プーチンを権力の座につけた未解決犯罪 ③ 

トレパシキンは、2000年9月にFSBの長であるヴィクトル・ザカロフが表明した、「我々は彼ら一味を把握している。このテロ行為を企て、実行したのはチェチェンではフォックスというニックネームで呼ばれているゴチャエフだ。彼こそがテロ実行犯らを指導したのだ。彼ら全員過激イスラムのワハビズムの一派だ。」という爆破事件に関する公式説明を否定できる立場についた。
 
ロシア当局がゴチャエフの一味とし、ヴォルゴドンスクへ爆弾を運んだとされるユセフ・クリムシャムカロフとアダム・デクシェウの為の裁判が準備されていた。
 
トレパシキンは新たに発見された容疑者の似顔絵とブルメンフェルドの証言を基にした証拠を、裁判所に提出できるように準備をしたが、ブルメンフェルドをモスコヴスカエ・のヴォスティのレポーターであるイゴル・コロルコフに紹介した。ブルメンフェルドはコロルコフに対しても、当局の調査の結果としてゴチャエフだと言われている人物は、実際にはゴチャエフではないと証言した。
 
レフォルトヴォ刑務所で、彼らは私にゴチャエフの写真を見せ、私が地下室を貸していたのは、その写真の人物であると言ったのです。私は、この男性には会った事は無いと言いました。ところが彼らは私がその写真の男性をゴチャエフだと認識するように強く勧めました。私は全てを理解し、彼らの言う通りにしたのです。」
 
ところが、コロルコフとの面会の翌日、トレパシキンは逮捕され、彼のアパートメントが家宅捜査された。彼は非公開文書を不適切に扱ったとして、ウラルの労働収容所に4年間投獄される刑を受けた。その結果、彼が準備した重要な証言は、裁判所に証拠として提出されなかった。
 
 
トレパシキンの逮捕によって、アパートメント爆破事件の調査は行き詰まってしまった。この問題の真相に迫ろうとした人々は、誰かを召喚して事情調査をするような権利を持っておらず、この件に精力的に調べようとすれば、命の危険に関わってくることを悟っていた。世界のその他の地域はこの件には無関心で、世界で最も多くの核兵器がテロリストの管理にあるという意味を、決して認めようとはしなかった。
 

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         逮捕され、4年の懲役刑を受け、強制収容所に送られるミハイル・トレパシキン
 
 
2003年の5月、「暗黒と夜明け」が出版された。一か月後、私はそれを、上級研究員として務めるワシントンのハドソン研究所に贈呈した。ドイツの映画会社がアリオナ・モロゾヴァと共にやって来た。私は、何故アパート爆破事件が政治挑発であると信じるか、説明をした。私の主張は2004年にサンダンス映画祭に出品された「不信」という彼らの映画の中心テーマとなった。この映画はロシア版も登場し、ユーチューブに落とされ、ロシア中に広まった。
 
しかしながら、何かを変えるには文民の指導者の力が必要だし、この爆破事件を政治問題として取り上げていけるような人物は、一人一人消されていった。
 
ロシアの主導的調査ジャーナリストであるアンナ・ポリトコフスカヤの殺害について、アレクサンデル・リトヴィネンコが発言し続けていた。ポリトコフスカヤは、2007年10月7日、彼女のアパートのエレベーター内で、拳銃で撃たれて死亡した。リトヴィネンコの方は、11月23日、ロンドンの寿司店で茶に入れられた放射能ポロニウム‐210によって毒殺されてしまっていた。
 
2003年9月に私がラジオ・リバティーのアドバイザーまたコメンテーターとして働く為にロシアに戻った時、このアパート爆破事件について、すぐにかかわるつもりはなかった。勿論、この件が再び浮上してくることは承知していた。ロシア当局もこれには気付いていただろう。実際、アパートメント爆破事件は、良心のある人々には無視する事が出来ない事件だ。この事件がFSBによって起こされたという状況証拠は余りにも多くある。これが直接的証拠に欠ける唯一の理由は、プーチン政権がこれを隠しているからだ。
 
リャザンでの事件では、当局は現場地下室に爆弾を仕掛けた人物、この事件のあらましの記録、偽の爆弾まで隔離している。彼らは、予測では、これらを国家の秘密として守りたいようだ。しかしロシアの法律では、市民の安全や健康を脅かす災害についての事実と国家と公務員による法律違反は、国家機密として非公開にはできないように定められている。
 
爆破を起こしたのがFSBである事を示す証拠を受け入れる為の、最も大きな困難は、国家がそんなことを興す筈はない、という躊躇だろう。どんな基準から考えても、権力の座につくために何百人もの無辜の、又全く関係のない人々を殺害する事は、通常の人間社会に生きる人間にしてみれば、理解できない不条理だ。しかしながら、共産主義の名残を残しながら、どんな国にロシアがなってしまったのかを考えれば、これには一貫性があるのだ。
 
ロシアは決してアパートメント爆破事件を忘れていない。2011年と2012年に起こった反プーチンのデモでは、デモ参加者はアパートメント爆破事件を意味する印を掲げていた。ロシアでは人々が「ある件」については避ける事はよくある。そうでなければ命が危ないからだ。それでも、当局にとっては都合が悪いだろうが、無視されているからと言って、事件がなくなった訳ではない。
 
ロシアにぶら下がっている危険の中、どのようにプーチンが権力の座についたのか、その不思議についての回答を求められない事実以上に、恐ろしいことはない。