同盟破棄による民族浄化の危機とISISの再興

最近のニュースとして、トルコのエルドアン大統領との直接電話会談の直後、トランプ大統領がシリアからの米軍撤退をツイッター上で発表し、トルコはすぐさまシリア北部に侵略、及び空爆し、先週まで米軍と共にISIS制圧に向けて戦っていたクルド人部隊(Syria Democratic Forces, SDF)やクルド人の一派であるキリスト教徒、ヤジディ人らの虐殺を始めた事が挙げられる。中東にありながらクルド人部隊の多くは、世俗主義のイスラム教徒やキリスト教徒、ゾロアスター教徒らであり、イスラム教原理主義とは全く異なる。クルド人部隊は、周辺を囲む過激イスラム教徒らから自らの土地を守る為に武装しており、過激イスラム教徒のジハーディストやISISらの制圧に向けた同盟の相手として、西側との価値観を共有し得る相応しい同盟相手だ。国内にもクルド人を多く抱えるエルドアンにとって、彼らは反乱を起こし兼ねない民族、テロリストであり、今日(10月13日)の記者会見では「クルド人であろうが、ヤジで人であろうが、彼らを人間とは考えていない」とまで述べている。https://twitter.com/abdbozkurt/status/1183361848747483136?s=20

ウォール・ストリート・ジャーナル紙によれば、米政府高官は、シリア侵略を望むトルコと、ISISから獲得した地域を確保しつつ安全地帯を設け、クルド人らの安全を確保する為の協議を何か月にも渡って続けてきたが、トルコがシリア北部の国境を超えないようにエルドアン氏に対して釘をさすべきトランプ氏は、電話会談の「台本から離れ」、トルコ侵攻の邪魔にならない事を同意したらしい。https://www.wsj.com/articles/the-turk-and-the-president-11570834334?redirect=amp&fbclid=IwAR1SRoqA0ZQXrGkpknQGh5MWTYWvNC5SQ-nvyxLXPNPcArz_Gr4pDa9ZSVw#click=https://t.co/JGvugGB4HL

直接電話会談から一週間経過した10月13日現在、実際の米軍撤退は未だ行なわれていないものの、米軍によるトルコ軍への反撃は禁じられており、米兵は、今まで共にISIS制圧に向けて戦っていたクルド人部隊、またヤジディ人を多く含む民間人らがトルコ軍によって虐殺されていくのを見過ごすしか無い。トランプ大統領は「ISISは制圧された」と豪語したものの、実際にISISを制圧し、その戦闘員を捕虜にしているのはクルド人部隊であり、クルド人部隊が壊滅すれば、約一万一千人に上るISIS捕虜はそのまま逃亡できる。実際にシリア北部への空爆で、ISIS捕虜が逃亡し始めている事は報道済みだ。https://www.independent.co.uk/news/world/middle-east/isis-turkey-syria-prison-bombing-kurds-sdf-a9152536.html

トランプ大統領の突然の軍事政策変更は、国防省だけでなく、トランプ氏の軍事顧問らにも知らされておらず、シリアからの米軍撤退を要求するエルドアン大統領との電話の直後、独断で決められたようだ。シリアからの撤退を2016年の大統領選挙に向けた選挙公約と掲げ、以前にもシリア撤退をツイートした為にジム・マティス国防長官やISIS制圧に向けてのブレット・マッガーク大統領特別安全保障問題顧問の辞任を招いたトランプ氏であるが、こうした宣言を実行に移す前に、国防省や国家安全保障問題顧問であったジョン・ボルトン氏などによって覆えされてきた経緯がある。実際、最近では8月にも米軍との同盟関係に変化が無い事をクルド人部隊に確約してきた国防省だが、彼らとて寝耳に水のまま軍事作戦変更を余儀なくされたのは、マティス氏、ボルトン氏などの辞任により、ホワイト・ハウス内にトランプ氏の暴走を止められる人物がもはやいなくなっているからだろう。https://www.nytimes.com/2019/10/07/world/middleeast/syria-turkey-kurds-military.html?fbclid=IwAR1qIFvoEZuRHXa_L_W3l5H68HUj5dZNW3ZxzWDk3Sn5AiuBr_1mugnoxm8

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 撤退と応戦不可の命令を受け、同盟軍や民間人の虐殺を目前に項垂れる米兵士たち

トランプ氏によるクルド人部隊への裏切り行為は、民主党議員、共和党議員や、現役の軍関係者や退役軍人らから非難が続いているが、トランプ氏自身はシリアからの撤退を弁解する為に、もしトルコが「私が決めた限界を超えれば、偉大で比類なき私の知恵によってトルコ経済を崩壊させる」とツイートしているが、一体何が「超えてはいけない線」なのかは明確にされていない。既に行なわれたトルコ軍によるシリア北部侵略、米軍基地近くへの空爆、クルド人部隊や民間人らへの虐殺についてトランプ氏が何も言及していない事を考えれば、これらは「限度内」なのかもしれない。クルド人部隊が抱える一万一千人に上ISIS戦闘員捕虜のうち、約二千人はヨーロッパ出身であり、クルド人部隊が捕虜を管理出来なくなれば、これらの二千人はヨーロッパへ逃げるだろうとトランプ氏は認めている。そしてトランプ氏にとって、約二千人のISISがヨーロッパに逃げる事は、彼らがアメリカにやってこない限り、どうでも良い、些細な問題なのかもしれない。https://www.cnn.com/2019/10/13/politics/syria-marine-general-john-allen-trump/index.html

https://www.cnn.com/videos/world/2019/10/09/trump-isis-fighters-europe-kurds-prison-hit-ward-sitroom-vpx.cnn

シリア撤退が、家族を抱える個人としてのアメリカ兵を慮った決断であるかのように「アメリカ兵を家に帰すのだ」として正当化していながら、実際には撤退は行なわれておらず、却ってサウジアラビアに向けて新しく何千人かの部隊を送る事を決定している。トランプはマリーン1が米国を発つにあたり、「よく聞くように。私の要求に対し、サウジは米軍の費用を全て負担すると同意したんだ。我々が彼らを助ける為の費用、全てだ。我々はこうした同意を歓迎している」と記者団に述べている。これではまるで米軍は、一番高い値段で競り落とした相手の用心棒となる為に多少の危険は顧みない商売人ではないか。米兵が、自らの命を犠牲となる可能性を承知で、それでも米兵として戦う事に誇りを持てたのは、「自由」や「民主主義」、「平和を守る」等の為に戦うという崇高な使命感があったからの筈だ。ところがベトナム戦争中には足の病を偽って兵役を回避しながら、性病に罹らず女性関係を多く持ったことを自慢にし、しかも捕虜となり拷問に耐えた故ジョン・マケイン上院議員にあてて「ジョン・マケインは英雄だと言われるが、彼が英雄だと言われるのは、捕虜となったからだ。私は捕虜にならなかった人々の方が好きだ」と嘲ったトランプ氏には、自らの犠牲を払って他者に奉仕するという行為そのものが、お人好しの馬鹿げた行為だと思えるのだろう。良識や崇高な理念も無く、損得勘定だけで同盟相手を裏切り、米国の軍事行動を競売にかけるかのような行動を、全く恥じる様子もない。ISIS制圧作戦に於いて米軍に殆どの犠牲が出ずに済んだのは、クルド人部隊が代わりに犠牲を払ったからだ。そうした同盟相手を裏切るに当たってトランプ氏は、「クルド人はISIS相手には共に戦ったが、第二次世界大戦中やノルマンディー上陸の際には共に戦っていない」と述べ、同盟相手としての犠牲が充分で無いかのような批判をしている。同盟を裏切るだけでなく、そうした非は、裏切られた方にあると言っているのに等しい。(実際には、クルド人は国を持っていなかったにも関わらず、連合国側に味方して第二次世界大戦を戦った記録がある。)

https://www.nytimes.com/2019/10/10/world/middleeast/trump-kurds-normandy.html

「アラフー・アクバール」と叫びながらトルコ兵らがヤジディ人の民間人らを銃殺している映像や、クルド人らの首を刎ねた映像がトルコ側のメディアからも流されている。防げた筈の民族浄化が、止める者の無いまま横行しているのだ。トルコはヨーロッパ共同体に対して、トルコの行動を「シリア占領」として非難した場合、トルコ国境を開き、約360万人もの難民をヨーロッパに向けて流出すると警告している。https://newsbreakinglive.com/2019/10/10/breaking-turkey-president%E2%80%8B-threatens-to-send-millions-of-refugees-to-europe/?fbclid=IwAR2dUBw1k7nIUglnzjTo-Ijt1msejsnFymEh_FDjDGXrhN9ENac6GhYWdeA マフィアのボスのようなエルドアン大統領の脅しに、ヨーロッパは怯むべきではないが、自由社会のリーダーである米国大統領がここまでの正義感の欠如を披露している限り、また360万人もの難民が流出すれば、経済に深刻な打撃を受けるヨーロッパにとって、国も持たない少数民族であるクルド人、ヤジディ人の将来など心に留められるだろうか。

私はここまで書いて、改めて同盟の脆さに驚愕している。現在起ころうとしている虐殺、或いはクルド人らを狙った民族浄化は、「(米国による)終わりなき戦争を終わらせる」というスローガンのもとに始まり、米軍による介入が無いという判断のもとに行なわれているのだ。アメリカを戦争の好きな国と見做し、アメリカさえなければ戦争は起こらず、人類は平和を取り戻せるといったプロパガンダを信じる人々には無視したい現実かもしれないが、北朝鮮が全朝鮮半島を共産主義下に置くべく38度線を越え韓国に軍事侵攻したのは、「韓国は米国の防衛境界線の対象外にある」とした、米国による防衛保証を否定する宣言の半年以内の事だ。https://journals.lib.unb.ca/index.php/jcs/article/view/366/578 中国や北朝鮮、ロシアや、イランのような独裁主義国が見極めようとしているのは、軍事介入に向けた米国の姿勢である。米国との同盟関係や米国による防衛保証が薄いと見られれば、こうした国々は増々軍事拡張をしてくるだろう。繰り返すが、クルド人への虐殺、及び民族浄化、何千にも及ぶISISジハーディストの脱走は、米国がシリアからの撤退を決定し、軍事同盟を事実上破棄した為に、トルコという独裁国家によって起こされているのだ。

米国内でも、左派や一部保守派にあるリベタリアンなどの一国平和主義者らは「終わりなき戦争を終わらせる」として、中東や「米国の安全保障に直接脅威をもたらさない」区域からの撤退を叫んでいる。しかしながら「米国の問題ではないから」といって介入しなければ、いずれは米国の問題となるのだ。米国が強く介入しなければ平和の秩序は保てないのだ。多くの戦争を止める労力は、戦争を未然に防ぐ為の労力よりも遥かに大きい。米軍による軍事介入が必要な事は、歴史が示している。トランプ氏とエルドアン氏の直接電話会談から一週間後、シリアの地にISISの旗が翻った。何年もかかって辿りついたイスラム教過激派制圧が、たった一週間で覆されてしまったのだ。

私は、多くの人々が人権の重視や平和を求めていると信じる。しかしながら、そうした人権の擁護や平和な社会を守る為には、自由や民主主義という理念に基づいた安全保障や軍事同盟が必要である事実を、多くの人々は拒絶しているままだ。一度崩壊した秩序や米国への信頼の回復には、多くの年月を要するだろうし、その過程では、多くの無辜の命が犠牲となるだろう。

旭日旗と表現の不自由

共同通信のニュースを以下に引用する。

「【ソウル共同】韓国国会の文化体育観光委員会は29日、来年の東京五輪パラリンピックの際、旭日旗や、旭日旗をあしらったユニホームなどの競技場への持ち込みを禁止する措置を国際オリンピック委員会(IOC)や大会組織委員会に求める決議を採択した。決議は、旭日旗が第2次大戦当時『日本が帝国主義と軍国主義の象徴として使用した』と指摘。『侵略と戦争の象徴である旭日旗が競技場に持ち込まれ、応援の道具として使われることがないよう求める』としている。韓国政府に対しても、旭日旗が持つ『帝国主義的意味』を知らせ、国際競技大会で使われないよう外交努力に注力することを求めた。」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190829-00000171-kyodonews-int

またCNNでは、”'Symbol of the devil': Why South Korea wants Japan to ban the Rising Sun flag from the Tokyo Olympics「『邪悪の象徴』なぜ韓国は日本が東京オリンピックから旭日旗を排除する事を要求するのか」”と、韓国側の要求と日本側の「旗そのものが政治的宣伝を持っていない。持ち込み禁止品とすることは想定していない」との回答を紹介している。https://www.cnn.com/2019/09/06/asia/japan-korea-olympics-rising-sun-flag-intl-hnk-trnd/index.html

韓国側はここで、いつもの通り「日本は歴史を直視せよ」と主張するのだが、歴史的に言えば、旭日旗に『帝国主義』や、『軍国主義』、『植民地主義』、ましてや『邪悪』などと言った意味は無い。旭日旗は、江戸時代から縁起物として、「天晴れ」「目出度い」「景気が良い」また、僥倖を意味するものとして、一般に愛用されてきた。その旗が、日本軍によって軍旗として、また軍艦旗として使用されているだけである。ナチス・ドイツは、アーリア人の優越性を示すデザインとしてハーケンクロイツを採用したが、歴史的に日本は、旭日旗に『帝国主義』『軍国主義』、ましてや反韓国感情など込めなかったのだ。歴史や文化の中での旗に対する感情は、例えばアメリカの南部の州で今だ南部旗が翻るが、それが必ずしも南北戦争や黒人差別、人種差別を意味しないのと同様だろう。翻している側は、南北戦争以外にも多々ある南部の歴史や、独特の文化に対する誇りを表現しているに過ぎないのだから、外部からの人間にとっては、その言い分を受け入れるか、無視するより他が無い。

またFNNプライム(*)によれば、「韓国外務省報道官は、『旭日旗は周辺国家に過去の軍国主義と帝国主義の象徴と認識されている。日本側が謙虚な態度で歴史を直視する必要がある』と述べ、『是正されるよう努力する』と反発した。」とあるが、たとえ周辺国家に過去の軍国主義と帝国主義の象徴と認識されているとしても、日本国内でそのような認識が大多数により持たれていない限り、譲歩は困難だろう。それぞれの国によってシンボルに対する意識が違っていたとして、他国の国民感情を自国民の国民感情に優先させる国家など存在していないし、日本側がそれでも譲歩したとなれば、韓国による旭日旗への解釈を自ら認める事となる。

尤も、「旭日旗は反韓国の象徴として、反韓デモに使用されているではないか」という疑問や、「旗が持つ意味は変わるもので、現在、この旗が反韓国や軍国主義を表すものとして使用されているのだから、旗の持つ意味が元々どうであったかは関係が無い」という批判は、当然だろう。これは「歴史を直視せよ」とは異なり、現在の政治運動への批判である。反韓国を叫ぶ一部ナショナリストらが、旭日旗やはたまたハーケンクロイツまで掲げて街頭デモを行なった事は、報道された通りの事実であるからだ。こうした一部ナショナリストらが韓国に対する悪感情を以て旭日旗を使用した事は、日韓のナショナリズム運動を追ってきた人々や、インターネット上の反韓言説に詳しい人々には明らかである。しかしながら幸いなことに、インターネット上の意見だけが社会を形成しているのではない。日本には、未だにインターネット上の言論や国際政治などには一切関心も持たないまま、毎日を忙しく、誠実に暮らす人が多い。一部の日本人ナショナリストや韓国側からによる旭日旗への新しい定義付けにも関わらず、大多数の日本人は、未だ旭日旗やそのデザインから軍国主義や帝国主義を感じ取っていないのだ。大多数の日本人が旭日旗やそのデザインから感じる取るものは、何と言っても、海洋であり、目出度さや『ハレ』であり、だからこそ日本の土産物屋に見る招き猫や七福神の背景画、出産や大漁を祝うデザインとして、未だに使用されているのである。もし旭日旗が、韓国や一部ナショナリストらの理解する通り、反韓国の帝国主義や軍国主義を意味するものならば、旭日旗に似たデザインのロゴを使う朝日新聞や朝日関連会社も、軍国主義を賛美した反韓ナショナリストだということになる。しかしながら、朝日新聞から反韓国ナショナリズムや軍国主義を感じ取る人など殆どいないだろう。

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旭日旗に対して、本来の意味以上のものを付加しようとする韓国側や一部ナショナリストらの努力にもかかわらず、旭日旗やそのデザインに政治的主張を認めないというオリンピック・パラリンピック組織委員会の方針が正しいように、私には思われる。何しろ旭日旗に対しての反発がごく近年まで韓国から上がらなかった事を考慮すれば、排除を迫る側にも政治意図があり得るのだ。持ち込もうとする側だけではなく、持ち込みを阻止しようとする側にも政治的意図があり得る場合、委員会とすれば「政治主張は持ち込まない」と釘を刺すに止めるのが適切だろう。例えオリンピックの場に旭日旗を持ち込む人がいたとしても、「この人には、政治的主張は無いのだろう」と無視するしかない。実際、欧米人の中には、旭日旗のデザインを「なんだか格好の良い、元気の出るデザイン」として好み着用する人もいるのだ。敢えて「この人には、韓国に嫌がらせをしたいだけの政治的意図がある筈だ」と勘繰る必要も無いだろう。少なくとも、オリンピック・パラリンピック組織委員会という機関は、個人の表現の自由に立ち入りをしない方がよい。

私が他者の感じ得る痛みや不快感の可能性を鑑みながらも、こう主張するのは、言論や思想、表現の自由に対して、国や公共機関の介入は極力避けるべきだと強く考えるからだ。その延長線上で、当然、あいちトリエンナーレ2019の企画展であった『表現の不自由展』の内容が、ある人々にとって、どれほど不快であり、どれほど反日で、反皇室で、「悪意に満ちていた」ものだったとしても、そうした展示を中止させようと圧力を加える事こそ誤りであると考える。これら展示品の作者が、自らの作品を「反日」で、「反皇室」で、「悪意に満ちた内容」として展示していたとしても、「このような作品を表現する事には不自由があります」というテーマであるとすれば、こうした「反日的作品」の展示を阻止したい人々こそ、これらの表現が不自由であるという点において、作者の意図を実現していると言って良い。

言論や表現の自由は、他者から批判されない権利ではなく、これらを発表し、表現する自由を、政府機関や権力、また圧力によって侵害されない権利である。また、この自由や権利の真価は、自分の都合に合わない言論、表現を許容する事にこそあるのだが、どうも旭日旗の持ち込みを表現の自由で以て擁護する人々には、あいちトリエンナーレの表現の不自由展に見られる展示物は許せない人が多く、『表現の不自由展』を「表現の自由」で以て擁護する人々には、旭日旗の持ち込みの禁止を叫ぶ人が多い。彼らの矛盾は、彼らの判断基準が、自由や権利そのものへの理解ではなく、彼らなりの正義感や倫理観に依っているからだろう。

言論や表現の自由は、決して「批判されない権利」ではない。しかも自分の言論や表現の自由を主張するからには、自分の倫理観や正義感を苛立たせるような不愉快な言論や表現の自由も認めなければならない。感情が傷つかないよう守ってくれる権利などは存在しないのだ。そうした事を踏まえた上で、自らの主張が、正義感や倫理観に頼った感情論であるのか、自他共に適用される規律に基ったものなのか、見直してみるのも良いのではないだろうか。

(*) https://www.fnn.jp/posts/00423439CX/201909032039_CX_CX

度を越した文政権の要求と、ドイツの戦後補償

日韓の関係が拗れに拗れ、それが日韓の貿易関係や GSOMIA破棄によって 日米韓の安全保障同盟関係にまで影響を及ぼしている。 https://www.reuters.com/article/us-southkorea-japan-usa/scrapped-intelligence-pact-draws-united-states-into-deepening-south-korea-japan-dispute-idUSKCN1VJ0J6?fbclid=IwAR0-pQJo43x6TizrmRsHEgqTJsxZ0E1nM0O_-vBrDPIFayxHgp_obtwNHtw  

それを以て国際秩序が崩壊しつつある事の現象と見る記事を目にした。https://www.cnbc.com/2019/08/30/japan-south-korea-trade-war-a-sign-of-collapsing-world-order-expert.html  この記事は、そもそもGSOMIAが破棄に至った発端は、日本によるホワイト国リストからの韓国外しにあると書いてあるが、よほど事情に精通して居ないのだろう。日本がホワイト国待遇リストから韓国を外したのは、徴用工問題をめぐる韓国司法からの日本企業資産差し押さえという、これまでの韓国政府による賠償責任への理解のみならず、日韓基本条約そのものを覆す司法判定による。

英語では「Forced Laborer」と訳される「徴用工」だが、日本政府の立場では、彼らを「旧朝鮮半島出身労働者」と呼んでいるだけだ。原告が、日本企業の募集に応じて労働に従事した人々だからだ。個々の原告に、補償を受けるのに相応しい悲惨な体験や賃金の未払い等があったとして、それがなぜ、日韓基本条約締結時に韓国政府が個人補償の肩代わりを約束し、日本政府から無償で受け取った3億ドルにも上る個人補償の枠に含まれないのか、両政府は見解を異にしている。とは言うものの、日韓記事本条約の一方の署名者である韓国政府でさえ、元徴用工による対日請求は出来ないと2012年までは日本側と立場を同じくしてきたのだから、「日韓基本条約への解釈に関する言い分は日本政府の方にある」という言い方は、少なくとも誤りではないと思われる。日本側の毅然とした姿勢からも、自分たちの言い分に法的根拠があるという自信が窺えるのは、その為だろう。

この問題に関して私は決して詳しくないので、色々な人の書いたものを読みつつ学んでいるところに過ぎないのだが、併合や植民地支配に関する、日本側左派の意見や韓国人学者の方々の主張を聞くと、個々人の体験の悲惨さと国家の責任というものについて、改めて考えざるを得ない。私は右派のナショナリストでは無いし、「日本の韓国併合は、搾取型であった欧米の植民地支配とは違い、韓国の為を思った支配であった」という歴史観は、無知をベースにしたものだと考える。植民地支配や併合についての是非にかかわらず、ただ史実だけを述べるとすれば、日本の韓国支配こそ、当時貴重な同盟国であった英国の植民地主義から学び、真似たものである。日本人右派やナショナリストらが、欧米の植民地主義を十把一からげに「搾取の一方」と決めつけながら、日本の支配のみが現地の事を慮ったものであるという主張に、日本人右派の主張が他国から全く受け入れられず、孤軍奮闘する要因は、こうした無知にあるのではないかと思えるのだ。

それでも、韓国側の主張する、植民地支配や併合は絶対的な悪であり、醜悪な人権侵害であるという意見に同意している訳でもない。これは勿論、個々の体験の中には、人権侵害と呼べる類もあっただろうし、現在の感覚からすれば、植民地支配や併合などは、国家の主権侵害である事を認めた上での見解だ。それにはまず、当時の感覚では、日本の併合や植民地化を、列強国らは違法なる侵害と見做していなかった点と、最も重要な点として、当時から現在に至るまでの世界の歴史の中で起こった、また今でも起こり続けている絶対的な人権侵害と比較した上で、日本の併合政策が、70年後の今日の日韓関係や日米韓同盟を破損する程の非道な支配だったとは、どうしても考えられないのだ。

現在韓国側は、日本には道徳的責任だけでなく、当時の国際法に合わせ、法的責任すらあると主張している。韓国側は、自らの犯罪を謝罪し、生存者に対して補償を行なった例としてドイツを挙げる一方、日本については、第二次世界大戦時に於ける不法行為を認めようとしない特殊なケースとして国際社会に訴えるが、果たして実際は韓国側の主張の通りなのだろうか。

私は日本政府、及び日本企業が、これ以上の補償を支払うべきか否かについては、議論するつもりは無い。むしろ私が述べたいのは、全ての人々が知るべき歴史的、政治的事実である。この点はBBCの記事に詳しく記してあるが、ここでは要点だけを纏めて述べる。

1939年9月1より、第二次世界大戦中のヨーロッパで、ドイツはポーランドを侵略した。この為に500万人以上のポーランド人市民が殺害され、300万人以上のポーランド人がドイツにより強制労働に従事させられ、ポーランド経済は完全に崩壊する。しかしながらドイツはポーランドに対して、殆ど補償を行なっていない。

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ドイツがポーランドに対する賠償を拒否している理由は、ソヴィエト連邦が、ポーランドの共産主義政府に対して東ドイツとの間に結ばせた、賠償請求権を放棄する事を謳った条約にある。また、日本国民と比較し「過去を反省している」と考えられがちなドイツ国民の過半数は、ポーランドに対する補償を支払う事に反対し、また国際社会はポーランドの要求に耳を傾けていないのだ。(ドイツはポーランドに対して賠償を行なって然りだという意見を、果たして聞いた事があるだろうか。) ドイツ国民とすれば、ポーランドの要求には道義的に認めるところがありながら、その要求には政治的目的を感じざるを得ないらしい。

https://www.bbc.com/news/amp/world-europe-49523932?__twitter_impression=true&fbclid=IwAR16TF_v_VJt8NFf-10yeWCL27jS_mKTnswzx6ndUr2EBUzBZ3tuOBM3WKE

「ドイツを見習え」と批判され続ける日本だが、ドイツが補償を行なっていない事実を踏まえ、それでも「日本は模範を示せ」と主張を変えるかもしれない。しかしながら、日本という国家は、「上着を求める人には、下着まで与えなさい」というような、宗教的模範を示す為に存在しているのではない。現実の政治というものは、国民感情や国民の支持があって成り立つものだ。日本国民の多くが、日韓基本条約下のもとで支払われた賠償金によって、既に過去の問題が解決していると考えており、しかも、どのような謝罪を行ない、どのような条約や合意に辿りついても、韓国の国民感情にとって充分という事は無く、文政権でなければ次期政権によって、どのような約束も覆されるだろうと、過去ではなく現実の経験から学んでしまっているのだ。文政権は、日本側からの妥協や歩み寄りを期待するべきだろうか。GSOMIAまで破棄し、自国の安全保障を担う米国との同盟関係を損ねてまで歴史問題を引きずる韓国に対して、アメリカを含めた国際社会の同情は長続きしないだろう。

徒然なるままに、左右共に疑問ス

本来、『保守派』とは「第二次世界大戦をどのように見るか」では定義されない。『ナショナリスト』という呼称も、『修正主義者』という定義にも悪い意味はない。アメリカでは、トランプ大統領の熱烈な信望者であり、フォックス・ニュースのアンカーでもあるタッカー・カールソンや、同じくトランプ大統領の元上級顧問であった・スティーブ・バノン氏など多数、自らを誇らしく『ナショナリスト』と呼んでいる。『ナショナリスト』とは、ただ祖国を愛する『パトリオット(愛国者)』と違い、敵と見做す他国人から自国を守ろうという意識がある際に使われる定義なので、「~人は」と敵視する他国人から国を守りたい人々は、やはり「ナショナリスト」である。学問や科学の世界では、既成の常識を修正し、時には覆しながら発展するものだから、『~修正主義者』という紹介は失礼ではない。『歴史修正主義者』と呼ばれても、広く知られている一定の史観を修正しようとしているならば、『歴史修正主義者』と呼ばれる事に誇りを持つべきだ。『否定論者』となると、何を否定しているのかによる。『ホロコースト否定論者』となると、これはかなり社会的信頼を損なう。『地球平坦説論者』のような常識を逸脱した無知だけでなく、何とかしてナチスの行動を庇い立てする反ユダヤ差別が感じられる為、これだけで欧米では真っ当な人間として相手にされない。『気候変動否定論者』となると、そうでもない。気候変動説自体が、もう何十年も前から「10年以内に経済産業システムを変えないと地球は滅びる」的な警告を発していながら、地球は未だ滅びず、北極の氷も存在しているからだ。しかも、著名なフリーマン・ダイソンなど科学者らは、二酸化炭素の役割を良しと見做している。https://e360.yale.edu/features/freeman_dyson_takes_on_the_climate_establishment 繰り返すが、「否定者」とは、何を否定しているかによる。例えば『慰安婦性奴隷説否定論者』と紹介されて憤っている人々は、その通り元慰安婦たちを性奴隷と呼ぶ事に否定的なのだから、『否定論者』と呼ばれる事に、胸を張っていれば良いのではないかと思う。否定したい主張であるのに、『肯定論者』と呼ばれる方が余程悔しいだろう。

『ナショナリスト』『歴史修正主義者』『否定論者』と呼ばれて、「レッテル貼りだ!」と憤る人々は、貼られた「レッテル」の意味に憤っているというよりも、「レッテルを貼られている」事に憤っているのかもしれない。その通り、映画『主戦場』に於いての「レッテル貼り」、或いは「紹介」は、無くても良かったと思う。

一方、名前負けとなっているのが『リベラル派』の『リベラル』である。『リベラル主義』とは、もともと個人の自由や多様性を尊重する主義だ。「こう考えなければならない」と言った政治的、宗教的、倫理的圧力に対し、「人間には自由に判断し決定する事が可能であり、自己決定権を持つ」という政治哲学である。他人が自由に考え、判断した結果、異論を唱える事があっても、それでもってその人の倫理性を裁くことをしない。アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に影響を与えたイギリスの哲学者、ジョン・ロックをして、「われわれはたんなる正義という狭い限度に満足することなく、慈愛、博愛、寛大がそれに加えられねばなりません」と言わせた思想だ。他人の思想や主張が、自分のそれと正反対にあったとしても、それを自由の証拠である多用性の一環として、裁く事なく受け入れる。最近のリベラル派は、異なる意見を寛容を以て受け入れる事をしないばかりか、意見を異にする人々に対して、まるで彼らが倫理的に劣っているかのように非難する。『リベラル・ファシズム』という言葉があるが、まさにその通り、彼らの主張を聞いていると、自分たちとは異なる意見を『非道徳的』として弾圧したい欲望が見え隠れする。『リベラル派』とは名ばかりの、他者の自由思考を認められない人々である。

 

このポストでは、『ナショナリスト』や『歴史修正主義者』『否定論者』或いは『リベラル派』と言わず、単純に『右派』『左派』と大まかに分け、双方に見られる論理、主張のおかしさをあげていきたいと思う。

 

まず右派についてだが、日本の右派は、歴史・政治論争となると他者からは全く取り付く島の無い孤独な『陰謀論者』となる。右派は自称保守派の人々を指すが、本来保守派は、イデオロギー重視のリベラル主義と対峙する、現実主義を指す。ところが日本の自称保守派である右派は、非現実も良いところの矛盾した主張を繰り返す。

まず、日本の核武装を唱える人々は保守派に多いが、アメリカによる原爆投下は絶対に許せないらしい。原爆については左派も怒っているが、右派の場合には「アメリカは、原爆を投下するまで日本を降伏させなかった」という陰謀説までつく。実際には、「ソヴィエト侵攻と二つの原爆投下があるまで、日本は降伏しなかった」のが当時の日本軍の意識だったようだが(秦郁彦著『昭和天皇五つの決断』)、右派は同じ保守派の歴史家である秦氏の調査結果も無視する。原爆投下を「戦争犯罪」「人道に対する罪」と断罪しながら、「日本も核武装を」と主張する事について詳しく問いただすと「日本の核は、無辜の一般人を殺傷する目的には使用されないし、開発した核兵器で敵国を攻撃する際にも、一般人の居住する区域には投下しない」と宣う。K国はともかく、C国には一般人の居住していない区域もあるだろうが、そういった土地に核兵器を投下して、何の効果を狙うのだろう。勿論そうした場合、中国には反撃する権利が与えられるが、中国もそうした配慮をしてくれるのだろうか。日米安全保障条約は、日本の非核化が前提である事を考えれば、日米同盟破棄のリスクが伴うのだが、世界一の軍事力保有国家との同盟国であるよりは、幾数かの核兵器を持つ方が、たとえ核拡散防止の条約を破ったと国際的に非難されても、安心出来るらしい。しかも核兵器開発には、人間の住んでいない広大な土地が必要となる。日本にはそれだけの広大な土地と、どんな人的被害があったとしても絶対に核保有をしたいという圧倒的大多数の国民による支持も無い。ましてや、日本の核開発ともなれば、中国、韓国、ロシアなどは自国への安全保障に対する脅威として、先制攻撃する口実が与えられる。軍事行動に出ないとして経済制裁が課せられれば、自由貿易があってこその日本の経済力を著しく損なう。誰にも知られずに、何の処罰も受けずに核開発を行なう事は出来ないのだ。

 

次に左派の批判をしよう。私が以前お会いした松本栄好氏は、その時もごご自分を指して『戦争犯罪人』であると仰っていた。戦争犯罪人とは、戦時国際法に違反する犯罪者をさす。特別な定義を持つ交戦法に関する用語であり、『占領地所属あるいは占領地内の一般人民の殺害、虐待、奴隷労働その他の目的のための移送、俘虜または海上における人民の殺害あるいは虐待、人質の殺害、公私の財産の略奪、都市町村の恣意的な破壊または軍事的必要により正当化されない荒廃化を行なった者』である。松本氏は自らを戦争犯罪人と呼ぶにあたって「兵士たちに避妊具を配布した」ことを自身の戦争犯罪として挙げているが、兵士たちに避妊具を配布した事が戦争犯罪に当たるとは考えられない。今日読んだ、神奈川新聞社による松本氏へのインタビュー記事によれば、慰安所に行く兵士たちだけでなく、これから軍規に逆らって強姦をしようとしている兵士らにも避妊具を配っていたらしい。https://www.kanaloco.jp/article/entry-46370.html 記事の中で「強姦は軍刑法違反でも禁じられていた」とあるが、軍刑法違反を犯した兵士の罪は免れないとして、それがなぜ日本政府の責任となるのか。繰り返すが、軍、及び政府の責任は、軍の規律を設け、違反者を罰する事にある。強姦は当時の日本軍、及び日本政府が禁じていたのならば、責任は犯罪を犯した個々の兵士、また個々の兵士の規律違反を見て見ぬ振りした直接の上官にある。もし軍刑法を犯して強姦をしていた兵士への避妊具配布が戦争犯罪に当たるとすれば、その責任は松本氏個人にあり、決して現在の日本政府にはない。敢えて言えば、法律で犯罪と定められている行為を行なった「犯罪人」及び「共犯者」が、同僚への裁判の最中は自分が犯罪を犯したという意識も無く、処罰を免れて何十年かを過ごした後、今さら罪の意識によって自らの犯罪を告白しつつ、実は「政府が悪い」「政治家が悪い」と規律を設けた側を批判しているのだ。松本氏が本心から自分の犯した戦争犯罪を悔やんでいるならば、被害者への謝罪だけではなく、自分の犯罪の為に日本の国の評判を傷つけたとして、国家に謝罪しても良いだろう。

因みに、以前お会いした時、松本氏は慰安婦たちについて「軍の慰安所に来る前は、彼女らは売春婦だった」と断言していた。私は普段から「売春婦だったという切り捨て方は、特に男性は注意して頂きたい」と主張している方なので、松本氏の堂々たる断言には苦笑したものだ。最も特筆すべきは、松本氏は慰安婦やその他の女性たちの強制連行、虐待、暴力、強姦等を目撃してはいない点だ。神奈川新聞の記事では「(村の中国人)女性たちは自ら歩かされ、連れてこられた。悲鳴を上げたり、騒ぐこともなかった。あの状況で逃げ出したり、抵抗したりすることにどんな意味があったか。抵抗すればいつ危害が加えられるか分からない」と述べておられるが、以前のインタビューでは「中国人の女性が無理やり家から連れ出されたのも、強姦されたのも目た事は無い」と答え、「なぜ危害が加えられたと知っていたのか」という質問には、「(戦後)本で読んだからだ」と答えられていた。

神奈川新聞の記事からは、松本氏の証言をジャーナリズム的観点から詳しく追及するというよりも、記者の書きたい記事の為に、松本氏の言いたい事だけを拾ったという姿勢が伺える。もっと追及して聞けば、松本氏はずいぶん中国の村民から慕われていた人物だ。いくつかの家族が診療を求め、松本氏を頼っている。そうした良い交流の思い出を語る松本氏の方がリラックスしており、楽しそうだった。松本氏が嘘をついていると主張するつもりは無いし、松本氏なりに真実を語っていると理解するが、「戦争犯罪を犯した」等となると、それが法的な意味ではなく、かなり松本氏個人による倫理基準で話されている事は明らかだ。自分が犯した罪悪について、何が何でも否認する人々もいるが、自分が犯してもいない犯罪を告白するケースも多々ある。https://www.bustle.com/articles/182309-why-did-john-mark-karr-confess-to-killing-jonbenet-ramsey-his-false-confession-was-a-strange 特に過大な表現や誇張でメディアの注目を浴びられる時に、聞く人を喜ばせたいサービス精神も手伝ってか、特に孤独な老人の場合、話がより大きく、過激になる可能性がある事は、頭の隅のどこかで覚えておく方が良いだろう。 

因みに私は、WiLL誌上でこの記事を書いたことを後悔していない。IWGについては訂正するところもあり、今となっては自分の愚かさが悔やまれるところだが、松本氏に関する記述で疚しさは感じていない。私は記述に於いて、ずいぶん松本氏への敬意を払い、松本氏の発言の意図を曲げずにインタビューの全体を捉えた記事にしたつもりだ。記事が出版された後、松本氏が記事を不快に思われた事は『主戦場』のデザキ監督を通して伝わってきた。松本氏が「騙された!」と思われたとしたら、それは残念な事だ。但しこの思いは、後悔を意味するものではない。閉口したのは、デザキ氏が頼まれもしないのに、私からの謝罪を松本氏に伝えた点だ。デザキ氏の編集に不満を持つ保守派論客は多いが、もし私が「実はデザキさんは、あの映画の出来を非常に残念に思い、ひどい事をしたと後悔されているようです」と彼らに伝えたら、デザキ氏はどう感じるだろう。デザキ氏による、独りよがりな正義感はどこから来るのか理解し兼ねる。

 

さて、再び右派への批判に話を戻すが、右派の書いたものを読むと「世界に真実を広めなければ」的なものが多いが、その真実とは、「イギリスのインド植民地化など、欧米の植民地主義は、搾取と現地人の奴隷化であったが、日本の韓国併合、台湾の植民地化は全て正しく、現地にとって益となった」「戦後日本人はWGIPによって洗脳された」「南京大虐殺は中国による捏造である」「慰安婦問題は中国共産党によるプロパガンダだ」等がある。勿論、「(元慰安婦の)女性の証言だけでなく、例えば、(軍が強制的な連行を命令したとか、住民がそれを目撃したとか、客観的、物的証拠も必要」という主張は大いに同意できるものだが、「証言だけでは不十分」と主張する右派が、同時に「カリフォルニアで日本人生徒らが慰安婦像の為にいじめを受けている事は事実だ」と訴えている点だ。私にはこれが「証言以外の証拠に欠ける」という点で、「可哀想な被害者の意見は絶対」と言った左派の手法を真似たものとしか思えない。

まず、日本人生徒らへのいじめと言うからには、本人、また父兄の政治趣向や慰安婦問題に対する意見は関係ない筈だ。在米日本人と言っても、日本の保守派と意見を同じくする人々もいれば、左派と意見を同じくする人々もいる。しかも大抵は、慰安婦問題及び歴史問題には興味はない。ところが私は、イジメに関して慰安婦像設置に反対をする人々以外から、イジメについての話を聞いた事が無い。

日本人生徒へのいじめが実際にあったとしよう。ところがそのイジメとは、具体的に何を指すのだろう。「イジメられた」という感覚には、イジメられた側の主観が入っていると思われるが、この主観は、左派が言う「慰安婦たちにしてみれば、連行に強制性があった」などの『主観』とは違うのだろうか。また、慰安婦像さえ無かったら、発生しなかったのだろうか。例えば根底に、その日本人生徒への悪感情がまずあったとして、慰安婦像や歴史問題などへの言及によって、その悪感情がイジメとして表現された場合、だから歴史教育を何とかしろとは主張できない。

最も重要な事に、イジメの客観的証拠、例えばイジメ発生後、日本人父兄が担任の教師に被害を訴えた、或いは複数の他の生徒がそれを目撃した等はあったのだろうか。この客観的証拠は、まさに慰安婦問題に関して強制連行否定派が要求しているものと同じである。ところが、このイジメ被害があったと主張する右派の書いたものを読むと、「日本人父兄は、日本人的な感覚ゆえ、それを学校側に訴える事もなく、泣き寝入り的状態で…」となっている。アメリカの学校はイジメに対する取り込みが徹底しており、担任やカウンセラーに訴えた場合、早急な解決が期待できるのだが、「日本人的な感覚で」被害を訴えなかったとしたら、生徒にとっては実に気の毒な事だろう。しかしながらこの問題は、担任や学校を通り越し、日本の国会で外交問題として取り上げられたのである。「日本人的な感覚」とは、担任には遠慮をして被害を訴えられないものの、首相や国会には訴えられるのだろうか。であるとすれば、他者からの共感や理解を得る事は困難だ。尤も、いじめを受けた生徒の保護者が首相に対して直訴をしたわけでは無いのだが、こうした情報を受けた周囲の人々は、口コミを通してメディアなどに被害を訴えるよりも、現地の学校に訴える方向で解決の援助をするべきであったと思う。現地の学校での解決を図らず外交問題に発展させれば、イジメを政治利用していると誤解されて当然だし、証言だけで証拠が無いと疑われるのも仕方ないだろう。

 

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これは、左派への批判になるのか、右派への批判になるのかは判りかねるが、デザキ氏が数年か前にアップロードした「Shit Japanese Girls Say」というユーチューブ画が、日本人女性への差別言動として、主に右派から批判を浴びている。これの動画で表現された日本人女性の描写に賛成するか、反対するかはともかく、この動画を日本人女性への差別、蔑視動画と位置付ける事は、常識的に誤っている。これは、ユーモアを狙った類のコメディー動画であり、あくまでも制作側と観客が共に笑う事を期待している。もともとユーモアやコメディー、また社会的タブーへの挑戦との判別には曖昧であり、一概に語れない部分があるのだが、傍から見た日本人女性の言動のおかしさを描写する動画に対して、この動画を差別蔑視動画と主張する右派は、(普段、全く繊細でない物言いをしているにも拘らず)一体どんな繊細な内面の持ち主なのだろう。デザキ氏はYouTube動画を削除するよりも、自分の該当ビデオと杉田水脈議員の発言との違い、或いはトニー・マラーノ氏による慰安婦像に紙袋を被せる行為との違いを、明確に説明するべきだった。ところがデザキ氏にしても、左派にしても、私の知る範囲では、デザキ氏のビデオに日本人女性への蔑視が無いと、説明や擁護を試みていない。まさか右派からの批判を受け、「その通り、差別的だった」などと、犯してもいない罪状(?)を認めてしまったのだろうか。日本人女性が行なう言動の物真似をして笑いをとる事が日本人女性への差別であり、蔑視であれば、デザキ氏以外にも多く見られる、日本人女性、日本人男性の言動の物真似をするコメディアン達も、差別主義者だと言うのか。もともと被害者である事に倫理的優位性を見出すのは、左派が頻繁に使う手法である。普段は左派による「被害妄想」や、「弱者絶対主義」を笑う右派が、左派の手法から学び、どちらがより被害者、弱者であるかによって倫理的優位に立とうとするならば、右派は、そうした手法の卑怯さを承知した上で同じ手法を真似ている分、悪質だ。例えデザキ氏が、鼻持ちならない独善的な偽善者であっても、差別主義者ではない事を、常識的判断として、一筆しておく。

 

最後に、極端な意見を言う人々は左右どちらの側にもいる。以前にも書いたが、左右いずれの側にしても、政治がビジネス化してしまった昨今、極論を以て相手側を怒らせ、相手側への憎しみで一杯になった味方の溜飲を下げる事が商売になったりもするのだ。ところが極論だけを相手にしていれば、決して問題への本質には辿りつけない。

極端な右派の言論に嫌気を感じながらも、極端な左派の主張にも疑問を感じる多くの常識的人々が、日本の国でもっと発言力を増してくれることを望んでやまない。

「主戦場」という偏食

慰安婦問題を語るに於いて、右派と左派の意見の食い違いは当然として、左派、及び、『慰安婦肯定論(?)』者の中にある定義や意見の違いがある事は、意外と見過ごされている。右派による「強制連行は無かった」という主張に対して、吉見氏をはじめとする『慰安婦肯定論』者の人々は、「我々が言っている強制連行の定義がそもそも違う」とし、朝鮮や台湾において、日本軍が奴隷狩りのような強制連行(「狭義の強制」)をしたという資料がないことは認めており、自身もそのような主張をしたことはないと述べている。ところが韓国側の主張はどうかと言えば、日本軍兵士、或いは日本の憲兵が韓国人家庭の戸口を訪れ、そこからいたいけな少女を無理やり暴力的に連行していった、という『強制連行史観』、それこそ吉見氏が『狭義の強制』と呼ぶ定義で以て日本を非難しているのだ。韓国、世宗大学の朴裕河教授が出版した『帝国の慰安婦』は、日本の官憲が幼い少女らを暴力的に連れ去った、といった韓国内の根強いイメージに疑問を呈し、物理的な連行の必要すらなかった構造的な問題を指摘した為に、韓国では慰安婦に対する名誉棄損として訴えられ、ソウル高裁において有罪判決が言い渡された。(控訴中)「慰安婦の声に耳を傾ける事が大切」と主張する吉見氏ら、左派は、是非『強制連行』が何を意味するのか、その定義をまず韓国側と合意するべきだろう。「強制性の定義はそのようなものではない」と、右派が『強制連行』の定義すら誤って解釈してあるかのような印象操作は、誠実ではない。

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                   朴裕河世宗大学教授

また慰安婦を性奴隷と定義する事についても、左派の主張はおかしい。杓子定規と言われるかもしれないが、奴隷の定義は、『他者によって所有され、所有者の意思に従って無報酬で労働を提供し、また売買、及び相続の対象となる人物』を指す。https://definitions.uslegal.com/s/slavery/『労働』に対する代価、報酬が支払われていれば、その人物は奴隷ではない。いくらその労働条件に強制性があったとしても、所有権が他者に属さず、労働に対する賃金が支払われている場合は、『強制労働従事者』、或いは『農奴』と言った、別の定義で呼ばれる。https://en.wikipedia.org/wiki/Serfdom 実際に『性奴隷』は存在し、ISISと呼ばれるイスラム国は、自分たちの支配地域、及び戦闘地域からヤジディ人の女性たちを暴力的に連行し、性奴隷として所有し、また売買の対象としているが、彼女たちに賃金が支払われる事は決して無い。だからこそ彼女たちは『ISISの性奴隷』と呼ばれているのだ。慰安婦に話を戻すとして、彼女たちに賃金が支払われていた事は事実である。慰安婦の中には、受け取った給与を、引き上げの際に無くしてしまった、或いは何らかの事情で給与が手元に残らなかった人もいるかもしれない。しかし客であった日本軍兵士による支払いを否定する証拠は出ていない。また日本軍によって慰安婦が他者に売られたという証拠も無い。「所有権が他者にあり、売買、相続の対象となる」という定義のうち不可欠な「所有権」でもって言えば、たとえ慰安婦たちが他者の所有物であったとしても、日本軍兵士らはあくまでも客であり、所有者ではなかったのだ。現在、日本政府からの謝罪と賠償を求める元慰安婦たちも、奴隷とは何を指すかの定義に従って、これらを求めているのではない。もし奴隷、性奴隷の定義に当てはまる慰安婦が存在したとすれば、その存在はどこの売春施設でもあるような特例だろうが、その特定の慰安婦を性奴隷と呼ぶ事に躊躇はない。ただその場合でも、全ての慰安婦たちを性奴隷と呼ぶ事は誤りであり、『従軍慰安婦』の中で吉見氏が述べたような、職業選択の自由があれば慰安婦となる者はいないから、自由意思で慰安婦になった女性たちも性奴隷だ、というような軽はずみな見解は、真に自由を奪われ、他者の所有、売買の対象となり、報酬を受ける事なく労働、性行為を要求される、ヤジディ人女性のような、真の性奴隷への冒涜である。

また、日本が1910年に署名した『婦女売買に関する国際条約』は、左派が「日本が犯した国際法」として頻繁に持ち出す国際条約であるが、まずこの条約は「国際法」によって、主権国がその植民地、及び領土にこれを適用しなくても良いとされていた。そもそも国際法とは、一主権国の法律や習慣の上に権限があるのもではない。https://en.wikipedia.org/wiki/International_law 国際法を遵守するかしないか、条約を締結するかしないかは、あくまで主権国の自由意思に任されており、条約を締結したとしても、それに則るか、あるいはそれを無視するかを拘束するものではない。しかも国内の法律や習慣と照らし合わせ、条約との相違があった場合、主権国は国内の法律、習慣を優先させる権利がある。国際法は、主権国に対して拘束力のある法律ではないのだ。であるから、一旦署名した条約を破る事もできる。ただし、こうした一方的条約破棄に対して、その行為が余りにも慣習国際法や強硬規範から逸脱した場合、他国から軍事介入を含む外交的介入、及び経済制裁を招く場合がある。それでも戦後も連合国側が慰安婦制度を国際法違反とは考えていなかった事は、米軍記録を見ても、また連合国捕虜が遺した記録と照らし合わせても明らかだ。https://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html  https://www.amazon.com/Prisoners-Rabaul-Civilians-Surviving-Captivity/dp/0980777429 https://trove.nla.gov.au/work/170442871?q&versionId=185814911  

1992年に吉田氏が防衛庁防衛研究所図書館 で発見したとされる慰安婦に関する資料は、日本政府が意図的に国際法や慣習を破る命令を出した証拠ではない。何しろ「これら婦女の募集斡旋の取り締まりに、適性を欠く事は帝国の威信を傷つけ皇軍の名誉を損なうのみならず、銃後の国民特に出征兵士遺族に好ましくない影響を与えると共に、婦女売春に関する国際条約の主旨に背く」と書かれてあるのだから、これは国際法違反を行なえという命令ではない。「軍が関与していたから」から始まって「強制性があった」としても、それは「国際法違反」とはならないし、慰安婦たちを性奴隷と定義できない。

最後に、右派は『主戦場』の上映中止を求め、気に入らない言論を弾圧したり、差別発言や挑発的発言、個人攻撃に明け暮れるよりも、落ち着いて、以上の点、またその他諸々ある左派の主張のおかしさを指摘する方が良いのではないか。また、映画『主戦場』を鑑賞する事で、慰安婦問題に興味を持った人々に言いたいのだが、この映画を以て慰安婦問題を理解する事は不可能だ。この映画は、秦郁彦氏を欠いているだけではなく、アジア女性基金について、また朴裕河教授について、充分な時間を割いて説明しようとしていない。『主戦場』はあくまでデザキ氏が消化した情報である。デザキ・ミキネという他人が食し、消化した情報の食べ物だ。ご本人は満足だろうが、私から見れば、偏食も良いところだ。知的好奇心があり、自分で物事を判断したいと思う方々は、秦育彦氏による『慰安婦と戦場の性』また、朴裕河教授の『帝国の慰安婦』に触れる事をお勧めする。特に朴教授の主張には、実は日本人右派が耳を塞ぎたいものが多い。しかしもし「韓国人慰安婦に聞く」ことが正しいのならば、慰安婦の建前でなく本音を聞き出し、その為に迫害されている朴氏の存在を忘れるべきではない。

映画『主戦場』と、言い得て妙なる保守派の『自業自得』

朝日デジタル、産経新聞や東京新聞らの報道によれば、映画『主戦場』の為のインタビューと映画の仕上がりに大きな隔たりがあるとして、保守派論客がデザキ・ミキネ監督に法的措置を示唆し、また映画の上映中止を求めたようだ。これに関した記者会見が5月30日に行なわれている。

この記者会見における朝日新聞の質問で私の名前が出されたが、私は、グレンデールの慰安婦像に紙袋が被せられた事については確かにトニー・マラーノ氏の行動を批判したが、藤木氏の発言についてはインタビュー当時知り得ていない。であるから、「例えば藤木さんはですね、え『フェミニズムを始めたのは不細工なひとたちなんですよ』と、あの、『心も汚い、見た目も汚い』そういうようなことを仰っていて、で、これがまた、あの、デザキ氏のあの、批判の対象になって、あの、ケネディ日砂恵さんとかですね、になっていますが、これについては、、、」と名前が出た事には驚いた。わざわざ私の名前を出さなくても、こうした発言を批判する声は、他の保守派の言論人から上がらないのだろうか。

因みに、私もこの映画をひどく偏りのある映画だと考えるうちの一人だ。右派の主張の後にそれを打ち消す主張があり、あたかも右派の一つ一つの主張が論破されているかの印象を与えている。特に終盤において、加瀬英明氏を陰謀工作の陰の首謀者のように扱うあたりなど、余りにも稚拙であり、論するに値しない。保守派、及び安倍政権が、加瀬氏を頂点に戴き運営されているかのようなインプリケーションには、「デザキ氏の背後には中国、韓国の勢力がある」と、無責任な一部保守派がソーシャルメディアで呟くのと同じ程度の愚かさがある。しかしながら保守派が最も懸念すべき点は、左派だけでなく、今まで慰安婦問題や政治にそれまで関心の無かった層が、この映画の中でのリベラル派論客の主張に、より説得力を感じた事ではないか。日本国内に於いてすら保守派が説得力を失い、左右の優劣が逆転しまいかねない現状について、右派はまずデザキ氏による編集に責任を押し付け、彼を非難するだろう。ある人々は私の事も批判するかもしれない。しかしながら、比較的新たな層を左傾化させたのは、一部右派による言論、多くの保守派が仲間の言論として内心苦々しく思いながらも容認している、差別的言論にある事に間違いないのだ。それは、彼らがソーシャルメディアで発言する内容から判断できる。

たとえば国会議員である杉田水脈による「どんなに頑張っても中国や韓国は日本より優れた技術が持てないからプロパガンダで日本を貶めている」「日本が特殊なんだと思います。日本人は子どものころから嘘をついちゃいけませんよと(教えられてきました)」「嘘は当たり前っていう社会と、嘘はダメなのでほとんど嘘がない社会とのギャップだというふうに私は思っています」という類いの発言は、論理や知性にではなく、ただ憎しみや怒りという感情にだけ訴える、扇情的なプロパガンダである。このようなレトリックは、嫌韓、及び嫌中感情に染まっていない人々をして、ウンザリさせるだけだ。杉田氏の論理で、どのように反対議論に太刀打ちするのだろう。右派が「嘘つき」呼ばわりする左派の論客らや政治家は、日本人ではないのか。『帝国の慰安婦』を出版したが為、韓国人慰安婦や挺対協から起訴された朴裕河氏のような韓国人学者らは嘘をついているのか。6月4日には天安門事件から30年が経ったが、迫りくる戦車の前に立ちはだかり民主化と自由を求めたあの中国の市民は不誠実なのか。一体杉田氏には、「何々人は」と他国の国民を総じて指し、彼らがどのように教えられ、育てられたか述べるだけの実体験があるのだろうか。私は米国に18年以上住み、親しく付き合う友人にも中国人、韓国人がいるが、彼らが日本人以上に嘘つきであるとか、技術が劣るとか考えた事は皆無だ。杉田氏が保守論客を代表するだけではなく、国会議員である事を考えれば、彼女の発言は厳しく咎められるべきだ。それを容認し続ける限り、日本の品位を疑われて当然だろう。

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テキサス親父こと、トニー・マラーノ氏による慰安婦像に紙袋を被せる行為や、藤木氏による「フェニミズムを始めたのはブサイクな人たちなんですよ。ようするに誰にも相手されないような女性。心も汚い、見た目も汚い。こういう人たちなんですよ」という発言について言えば、これは女性への蔑視であると言えるだろう。外見や容姿を以てある人を侮蔑の対象とするという行為は、男性相手には効果が少ないし、容姿の美醜を気にする男性もあまりいない。つまり女性であるからこそ深く傷つく侮蔑の仕方を用いて嘲りの対象とすれば、マラーノ氏や藤木氏が女性に対する差別主義者ではなくても、やはり女性への差別行為を行なったと言える。マラーノ氏は、映画の上映中止を求める記者会見に於いてビデオ出演し、グレンデールの慰安婦像になぜ紙袋を被せたかの説明を試みたが、いくら米国の報告書に「彼女(慰安婦)たちは米国や日本の感覚からして魅力的ではなかった」などの記述があり、”一部米国人の中に魅力的でない女性と関係を持つ際に、男性は紙袋を被せる”といった説があるからと言って、マラーノ氏が慰安婦像に紙袋を被せなければならなかった理由とはならない。一般のアメリカ人の良識や名誉にかけて言えば、私が知る範囲で、こうした話を聞いたり、実際行なった事のあるアメリカ人はいない。却ってこのような礼儀にかける行動をアメリカ人男性が行ない、またアメリカ人女性が容認しているなどの勘違いを広められたことに対して、迷惑がるアメリカ人が多い。また藤木氏は、記者会見中、サウジアラビアなどの、組織的な女性差別の行なわれている国と比較して、日本には差別が無い旨を説かれた。少なくとも、サウジアラビアに言及された理由は、「そうした発言の中での一部」だと言いたかったのだろう。日本には、サウジアラビアやその他の国による『組織的女性差別』が無い事には同感である。しかしながら、イスラム教主義国による、『貞節』という美徳を悪用しながら男性が女性の価値を決めるという行為にしても、藤木氏らによる『美醜』という物差しで男性が女性の価値を決めるという行為にしても、それは女性への差別である。フェミニズム運動やフェミニストらに対して反論があるならば、彼女らの主張に対し、論理的に反対の声をあげ、議論するべきだろう。論理やアイディアに対する批判ではなく、あくまでも感情を傷つける攻撃を行えば、議論では立ち向かえないと認めるようなものだ。私はマラーノ氏にしても藤木氏にしても、女性差別主義者であるとは考えない。彼らの言動が『差別主義』というイデオロギーをもとにしたものではないからだ。意見や主義主張を同じくする限り、彼らが他人に対して礼を失する事は無い。この点が真の差別主義者と違うところだ。しかしながら、反対する立場の人々に対して、真の差別主義者らが使用する悪質な表現を用いる事に躊躇が無かった点は指摘しておく。マラーノ氏にせよ、藤木氏にせよ、日本という国を心から想い、自らの犠牲を払ってまで国に尽くそうと考えている事には疑いが無い。だからこそ尚更、彼らの軽率な言動が、純粋な動機を疑わせている事実を残念に思う。

くり返すが、人種(国籍)による差別にせよ、女性への蔑視にせよ、「慰安婦問題の根底に差別意識は無い」と主張するならば、保守派は差別発言から一切の関わりを絶つべきだし、仲間内の事ではあっても誤った言論は批判するべきだ。ここ数年、私はアメリカの保守論客の言論を注視してきたが、彼らは責任ある立場であればあるほど、過激な、扇情的言論や差別的主張、誤った主張について、仲間内であっても批判する。そうでなければ仲間の非の責任が自分にも及んでくるからだ。その通り、今回の主戦場を観た多くのリベラル派や、政治に興味の無かった層は、「歴史修正主義者たちは、人種差別主義者であり、女性差別主義者でもある」との印象を受けている。沈黙は必ずしも同意を意味するものではないが、非難されるべき言論の責任を負いたくないならば、沈黙を同意と受け取る人々が多い事を弁えるべきだろう。

最後に、この映画によって左派が勢いを増した事は否めないが、この映画の上映差し止めを要求すれば、他者から見れば、右派による、気に入らない言論への弾圧とうつる。この8人の連名による上映中止を求める声は、本当に商業目的がある事が知らされていなかったからなのだろうか。藤岡氏は、契約書を注意して読まず、それへの署名を単なるセレモニーだと考えたと説明していたが、日本という国は、このような言い訳が法的に通用するのとは思えない。ちなみに私は、デザキ氏がインタビューを求めてきた段階、或いは直後から、映画祭に出品する可能性がある事、一般公開の可能性がある事を知らされていた。私はこの映画の出来、及びデザキ氏による編集に非常に不満があるが、個人的信頼を損ねたとしても、法的な契約違反だと考えた事は無い。上映中止への要求に対して、慰安婦たちへの名誉棄損で起訴された朴裕河氏も「内容がどうであれ、差し止め要請はやめていただきたいものです。出演者として、私も見たいです。問題があれば内容で批判しましょう」と言っておられる。内容への批判ではなく、頑なに上映中止を求めるならば、保守派にとって論理的主張が無いだけでなく、どんな手段を使っても異論を黙らせたい印象を与える。勿論、自由に物事を考える人々は、そういった手段に屈し、保守派の主張に同意してくれることはない。言論弾圧という暴力性に却って反発し、正反対の主張に魅力を感じるだろう。

日刊ゲンダイのヘッドラインによれば『保守論客が騒ぐほどヒットの自業自得』となっているが、これから慰安婦問題のコンセンサスが大きく左に傾いたとして、保守派の自業自得とは正にその通りだ。これは、慰安婦問題における左派の主張の正しさを証明するものではない。しかしながら、問題点に辿り着く前に、多くの保守派論客がすっかり信頼を失なってしまった点は、大きく反省すべきだと思う。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/255278/2  

異論との共存

アメリカにおける保守派、リベラル派の間の論争でも似たような傾向があるが、多くの人々は、自分をリベラル派、民主主義者、また言論や思想の自由を護る自由主義者と自負していながら、自分の意見とは違う意見や価値観を受け入れ、それに敬意を払う事が出来ない。異なる見解を持つ人々に対して、「彼らは道徳的、及び倫理的な欠陥を持っている」で片付けてしまうのだ。「金銭が絡んでいるからだ」「自分の利益を考えて、だろう」「正しい情報を得ていないのかもしれない」などとは、まだ好意的な方だ。純粋な意味で、人というものはそもそも独立した考えを持つものだし、他人にもそれぞれ自分とは違った良心、或いは倫理観を持ち得るのだが、多くの人々は、他者が良心や論理に従って、しかも相反する考えを持ち得る事を受け入れられないのだ。

『主戦場』でも見られたような最近の日本の左右派、及び日韓の論争を聞いていると、以前私がロサンゼルスにおいて行なった、あるインタビューを思い出す。

2014年、私はロサンゼルスにある日系人とほかのアジア人のお年寄りの為に建てられた『リトルトーキョー・タワー』に住んでいる韓国系の方に、2時間半にわたるインタビューを行なった事がある。この方は当時、タワー内の日本人と韓国人が、調和して共存できるように委員会を作っている方だ。

「文化の違いによってたくさんの諍いや難しい事が起こったりします。」彼は言った。「例えば、韓国人の住民は、煙や匂いが廊下へ流れるように玄関を開けて料理をしたいのです。(規則では禁止されている。)それを日本人が嫌がります。」

「そう言った諍いはどう解決なさるのでしょうか?」

「そう言った場合は、我々は日本人の方に、『大目に見てやってください』と言うことにしています。でなければ共存なんて出来ないでしょう?違いはあっても受け入れないと。」

 

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また彼は、『非常に腹立たしい記事』を見せてくれた。この記事は、廊下の掲示板に張ろうとしている日本人男性から彼が奪い取ってきた物のようだ。

グレンデールの慰安婦像の撤去を求めるチラシだった。

「これは本当に腹立たしい記事です。」彼の声は大きくなった。「日本人の住人がこういう事をするから、調和が得られないんです。」

『組織的な慰安婦強制連行は無かった』という記事の話題が彼を怒らせた。心臓発作や脳溢血が起こるのではないか、或いは彼の怒りの収集がつかなくなるかもしれないという危惧を感じ、私は彼が落ち着くように話題を変えた。

この92歳(当時)の老人は、民主主義を信じると言う。彼によれば、北朝鮮だけでなく、韓国も本当の民主主義国家ではない。韓国には政治腐敗が多く、その為に彼はアメリカに移住してきたらしい。

「少し前、民主主義を信望していらっしゃると仰いましたね。民主主義の政治形態を信用なさると言うことですか?」

「ええ。そうです。」

「民主主義の基本精神を信じなさる、と言うことですね?」

「その通りです。」

「韓国は民主主義国家ではないと仰いますね。」

「はい」

「では、民主主義国家の基本である言論の自由についてはどうお考えになりますか?」

「大事な美徳ある価値です。韓国は言論の自由を必要としています。」

次の質問をする前に一呼吸をおいた。

「では、国が言論の自由を伴う民主主義を発展させる時、この記事のような『バカな見解』はどうしたら良いと思われますか?」

彼は、私の質問を期待していなかったのだろう。どもってテーブルを叩いた。「く、国が、本当の民主主義を発展させるならば、こう言った『バカな見解』はなくなります。」

私はいよいよ声を低くして言った。「民主主義国家にはこう言った『バカな見解』がいくらでも出て来るとは思われませんか?」

「いいえ!」 彼は自分の考えが伝わるように、一言一言ハッキリと発音した。「国が真の民主主義国家になる時には、みんなもっと教育を受け、賢くなります。ですからこう言った声は無くなります。本当の民主主義があるところでは、みんな同じように考えるのです。」

 

勿論、習慣や意見の違う人々との共存は、一方だけが我慢をすれば良いものではないし、言論の自由や民主主義も彼の言うようなものではない。この老人を嗤うことは簡単なのだが、では果たしてどれだけ多くの人々が、自分の習慣とは違う人々と共存し、自らの信念に相反する政治的、或いは宗教的見解に対して、落ち着いて意見を聞けるだろう。

違いとの共存は、知識や知恵の無さや倫理観の欠如に依らず、その人の本質、好み、優先順位などにより人々が多種多様の意見、価値観を持ち得る事への受け入れに始まる。たとえ事実関係においては同様の認識をしても、それに対する意見や解釈は違い得るのだ。こうした違いを前提に、どのように違いを受け入れ、お互いを弾圧し合う事なく共存できるのか、その道が探られるのべきであるが、大抵は「中間地点を探す」や「異論のままである事に同意する」、或いは「共通の認識が持てる話題を優先させる」等の『妥協』に辿りつく。

 

前出の韓国人老人を嗤う右派であっても、ナショナリストらの発言を嗤う左派であっても、異論の根底には知識や倫理観の欠如があると考える限り、同じ類である。

彼らには、お互いを嗤う資格は無い。