昭和天皇と第二次世界大戦 (4)穏健派•宇崎一成

秦郁彦氏の『昭和天皇五つの決断』によれば、

 

『本庄日記(*¹)、原田日記(*²)など天皇の生野声を記録した文献で見ると、天皇は、(1)軍縮賛成、(2)満州事変反対、(3)軍司令の権限強化反対、(4)国際連盟脱退に不賛成、(5)日ソ不可侵条約賛成、(6)天皇機関説支持、を表明している。

当時のめぼしい争点を網羅しているが、基本姿勢は一貫していて、要すれば、対内的には「ファッショに近しきものは絶対に不可」(原田日記、昭7・5・19)の有名な発言に代表される現状維持的保守主義、対外的にはベルサイユ=ワシントン体制を支持する国際協調主義だったと言ってよい。

しかし現実には軍部は天皇の意向に逆らうかのように、満州事変を強行し、国際連盟を脱退し、天皇機関説を排撃した。軍令部強化を狙った条約改正も実現し、ワシントン・ロンドン両軍縮条約を廃棄した。中でも陸軍皇道派の路線は天皇の志向と正面から対立するものだった。』とあります。

 

このように、1936年の2・26事件によって昭和天皇の意向を組む重臣が暗殺されただけでなく、天皇の意向ではなく、『陸軍強硬派の意向』によって日本が戦争に突入していった一例を、『穏健派』・『和平派』と見られた宇垣一成に焦点を充てて考えたいと思います。

 

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第一次世界大戦のヨーロッパ戦線の調査を行なった日本は、これからの戦争が、国家がその国力を総動員して戦う『総力戦』の時代に突入したことに気づきます。これは、日清・日露戦争のように、短期決戦を考えていた日本軍にとっては大きな衝撃となります。

 

つまり飛行機、戦車、毒ガスなどの新兵器が次々と登場し、戦争の質が変わったことを以て、軍制改革と軍の近代化に乗り出す転換期を迎え、戦争が長期化する可能性を視野に入れた改革が必要になりました。

 

ところが当時の日本の経済は、大戦後の不況と関東大震災の余波を受け、緊縮財政を余儀なくされていました。予算削減の中で軍の近代化を成し遂げる為に、1925年、加藤高明内閣の宇垣一成陸軍大臣は、『宇垣軍縮』を断行し、四個師団の削減に踏み切り、浮いた経費を軍の近代化に充てようと考えます。

 

兵士の数だけでなく、師団を減らされたことによって、宇崎軍縮支持派(軍制改革派)と反対派(現状維持派)の対立が、宇崎陸相の属していた長州派閥に対する「反長州閥」グループと重なります。軍の改革を拒もうとする「現状維持派」は、反宇垣派となり、ヨーロッパとアジアの地政学的違いにより「アジアでは総力戦とはならない」と強調し「日清・日露戦争」型の短期決戦型戦争が続けられることを主張します。

 

宇垣自身は、軍の近代化を約束しての『軍縮』でしたが、不況と震災などの影響による緊縮財政の為に近代化が進まず、「近代化のための軍縮」が「単なる軍縮」に終わってしまいました。この為に、宇垣陸相を支持していた軍制改革派も宇垣を庇いきれなくなり、宇垣に反対する青年将校たちが支持し始めたのが、荒木貞夫、真崎甚三郎など『皇道派』の重鎮と、中央の指示なしに朝鮮派遣軍を満州に進め「越境将軍」の異名を取った林鉃十郎など、「陸軍強硬派」です。

 

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宇垣は1927年に陸軍大臣を辞任しますが、軍の反発を受けながらも政府による軍縮の方針に協力した宇垣の手腕を高く評価していた元老・西園寺公望は、1937年1月に広田内閣が総辞職した後、軍部に抑えが利く人物として宇垣を総理大臣に推挙します。

 

ところが、陸軍の大物でありながら軍部ファシズムの流れに批判的であり、中国や英米などの外国にも穏健な姿勢をとる宇垣の首班登場は、宇崎の『軍縮』を恨みに思った陸軍強硬派からの反発に遭います。石原莞爾ら陸軍中堅層らは、軍部に対しての強力な抑止力となる宇崎内閣成立を阻止する為に合作し、陸軍大臣を選出しませんでした。その為『宇垣内閣』は幻となります。

 

これにより政府は、陸軍強硬派の意向を反映しない内閣が成立し得ないことを確認します。

 

(石原莞爾は後年、宇垣組閣流産の政治の流れが、中国との全面戦争、石原自身も時期尚早と考えていた対米戦争への突入に繋がったと考え、後悔を表明しています。)

 

その後も宇垣組閣の案は何度も上がりますが、陸軍の支持が得られない為に実現化はされていません。

近衛文麿首相は、1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件の初期段階での収拾に失敗し、「今後、国民政府を相手とせず」とする声明を発表し、泥沼化が懸念されました。

 

             

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事態を憂慮した宇垣は、1938年5月の改造内閣に外務大臣としての入閣を請われると、日中和平交渉の開始や「相手とせず」方針の撤回を条件に就任します。早々に近衛声明の再検討を表明し、駐日英国大使ロバート・クレーギー中西英国大使、クラーク・カー駐中英国大使などを介し、孔祥熙国民党政府行政院長らと極秘に接触、中国側からの現実的な和平条件引き出しに成功します。

 

ところが近衛首相は、国民党政府が受諾する筈のない「蒋介石の下野」など「和平条件吊り上げ」の姿勢を見せ、近衛声明の維持を表明しました。

 

加えて陸軍は、宇垣の和平工作を妨害する意図もあって、近衛首相の賛成のもと、対中外交の主導権を日本外務省から奪うことを画策し、外務省の管轄を侵害する『興亜院』を設置します。

 

宇垣はこうして、首相からも梯子を外された形となり、外相を辞任しますが、あたかも出兵を容認したかのように受け取られ、昭和天皇からは不信感を持たれた『張鼓峰事件』を、外交交渉によって停戦させることには成功しています。

 

近衛首相からの協力を得られず辞任に到りましたが、目下の課題を実務的に処理する堅実な姿勢も見せました。宇垣が国民政府から引き出した条件は、その後の日米交渉に比べてはるかに日本側にとって有利なものであったのはもちろん、交渉ルートが確実に国民政府中枢と通じた「筋の良い」ものであり、相互の信頼関係の存在などから、その後さまざまな形で行われた日中和平の試みの中で、最も実現性が高く貴重なものであったとの評価もあります。

             

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北岡伸一氏によれば、満州事変以来の日本外交を厳しく批判していた外交評論家である清沢洌が宇垣外交を高く評価し、「日本は久々に外交を持った。外交官ではない人物によって」と評したようです。

 

清沢洌が記した「暗黒日記」には、

 

「9月26日(日)

軽井沢町の大運動会。宇垣[一成]大将に逢うために行ってみると、ちょうど近衛公一家が来た。一緒に見る。 宇垣大将と会見。外相当時の事を聞かんがためだ。非常に若々しい。目標もいい。国家を救うのはやはりこの人だろう。近衛は聡明だが勇気と迫力なく、他の軍人も駄目だ。彼は果たして立ち得る機会ありや。もっとも誰がやっても手遅れであるが。」(「暗黒日記」岩波文庫 P.93)

 

と書かれています。

 

国際的な視点から日本の外交を批判していた清沢をして「国家を救うのはやはりこの人だろう」と言わしめた宇垣には、主に陸軍強硬派からの反発で、ついに組閣の機会は訪れませんでした。例え何とか組閣にこぎつけたとしても、宇垣の政策に反対する強硬派による暗殺を免れたかどうかは定かではありません。

 

1945年、第二次世界大戦後、宇垣は7年間公職追放の憂き目に遭いますが、東京裁判を主導した主席検察官のキーナンは、米内光政・若槻礼次郎・岡田啓介と並んで宇垣を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と呼び賞賛しています。 

 

これは当時の日本政府首脳内にも、陸軍強硬派に引きずられる形でとっていた政策に反対していた「和平派」がいたことを示す、良い一例かもしれません。