徒然なるままに、左右共に疑問ス

本来、『保守派』とは「第二次世界大戦をどのように見るか」では定義されない。『ナショナリスト』という呼称も、『修正主義者』という定義にも悪い意味はない。アメリカでは、トランプ大統領の熱烈な信望者であり、フォックス・ニュースのアンカーでもあるタッカー・カールソンや、同じくトランプ大統領の元上級顧問であった・スティーブ・バノン氏など多数、自らを誇らしく『ナショナリスト』と呼んでいる。『ナショナリスト』とは、ただ祖国を愛する『パトリオット(愛国者)』と違い、敵と見做す他国人から自国を守ろうという意識がある際に使われる定義なので、「~人は」と敵視する他国人から国を守りたい人々は、やはり「ナショナリスト」である。学問や科学の世界では、既成の常識を修正し、時には覆しながら発展するものだから、『~修正主義者』という紹介は失礼ではない。『歴史修正主義者』と呼ばれても、広く知られている一定の史観を修正しようとしているならば、『歴史修正主義者』と呼ばれる事に誇りを持つべきだ。『否定論者』となると、何を否定しているのかによる。『ホロコースト否定論者』となると、これはかなり社会的信頼を損なう。『地球平坦説論者』のような常識を逸脱した無知だけでなく、何とかしてナチスの行動を庇い立てする反ユダヤ差別が感じられる為、これだけで欧米では真っ当な人間として相手にされない。『気候変動否定論者』となると、そうでもない。気候変動説自体が、もう何十年も前から「10年以内に経済産業システムを変えないと地球は滅びる」的な警告を発していながら、地球は未だ滅びず、北極の氷も存在しているからだ。しかも、著名なフリーマン・ダイソンなど科学者らは、二酸化炭素の役割を良しと見做している。https://e360.yale.edu/features/freeman_dyson_takes_on_the_climate_establishment 繰り返すが、「否定者」とは、何を否定しているかによる。例えば『慰安婦性奴隷説否定論者』と紹介されて憤っている人々は、その通り元慰安婦たちを性奴隷と呼ぶ事に否定的なのだから、『否定論者』と呼ばれる事に、胸を張っていれば良いのではないかと思う。否定したい主張であるのに、『肯定論者』と呼ばれる方が余程悔しいだろう。

『ナショナリスト』『歴史修正主義者』『否定論者』と呼ばれて、「レッテル貼りだ!」と憤る人々は、貼られた「レッテル」の意味に憤っているというよりも、「レッテルを貼られている」事に憤っているのかもしれない。その通り、映画『主戦場』に於いての「レッテル貼り」、或いは「紹介」は、無くても良かったと思う。

一方、名前負けとなっているのが『リベラル派』の『リベラル』である。『リベラル主義』とは、もともと個人の自由や多様性を尊重する主義だ。「こう考えなければならない」と言った政治的、宗教的、倫理的圧力に対し、「人間には自由に判断し決定する事が可能であり、自己決定権を持つ」という政治哲学である。他人が自由に考え、判断した結果、異論を唱える事があっても、それでもってその人の倫理性を裁くことをしない。アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に影響を与えたイギリスの哲学者、ジョン・ロックをして、「われわれはたんなる正義という狭い限度に満足することなく、慈愛、博愛、寛大がそれに加えられねばなりません」と言わせた思想だ。他人の思想や主張が、自分のそれと正反対にあったとしても、それを自由の証拠である多用性の一環として、裁く事なく受け入れる。最近のリベラル派は、異なる意見を寛容を以て受け入れる事をしないばかりか、意見を異にする人々に対して、まるで彼らが倫理的に劣っているかのように非難する。『リベラル・ファシズム』という言葉があるが、まさにその通り、彼らの主張を聞いていると、自分たちとは異なる意見を『非道徳的』として弾圧したい欲望が見え隠れする。『リベラル派』とは名ばかりの、他者の自由思考を認められない人々である。

 

このポストでは、『ナショナリスト』や『歴史修正主義者』『否定論者』或いは『リベラル派』と言わず、単純に『右派』『左派』と大まかに分け、双方に見られる論理、主張のおかしさをあげていきたいと思う。

 

まず右派についてだが、日本の右派は、歴史・政治論争となると他者からは全く取り付く島の無い孤独な『陰謀論者』となる。右派は自称保守派の人々を指すが、本来保守派は、イデオロギー重視のリベラル主義と対峙する、現実主義を指す。ところが日本の自称保守派である右派は、非現実も良いところの矛盾した主張を繰り返す。

まず、日本の核武装を唱える人々は保守派に多いが、アメリカによる原爆投下は絶対に許せないらしい。原爆については左派も怒っているが、右派の場合には「アメリカは、原爆を投下するまで日本を降伏させなかった」という陰謀説までつく。実際には、「ソヴィエト侵攻と二つの原爆投下があるまで、日本は降伏しなかった」のが当時の日本軍の意識だったようだが(秦郁彦著『昭和天皇五つの決断』)、右派は同じ保守派の歴史家である秦氏の調査結果も無視する。原爆投下を「戦争犯罪」「人道に対する罪」と断罪しながら、「日本も核武装を」と主張する事について詳しく問いただすと「日本の核は、無辜の一般人を殺傷する目的には使用されないし、開発した核兵器で敵国を攻撃する際にも、一般人の居住する区域には投下しない」と宣う。K国はともかく、C国には一般人の居住していない区域もあるだろうが、そういった土地に核兵器を投下して、何の効果を狙うのだろう。勿論そうした場合、中国には反撃する権利が与えられるが、中国もそうした配慮をしてくれるのだろうか。日米安全保障条約は、日本の非核化が前提である事を考えれば、日米同盟破棄のリスクが伴うのだが、世界一の軍事力保有国家との同盟国であるよりは、幾数かの核兵器を持つ方が、たとえ核拡散防止の条約を破ったと国際的に非難されても、安心出来るらしい。しかも核兵器開発には、人間の住んでいない広大な土地が必要となる。日本にはそれだけの広大な土地と、どんな人的被害があったとしても絶対に核保有をしたいという圧倒的大多数の国民による支持も無い。ましてや、日本の核開発ともなれば、中国、韓国、ロシアなどは自国への安全保障に対する脅威として、先制攻撃する口実が与えられる。軍事行動に出ないとして経済制裁が課せられれば、自由貿易があってこその日本の経済力を著しく損なう。誰にも知られずに、何の処罰も受けずに核開発を行なう事は出来ないのだ。

 

次に左派の批判をしよう。私が以前お会いした松本栄好氏は、その時もごご自分を指して『戦争犯罪人』であると仰っていた。戦争犯罪人とは、戦時国際法に違反する犯罪者をさす。特別な定義を持つ交戦法に関する用語であり、『占領地所属あるいは占領地内の一般人民の殺害、虐待、奴隷労働その他の目的のための移送、俘虜または海上における人民の殺害あるいは虐待、人質の殺害、公私の財産の略奪、都市町村の恣意的な破壊または軍事的必要により正当化されない荒廃化を行なった者』である。松本氏は自らを戦争犯罪人と呼ぶにあたって「兵士たちに避妊具を配布した」ことを自身の戦争犯罪として挙げているが、兵士たちに避妊具を配布した事が戦争犯罪に当たるとは考えられない。今日読んだ、神奈川新聞社による松本氏へのインタビュー記事によれば、慰安所に行く兵士たちだけでなく、これから軍規に逆らって強姦をしようとしている兵士らにも避妊具を配っていたらしい。https://www.kanaloco.jp/article/entry-46370.html 記事の中で「強姦は軍刑法違反でも禁じられていた」とあるが、軍刑法違反を犯した兵士の罪は免れないとして、それがなぜ日本政府の責任となるのか。繰り返すが、軍、及び政府の責任は、軍の規律を設け、違反者を罰する事にある。強姦は当時の日本軍、及び日本政府が禁じていたのならば、責任は犯罪を犯した個々の兵士、また個々の兵士の規律違反を見て見ぬ振りした直接の上官にある。もし軍刑法を犯して強姦をしていた兵士への避妊具配布が戦争犯罪に当たるとすれば、その責任は松本氏個人にあり、決して現在の日本政府にはない。敢えて言えば、法律で犯罪と定められている行為を行なった「犯罪人」及び「共犯者」が、同僚への裁判の最中は自分が犯罪を犯したという意識も無く、処罰を免れて何十年かを過ごした後、今さら罪の意識によって自らの犯罪を告白しつつ、実は「政府が悪い」「政治家が悪い」と規律を設けた側を批判しているのだ。松本氏が本心から自分の犯した戦争犯罪を悔やんでいるならば、被害者への謝罪だけではなく、自分の犯罪の為に日本の国の評判を傷つけたとして、国家に謝罪しても良いだろう。

因みに、以前お会いした時、松本氏は慰安婦たちについて「軍の慰安所に来る前は、彼女らは売春婦だった」と断言していた。私は普段から「売春婦だったという切り捨て方は、特に男性は注意して頂きたい」と主張している方なので、松本氏の堂々たる断言には苦笑したものだ。最も特筆すべきは、松本氏は慰安婦やその他の女性たちの強制連行、虐待、暴力、強姦等を目撃してはいない点だ。神奈川新聞の記事では「(村の中国人)女性たちは自ら歩かされ、連れてこられた。悲鳴を上げたり、騒ぐこともなかった。あの状況で逃げ出したり、抵抗したりすることにどんな意味があったか。抵抗すればいつ危害が加えられるか分からない」と述べておられるが、以前のインタビューでは「中国人の女性が無理やり家から連れ出されたのも、強姦されたのも目た事は無い」と答え、「なぜ危害が加えられたと知っていたのか」という質問には、「(戦後)本で読んだからだ」と答えられていた。

神奈川新聞の記事からは、松本氏の証言をジャーナリズム的観点から詳しく追及するというよりも、記者の書きたい記事の為に、松本氏の言いたい事だけを拾ったという姿勢が伺える。もっと追及して聞けば、松本氏はずいぶん中国の村民から慕われていた人物だ。いくつかの家族が診療を求め、松本氏を頼っている。そうした良い交流の思い出を語る松本氏の方がリラックスしており、楽しそうだった。松本氏が嘘をついていると主張するつもりは無いし、松本氏なりに真実を語っていると理解するが、「戦争犯罪を犯した」等となると、それが法的な意味ではなく、かなり松本氏個人による倫理基準で話されている事は明らかだ。自分が犯した罪悪について、何が何でも否認する人々もいるが、自分が犯してもいない犯罪を告白するケースも多々ある。https://www.bustle.com/articles/182309-why-did-john-mark-karr-confess-to-killing-jonbenet-ramsey-his-false-confession-was-a-strange 特に過大な表現や誇張でメディアの注目を浴びられる時に、聞く人を喜ばせたいサービス精神も手伝ってか、特に孤独な老人の場合、話がより大きく、過激になる可能性がある事は、頭の隅のどこかで覚えておく方が良いだろう。 

因みに私は、WiLL誌上でこの記事を書いたことを後悔していない。IWGについては訂正するところもあり、今となっては自分の愚かさが悔やまれるところだが、松本氏に関する記述で疚しさは感じていない。私は記述に於いて、ずいぶん松本氏への敬意を払い、松本氏の発言の意図を曲げずにインタビューの全体を捉えた記事にしたつもりだ。記事が出版された後、松本氏が記事を不快に思われた事は『主戦場』のデザキ監督を通して伝わってきた。松本氏が「騙された!」と思われたとしたら、それは残念な事だ。但しこの思いは、後悔を意味するものではない。閉口したのは、デザキ氏が頼まれもしないのに、私からの謝罪を松本氏に伝えた点だ。デザキ氏の編集に不満を持つ保守派論客は多いが、もし私が「実はデザキさんは、あの映画の出来を非常に残念に思い、ひどい事をしたと後悔されているようです」と彼らに伝えたら、デザキ氏はどう感じるだろう。デザキ氏による、独りよがりな正義感はどこから来るのか理解し兼ねる。

 

さて、再び右派への批判に話を戻すが、右派の書いたものを読むと「世界に真実を広めなければ」的なものが多いが、その真実とは、「イギリスのインド植民地化など、欧米の植民地主義は、搾取と現地人の奴隷化であったが、日本の韓国併合、台湾の植民地化は全て正しく、現地にとって益となった」「戦後日本人はWGIPによって洗脳された」「南京大虐殺は中国による捏造である」「慰安婦問題は中国共産党によるプロパガンダだ」等がある。勿論、「(元慰安婦の)女性の証言だけでなく、例えば、(軍が強制的な連行を命令したとか、住民がそれを目撃したとか、客観的、物的証拠も必要」という主張は大いに同意できるものだが、「証言だけでは不十分」と主張する右派が、同時に「カリフォルニアで日本人生徒らが慰安婦像の為にいじめを受けている事は事実だ」と訴えている点だ。私にはこれが「証言以外の証拠に欠ける」という点で、「可哀想な被害者の意見は絶対」と言った左派の手法を真似たものとしか思えない。

まず、日本人生徒らへのいじめと言うからには、本人、また父兄の政治趣向や慰安婦問題に対する意見は関係ない筈だ。在米日本人と言っても、日本の保守派と意見を同じくする人々もいれば、左派と意見を同じくする人々もいる。しかも大抵は、慰安婦問題及び歴史問題には興味はない。ところが私は、イジメに関して慰安婦像設置に反対をする人々以外から、イジメについての話を聞いた事が無い。

日本人生徒へのいじめが実際にあったとしよう。ところがそのイジメとは、具体的に何を指すのだろう。「イジメられた」という感覚には、イジメられた側の主観が入っていると思われるが、この主観は、左派が言う「慰安婦たちにしてみれば、連行に強制性があった」などの『主観』とは違うのだろうか。また、慰安婦像さえ無かったら、発生しなかったのだろうか。例えば根底に、その日本人生徒への悪感情がまずあったとして、慰安婦像や歴史問題などへの言及によって、その悪感情がイジメとして表現された場合、だから歴史教育を何とかしろとは主張できない。

最も重要な事に、イジメの客観的証拠、例えばイジメ発生後、日本人父兄が担任の教師に被害を訴えた、或いは複数の他の生徒がそれを目撃した等はあったのだろうか。この客観的証拠は、まさに慰安婦問題に関して強制連行否定派が要求しているものと同じである。ところが、このイジメ被害があったと主張する右派の書いたものを読むと、「日本人父兄は、日本人的な感覚ゆえ、それを学校側に訴える事もなく、泣き寝入り的状態で…」となっている。アメリカの学校はイジメに対する取り込みが徹底しており、担任やカウンセラーに訴えた場合、早急な解決が期待できるのだが、「日本人的な感覚で」被害を訴えなかったとしたら、生徒にとっては実に気の毒な事だろう。しかしながらこの問題は、担任や学校を通り越し、日本の国会で外交問題として取り上げられたのである。「日本人的な感覚」とは、担任には遠慮をして被害を訴えられないものの、首相や国会には訴えられるのだろうか。であるとすれば、他者からの共感や理解を得る事は困難だ。尤も、いじめを受けた生徒の保護者が首相に対して直訴をしたわけでは無いのだが、こうした情報を受けた周囲の人々は、口コミを通してメディアなどに被害を訴えるよりも、現地の学校に訴える方向で解決の援助をするべきであったと思う。現地の学校での解決を図らず外交問題に発展させれば、イジメを政治利用していると誤解されて当然だし、証言だけで証拠が無いと疑われるのも仕方ないだろう。

 

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これは、左派への批判になるのか、右派への批判になるのかは判りかねるが、デザキ氏が数年か前にアップロードした「Shit Japanese Girls Say」というユーチューブ画が、日本人女性への差別言動として、主に右派から批判を浴びている。これの動画で表現された日本人女性の描写に賛成するか、反対するかはともかく、この動画を日本人女性への差別、蔑視動画と位置付ける事は、常識的に誤っている。これは、ユーモアを狙った類のコメディー動画であり、あくまでも制作側と観客が共に笑う事を期待している。もともとユーモアやコメディー、また社会的タブーへの挑戦との判別には曖昧であり、一概に語れない部分があるのだが、傍から見た日本人女性の言動のおかしさを描写する動画に対して、この動画を差別蔑視動画と主張する右派は、(普段、全く繊細でない物言いをしているにも拘らず)一体どんな繊細な内面の持ち主なのだろう。デザキ氏はYouTube動画を削除するよりも、自分の該当ビデオと杉田水脈議員の発言との違い、或いはトニー・マラーノ氏による慰安婦像に紙袋を被せる行為との違いを、明確に説明するべきだった。ところがデザキ氏にしても、左派にしても、私の知る範囲では、デザキ氏のビデオに日本人女性への蔑視が無いと、説明や擁護を試みていない。まさか右派からの批判を受け、「その通り、差別的だった」などと、犯してもいない罪状(?)を認めてしまったのだろうか。日本人女性が行なう言動の物真似をして笑いをとる事が日本人女性への差別であり、蔑視であれば、デザキ氏以外にも多く見られる、日本人女性、日本人男性の言動の物真似をするコメディアン達も、差別主義者だと言うのか。もともと被害者である事に倫理的優位性を見出すのは、左派が頻繁に使う手法である。普段は左派による「被害妄想」や、「弱者絶対主義」を笑う右派が、左派の手法から学び、どちらがより被害者、弱者であるかによって倫理的優位に立とうとするならば、右派は、そうした手法の卑怯さを承知した上で同じ手法を真似ている分、悪質だ。例えデザキ氏が、鼻持ちならない独善的な偽善者であっても、差別主義者ではない事を、常識的判断として、一筆しておく。

 

最後に、極端な意見を言う人々は左右どちらの側にもいる。以前にも書いたが、左右いずれの側にしても、政治がビジネス化してしまった昨今、極論を以て相手側を怒らせ、相手側への憎しみで一杯になった味方の溜飲を下げる事が商売になったりもするのだ。ところが極論だけを相手にしていれば、決して問題への本質には辿りつけない。

極端な右派の言論に嫌気を感じながらも、極端な左派の主張にも疑問を感じる多くの常識的人々が、日本の国でもっと発言力を増してくれることを望んでやまない。