昭和天皇と第二次世界大戦 (3)軍の暴走を支えたもの
昭和天皇が支持した「天皇機関説」は、天皇の地位を議会と等しくするものです。
明治憲法は「天皇は国の元首にして統治権を総攬し」としながら「この憲法の条規によりこれを行なう」と運用上の制約を課していました。具体的には、法律、勅令、詔勅などが効力を発するには、天皇だけでなく、国務大臣の副署を必要としていたことになります。
「天皇は国の元首にして統治権を総攬」することを強調すれば、国王が絶対的な権力を持っていた過去の多くの王朝に見られるような絶対君主制を指すものとも受け取られますが、「憲法の条規によってこれを行なう」ことに徹底すれば、イギリス流の、「国王は君臨すれども統治せず』と言った「立憲君主制」を指すとも考えられます。
この明治憲法の正統的解釈をめぐって、明治中期から「天皇機関説論争」が起きていたことを秦氏は書かれています。
昭和天皇がその治世において念頭に置かれていたのは、立憲君主制ですが、これは昭和天皇が生物学者として非常に論理的、合理主義的な性格の方で、また明治のリベラリストと感覚が近かったためだろうと考えられています。(秦著『昭和天皇五つの決断』P.16』
立憲君主に徹すれば、天皇には発言権はなく、実際、即位から数年間は、天皇が政治的舞台で発言したり、行動した形跡は乏しいのですが、それは恐らく、天皇が信望する立憲政治、国際協調の潮流に日本が逆らっていなかったからでしょう。
ところが石原莞爾、板垣征爾両参謀を中心にした謀略で、1931年に満州事変が起こされ、日本政府が国際社会に約束した「不拡大方針」や、軍中央の制止を振り切って拡大され続けた戦線によって、状況が一変し、陸軍は露骨に政治に介入を始め、従来の政党政治が崩壊に向かいました。
このような陸軍の暴走や発言力の強化を支えていたのが、国内に台頭した『ナショナリズム』です。
これは、1929年ニューヨークのウォール街における株式大暴落に端を発する大恐慌が起こったことに関連があります。
第一次世界大戦後のアメリカ国内では保守主義が強まり、ほぼ1920年代にわたって共和党政権下で保護貿易政策がとられることになりました。このことは、特に大戦によってアメリカに債務を負ったヨーロッパ諸国の負担をより深刻なものにさせました。
ニューヨークのウォール街から発した大恐慌は各国へ広まり、世界大恐慌へと発展しますが、当時のフーヴァー大統領(共和党)は、国際経済の安定より国内産業の保護を優先する姿勢をとりました。こうした中で、『スムート・ハウリー法』が定められることになります。
『スムート・ハウリー法』は、1930年6月17日に成立した関税に関する法律で、20,000品目以上の輸入品に関するアメリカの関税を記録的な高さに引き上げました。
『スムート・ハウリー法』は、高率関税を農作物などに課すことで、農作物価格などの引き上げを図ったものです。平均関税率は40パーセント前後にも達したことで、各国のアメリカへの輸出は伸び悩み、世界恐慌をより深刻化させることになった。その後、これを失敗と見たフーヴァー大統領は、1931年にフーヴァー・モラトリアムを発して世界経済の安定を図りますが、既に手遅れとなります。
世界大恐慌が始まった時点では、イギリスとの協調によるソ連への拡張を主張していた一部の軍の指導者を除き、日本政府も軍の指導層も、自由貿易が保証されていることもあり、また世界の大国の一員として受け入れられている事もあり、朝鮮半島や台湾以外に拡張する必要は感じていなかったと言えます。
しかしながら1930年代には、長引く世界恐慌と米国の『保護貿易政策』によって、日本の経済は打撃を受けます。また多くの人々は、欧米諸国が彼らの植民地と日本との自由貿易を禁止する方向に進むと考えるようになりました。
日本の高橋是清大蔵大臣は、一時的な緊急処置として、政府の支出を赤字になるまで多くし、失業率を低下させます。失業率が低下したことを確認したのち、高橋蔵相は、インフレを避けるために、政府の支出を抑えるように、予算削減の政策に乗り出そうとします。ここで大幅な予算削減の憂き目に遭ったのが陸軍であり、これから恨みを買った高橋蔵相は、2・26事件で殺害されました。
高橋蔵相の殺害後、のちの蔵相らは軍事費削減の政策が打ち出せず、日本のインフレは増々ひどくなります。インフレによって貯蓄のあった国民もそれを失う羽目に遭います。
大衆は、世界大恐慌を引き起こしたのち保護貿易を行なった米国や、日本と植民地との自由貿易を禁止する(と考えられた)ヨーロッパ諸国の政策を、日本に対する意図的な締め付けであると位置づけ、諸々の過激思想や主張になびき、「日本の生き残りの為には、軍による拡張主義を支持するしかない」と考えるようになります。
こうして国内には反欧米ナショナリズムが台頭し、イギリスとの協調やロンドン軍縮条約に賛成をしていた日本軍内の「穏健派」は影響力を失い、いよいよ強硬派が力を増し、軍の暴走が許される土壌を作ったと言えます。