母の死

母に癌の転移をどうやって伝えようか、私たちは考えなければならなかった。母の双子の姉である貴子伯母も、舞ちゃんの母である叔母も、誤魔化したり嘘をつく事無く、医師の言葉をそのまま伝える方が良いと考えた。私もそのように父に提案した。父も異存は無いようだったが、果たしてその役割を自分一人で負う事に不安を感じているようだった。結局、母の退院当日に担当医との面談が設けられ、医師の口を通して病状が伝えられる事になった。その場には父と叔母らが同席する予定だった。
それまでの入院期間、私たちの誰一人として、母に本当の事は言えない約束になっていた。不安を感じていた母は、双子の姉に向かって「本当の事、知っているんじゃないの?」と顔をのぞき込んだり、私に対しても「お前は聞いていないの?」と聞く事があった。私たちはそれぞれ、事情を知らない母の前で、悲しんでいる顔も、泣いた顔も見せられず、嘘をつき続けるしかなかった。
私は、母の退院した日に実家を訪ねた。泣き崩れているのか、動揺しているのか、母がどのように病状に関する医師の言葉を受け取るかは不明だったが、精神的なサポートを必要としている事は明らかに思われた。その日は叔母たちも母の家に集まる事になっていた。玄関を開けると、舞ちゃんの母親である叔母が、私を脇に寄せ「どうしよう。先生が口ごもってしまって、ハッキリと余命の事も言わなくて、深刻さが伝わっていないと思う」と囁いた。
「どういう事?だって先生、病状についてハッキリ言ってくれるんじゃなかったの?」
叔母に言わせると、医師はハッキリした病状を母に伝えず、母の方が「先生、末期なんですか?余命はあと、どのくらいなんですか?」と聞いても、口ごもって言わずじまいになったようだった。私たちは退院した母が、全く悲嘆にくれておらず、「何だかわからなかった」と落ち着いてしまっている事に戸惑った。取り合えず、その日はそのまま「退院祝い」のような夕食をとり、あとで父に電話をした。父は「お母さんが泣いていないなら、それで良いじゃないか、悲しい思いをさせても、みんな結局自分の家に帰ってしまって、お父さん一人で面倒を見る事になるじゃないか」と態度を変えていた。確かに母を悲しませる事に目的がある訳でもなかった。その後の精神的ケアを父一人が負う事を考えれば、ハッキリと伝える事がそれほど重要でもないと思えてきた。母は病状について少しでも希望を持ちながら余命を過ごそうとしているようにも思えた。私は第三子を妊娠した身で、幼稚園に入園した香とオムツを外す時期にさしかかる基の世話に明け暮れながら、出来るだけ実家に通い、夕食を作ったり、掃除機をかけたりした。母は以前のように怒鳴ったり、罵倒する事なく、ベッドでテレビを見ながら静かに時間を過ごす事が多くなった。病気の事について語る事も殆どなかったが、それでも癌によく効くという食べ物を持って行くと、それを喜んで食べてくれた。香や基を連れて行くと、嬉しかったようだ。ところが父は「家が散らかる」と言って、掃除をしてから帰るように要求した。
私の出来る範囲での支援は、父には充分と映らなかった。そもそも父には、末期癌を患い、余命3ヶ月から6ヶ月と宣告された母と、自分一人が向き合って暮らしているという感覚があったのだろう。父はしばしば「お前たちは好き勝手に離れて暮らして、お母さんの面倒を見ているのは、お父さんだけだ」と怒った。私が、自分も幼い子供を抱え、妊娠している身でもあると反論すると、「頼んで妊娠してもらったわけじゃない」等の屁理屈を返してきた。
父には、私の立場などを顧みたり理解する事は不可能だった。そうでなくても父は、母を喜ばせる事だけ考えて今まで生きてきたのだ。父にとって母は絶対的な存在であり、妻に対してというよりも、幼い子供が母親に必死にしがみつくように、母につき従っていた。父にとっては自分の家の事だけしかしない、自分勝手で親不孝な娘でしかなかった。「母はもう長くないし、今しか助けをしてあげられない」と思うのだが、八つ当たりのような父の言い分を聞く度に、自分の家庭にこれ以上の負担をかけてまで行きたくない、と足が遠のくのだった。そうすると叔母たちから電話がかかって来て、子供を連れて母を訪ねるよう、頼まれるのだった。
あとどれくらい持つかわからない妻を抱え、全くどうして良いかわからない、という父の気持ちも理解できない訳ではなかった。恐らく父も不安を抱え、悲しくもあり、サポートを必要としていたのだろう。ある時、母が日中電話をしてきた。「パパが可哀そうで」と泣いていた。母に言わせると、父は夜中に何度か母の寝室に赴き、母が息をしているのか心配そうな顔で覗き込むのだそうだ。「ああ、心配なんだろうなあって、パパが可哀そうだなあって思うの」と声を詰まらせて泣いていた。私も泣けてきたが、出来るだけ母には悟られないように「お父さん、心配なんだろうね。可哀想にね」と相槌を打った。父の孤独感を考えると可哀想にも思えたのだが、私も幼稚園の細々した要求に応える事や、香と基の世話や、家事やらで、精一杯だった。
私はいつからか、重い荷物を抱えて自転車で高速道路を走る夢を見るようになった。夢の中でも私は疲労しており、スピードをあげて走る他の車に追いついていけないように感じていた。自分では精一杯走っているつもりなのだが、所詮自転車をこいでいるだけなのだった。また、似たような夢で、延々と勝てない討論を続ける夢もあった。常識や論理の通用しない相手と議論をしているのだが、どんなに私の立場を説明しても、相手を納得させる事は出来ない夢だ。いずれにせよ朝起きても疲れが残る夢だった。これらの夢は、恐らく父の言葉を気にし過ぎた為に見た夢なのだろう。心に留める必要のない他人の言葉さえ、払拭したり受け流す事が出来ず、もがき苦しんでしまうのは、母も同様だった。母は苦しかっただろう。
やがて第三子の出産の為の入院準備をしなければならない時期が来た。臨月に近づいた為、私が車を運転する事は控えるようにしていた。買い物に付き合う為の夫の休みを考えると、都合の良い日は限られていた。夫ともに時間を工面して買い物に出かけている途中、父からの電話で伯母が来ているので、すぐに香と基を連れて来るように言われた。入院の準備のために買い物に出ている事を伝えると、それでも出来るだけ早く来いと言われた。ところが私も、その日でなければ済ませられない用事をしているという意識があり、買い物を中断して実家に行こうとは思わなかった。やっとの事で用事を済ませ、実家に行くと、もう既に叔母は帰った後だという事で、父はカンカンに怒っていた。母も私を睨んでいた。私も忍耐の緒が切れたように「叔母ちゃんが帰ってしまったって言っても、それがそんなに重要なこと?じゃあ、私の入院の準備は、一体誰がしてくれるの!」と怒った。父は「お前の家の事なんか、知るか!」と怒鳴り、私を殴ろうとして立ち上がった。母は急いで「お腹が大きいんだから、殴らないで!」と父を諫めたが、父は「そんなの知るか!」と掴みかかろうとした。私は手にしていた買い物の袋を父の顔に投げつけ、逃げるように家を飛び出した。夫は未だ駐車場で、二人の子供を車から降ろそうとしていたところだった。私は急いで「もう良いから帰ろう」と言い、車にかけ乗った。私は悔し涙を流していた。母があとどのくらい持つのかわからないが、またしばらく実家に寄る事は止めようと思った。
それから10日程して、叔母から電話がかかってきた。事情は聞いたけれど、やっぱり一緒にお見舞いに行こう、という内容だった。私は叔母の心遣いに感謝して、一緒に実家を訪れた。母は何事も無かったかのように、香と基を連れて顔を見せると喜んでくれた。母はだいぶ弱って来ていたようで、静かだった。帰り際、叔母の車に乗ると、父が姿を見せた。父には、先日の事が無いように振る舞おうと思ったのだが、「お前、子供は一体いつ産まれるんだ。もうお母さん、持たないんだよ。もうダメなんだよ。死ぬ前に会わせてやらなきゃ。一体いつ産むんだ」と聞いてきた。私は呆気に取られたが、しばらくすると悔しくなってきた。私は母親として、産まれる子供の都合に合わせて産むしかない。いくら私の母が死にかけているからと言って、子供の準備ができていない内に産む事はできないと憤った。叔母は「持たないって、あとどれくらいなんだろう」と小さく呟いた。
そうこうしている間に出産予定日が過ぎ、第三子を産む段階が来た。三番目の子供だというので、軽いお産だろうと担当医も考えていたのだが、実際には出産に丸二日かかった。お産が余りにも長引くので、私は疲労困憊してしまい、呼吸をする事を忘れる時があった。看護婦さんに「お母さん、息をして下さいね」と言われ、ハッとした。やっと生まれた子供は男の子で、光(仮名)と名付けられた。
私は母が生きている間に光を産めた事に、こころから安堵した。出産を終え、やっと個室に戻れた時、携帯から母に電話をした。「お母さん、私も頑張って産んだから、お母さんも頑張ってね」とだけ伝えた。そう言った後で「母も充分頑張っているではないか」と、自分の言った無神経な言葉が後悔された。母がいつ死ぬかわからないという事で、担当医に頼んで入院の日数を少なくしてもらい、退院した日には、そのまま直接実家に立ち寄った。母は酸素のチューブを鼻にさした姿で、光を抱いて涙を浮かべた。父も涙を浮かべながら、私にお茶を入れてくれた。
退院した二週間後、もう一度光を連れて実家を訪ねた時には、母は眠っていた。母の寝室には、色々な色の千羽鶴が窓辺に飾られていた。叔母が光を母の脇に寝かせて、「光ちゃんが一緒に寝ているからね」と母に声をかけた。その翌日、母に付き添ってくれていた伯母が電話をしてきた。母は度々襲う癌の痛みがひどく、今やっとそれが収まったのだと言う。
「今、お母さんが、どうしても話したいって言っているから、電話を替わるね」
電話の向こうで、母がひどい痛みの中である事が分かった。ようやく電話を握る事が出来たようで、母は一言、
「大事に想っているからね」
とだけ言った。
私は急いで「私も、お母さんの事を大事に想っているから」と応えたのだが、母はやっとの事でそれだけ言うと、その後すぐに倒れこみ、伯母に電話を返したようだった。伯母は「じゃあね。今、お母さん、また苦しくなっているから。じゃあね。またね」と言って電話を切った。
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母の声を聞いたのはそれが最後だった。母はその二日後、私と父、弟、伯母たち、友人の見守る中、息を引き取った。私は母の手を握り、足をさすっていた。
母のお葬式があったのは、光が生まれてちょうど三週間目の日の事だった。お経を読むお坊さんが五人いる、大きなお葬式だった。
初七日やその後の儀式などが済んでも、母の双子の姉であった伯母は私たちを心配して、実家を頻繁に訪れてくれた。そうした中、伯母が母による最期の電話について話してくれた。母はその何日か前、海兵隊・武田鉄矢の歌う『贈る言葉』の最後部分の歌詞を思い出そうと必死だったらしい。伯母と一緒に何度か口ずさみながら、やっとその歌詞を思い出したようだった。母は涙ながらに、何度もそれを歌うように伯母に頼んだらしい。きっと誰かの事を考え、その歌を歌ってやりたく思っているのだろうと、伯母は察知したようだ。伯母は、母が自分の息子の事を考えているのだろうと思ったと言う。ところが、母が弟に語った最後の言葉は「今まで有難う」だった。弟は「お礼なんか言わなくて良いんだよ」と答えたらしい。母はしばらくして、癌の発作の収まった時に私に電話をするよう伯母に頼み、苦しい息の中で私に遺した最後の言葉が「大事に想っているよ」だった。伯母は「おばちゃん、あの時に、ああ、お母さんは、あんたの事を考えていたんだってわかったの」と教えてくれた。
母が私について「大事に想っている」と言った事は、私の記憶の限りで言えば、それ一度切りだった。けれども母は、本当はもっと頻繁に言いたかったのではないかと思う。母の中に、愛情を伝える事や、誤りを認める事への恐れが無ければ、きっと母はもっと自由に、苦しまずに生きられたのではないだろうか。
私は伯母の話を聞いて、涙が止まらなかった。母が死んでしまって悲しいとか、母が恋しいという涙ではない。今まで持ち得なかった母と娘の関係が恋しく思われ、普通の母娘の関係が持てなかった事がたまらなく悲しく、悔しく思われたのだ。そして、どれほど愛おしく、悲しく、悔しく思われても、そういう思いをぶつける相手である筈の母が、既に手の届かない場所に行ってしまった事が、例えようもない悲劇に思われた。

 

『これから始まる 暮らしの中で
だれかがあなたを 愛するでしょう
だけど 私ほど あなたのことを
深く愛した ヤツはいない
遠ざかる影が 人込みに消えた
もう届かない 贈る言葉
もう届かない 贈る言葉』   

 

武田鉄矢作詞・千葉和臣作曲

 

(10/12)