ミチル

 私の家族には、上下関係、もっとハッキリと言えば、苛めのヒエラルキーのようなものがあり、母が頂点に存在する一方、私は常にその底辺にあった。母は普段、掃除などの家事を、月々いくらか支払って、祖父の養女である律子伯母に任せていた。律子伯母は、別の市にある大きなお寺に生まれ、祖父の遠縁にあたる親戚だという。伯母は毎朝8時半にやって来て、12時のお昼を食べて帰って行った。私はあっけらかんとして朗らかな伯母が掃除機をかける音や、洗濯物を干す姿が大好きだった。

伯母の負担した家事は、掃除機かけ、洗い物、洗濯に限られており、何故かトイレの掃除は含まれていなかった。専業主婦でもあった母が何故トイレの掃除をしなかったのかは判らないが、年に一度、大掃除の時に、ふだん誰も掃除しないトイレの掃除をするのは、当時小学生であった私の仕事だった。神経質であり、また潔癖症であった私には、ふだんから家のトイレを使う事に恐怖感を感じたが、汚れたトイレの掃除を命じられる時には、足がすくんでしまうようだった。「トイレ掃除をしなさい」と言われても、やり方そのものがわからない。学校のトイレの床はタイルで、しかも排水溝があったためホースで水がかけられたのだが、家のトイレの床はビニール材を使っており、排水溝は無く、ホースなど使って良い筈が無い。私にとって家のトイレは魔窟のように恐ろしい存在であった。

一度だけ、率先して家で最も不衛生であった二階のトイレを掃除した事がある。事の起こりは、飼っていたシャム猫が、トイレの床で下痢をしてしまった時だ。父も母も怒り狂って猫を追い回した。ミチルと名付けられたシャム猫は、もともと東京に住む母の双子の姉が知り合いから押し付けられた捨て成猫だった。私は動物が大好きであったので、しなやかで柔らかい猫を可愛がり、まるで突然親友が出来たように喜んだ。この猫は、メーテルリンクの童話『青い鳥』から、ミチルと名付けた。

ミチルは私にだけは懐いた。私が父や母のように目の敵にしなかったからだろう。もともと捨て猫であったミチルは、下痢や嘔吐を繰り返した。きっと病気だったのだろう。両親はミチルを獣医に連れていったり、薬を与える事はおろか、与えた食べ物も家族の残した残飯であり、時には腐っていた。こうした原因もあってか、ミチルはトイレに失敗する事も多かった。しかも私には、猫用のトイレが家にあった記憶が無い。今考えるに、両親は猫用のトイレを設置しなかったように思える。彼らは猫が外で用を足すと期待しており、ミチルが家の中で用を足したり嘔吐するたびに、叩いたり、蹴ったりした。家族の中のヒエラルキーで一番下であったのは私だが、それよりやや低い位置にミチルがいた。

私はミチルが怒鳴られたり、暴力を振るわれる姿を見る事が、自分が怒鳴られたり叩かれる事よりも耐え難かった。ミチルは私にとって、身を挺しても守らなければならない存在であったのに、私は彼女の為に殆ど何もしてあげられなかった。
                       
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ある時、ミチルが二階のトイレで下痢をしてしまった。母は怒り狂ったように箒を持ってミチルを追い回した。ミチルは急いで私のもとに逃げ、私は震えるミチルを抱き庇いながら、「私が掃除をするから許して!ミチルを叩かないで!」と泣き叫んで懇願した。それからどのように私が嘔吐のあとを掃除したのか記憶に無いが、私はずいぶん長い間泣いた事を覚えている。ミチルは私の両頬を流れる涙を舌で拭った。母も父も、それ以上その日はミチルに対して怒らなかった。ただ彼女は次の日から外に追い出され、家の中に入れてもらえなくなった。

昼は外でも快適に過ごせても、夜はそうではない。ミチルは夜、家に入りたがった。私が夜、今の窓辺に座ると、ミチルが外から窓ガラスに顔を擦りながら、家に入れてくれるように訴えた。母は厳しく、絶対にミチルを家に入れてはいけないと言い渡していた。ミチルが小さく鳴き、外から窓ガラスに顔を押し付ける間、私も自分の片頬を冷たいガラス窓に押し付けた。家の中からでも窓ガラスがつけたかったことを考えれば、外はどれくらい寒かっただろう。私は窓ガラスに顔を押し付けながら泣いた。家に入れてやれない自分の無力さ、悲しさで胸が一杯になった。私とミチルは、そうした夜を何日か繰り返した。

ミチルの最期は突然やって来た。

私たちは、ある日曜日、地域の開催する写生大会に遊園地に出かけた。ミチルは私がどこでも歩く度に私の足元に付きまとわったのだが、この日は私は急いでいた為、すぐ父の運転する車に乗り込んだ。ミチルは私の乗った車の後輪タイヤに付きまとわった。父は車をバックさせた。低く、それでいて大きなうなり声が耳をつんざいた。私は大きな不安に取り付かれ、辺りを見回したが、地面は見えなかった。父に車を止めてくれるよう頼んだが、集合時間に間に合うよう急いでいた父は、全く取り合わなかった。遊園地では、各所に取り付けられたスピーカーから、楽しそうな音楽が大きく流れていたのだが、私には不安を更に掻き立てる無神経な雑音にしか聞こえなかった。私は恐怖感と不安で胸が一杯だった。世界は私の不安や恐怖、悲しみや痛みに全く無関心なまま、時間を出来るだけゆっくりと経過させた。

家に帰ると、既にミチルは死に、父によって葬られた後だった。

私は家の駐車場の近くにある家の墓地に新しく増えたミチルの墓に、うつぶせに倒れこんで声をあげてずっと泣いた。涙の滝が私のまわりに轟音を立て流れているように感じられた。墓地にある木々も石も、私と一緒に泣いた。私はミチルにとって唯一の友人だった。ミチルは私に会えた喜びに、体を後部タイヤに擦り寄らせ、それによって轢殺されてしまったのだ

その事実の前に、何の慰めも存在しなかった。父は小さなシーチキンの缶詰をミチルの墓前に置いた。私は今でも、ツナ缶を開ける度に、ミチルの墓前に置かれた小さな缶詰を、悲しく思い出す。

 

(4/12)