とやるせない気がするのだが、菊子に言わせると、正子は亡くなる前、両手を合わせ、「有難う、本当に有難う」と菊子に感謝を繰り返し述べたようだ。子供のいなかった次郎に、姪によって子供が生まれた事が嬉しかったのか、病気の自分の世話を最期まで尽くしてくれた事に感謝していたのかは知らないが、現在の感覚では正子の気持ちは全く理解できない。家を存続させるという意識が今よりも強かった当時、子供を産めない妻は妾によっても子供を望んだ場合もあるようだから、全くの他人である妾によってではなく、自分の姪によって夫が子供を得たとなれば、喜ばしく思えたのかもしれない。私は何度聞いてもこの話を逸話と思えなかったのだが、菊子は私の非難の方こそ的外れであるというようにキョトンとしてしまうので、私も狐につままれたような気になった。

母が語ってくれた幼い頃の思い出は、菊子と太一と暮らしていた坂の下の家から、毎朝菊子と共に坂の途中まで歩いた事だ。坂の途中からは、山の中途で暮らす次郎の家から、次郎のもとで育っていた母の双子の姉が菊子を迎えに来ていた。菊子は、毎日日中は次郎の家で手伝いをして過ごし、夜は母と一緒に太一の家で暮らしていたという。母は、毎朝菊子と一緒に坂を上っていく姉が羨ましかったという。「私も連れて行って」と訴えたようだが、そうした願いは一切無視された。その頃の事を語る母は、悲しく、つらそうだった。母は、毎日毎日、菊子によって見捨てられたような気になったのかもしれない。

実父として届けられながら実は養父であった太一は優しかったようだが、母は太一をお父さんと呼ぶ事無く、太一が死ぬまで「太一さん」として呼んでいた。

菊子は何年か後に太一と離婚をし、正式に次郎の妻となる。母は実父である次郎の養女として迎えられる。ようやく家族が一つになった、という安堵感があったように思われるが、次郎は厳しく、しかも癇癪もちであり、一瞬でも言いつけに従うのが遅い場合は、容赦なく体罰が下ったようだ。「おじいちゃん(次郎のこと)は本当にすぐ暴力を振るう人で、洋子お姉ちゃんも、みんな殴られ、髪の毛を持って引きずられた」と語っていた事があるから、洋子も次郎のもとに何年か過ごしたのかもしれないが、次郎の厳しさは、地元の紳士録にも言及されていた程なので、有名だったのだろう。娘が暴力を振るわれている時に菊子が娘を庇おうとすると、次郎は菊子も容赦なく殴ったらしい。それでなくとも病弱で頼りない菊子が自分の為に殴られるのが耐えられず、母は泣き叫んで次郎に許しを請うたらしい。

母の双子の姉である伯母に言わせると、母は祖母のお気に入り、最愛の娘だったらしく、実際祖母が母を可愛がっていた事は傍目にも伝わった。母もまた、美しく上品な祖母が自慢の種であり、大好きだったようだ。それでも祖父に似て気性が激しかった母は、穏やかでおっとりした祖母を慕いながら、どこか祖母に捨てられたという悲しさ、祖父の暴力から守ってもらえなかったという失望感、或いは悔しさのようなものを心のどこかに抱えていたようにも思える。

実際には次女でありながら、母は次郎の家を継ぐという意識を強く感じるようになる。双子の姉である伯母は東京に嫁いだので、母は自分が婿養子を迎える決意をする。一度はある公務員である男性と婚約したものの、何となく躊躇いを感じた母が次に白羽の矢を立てたのは、自分の言う通りになりそうな一歳年下の従弟である。従弟とは、母親同士が姉妹の関係だ。母は従弟と結婚し、二年後には私が誕生する。

 

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