ユネスコによる『ユダヤ教』と『神殿の丘』の関わり否定

昨日ユネスコは、ユダヤ教の聖地であるエルサレムの「神殿の丘」と呼ばれる地域は、ユダヤ教とは関係がなく、イスラム教の聖地であるとの決議を可決しました。これは、国連の下部組織であるユネスコが、パレスチナと国連加盟国の多数を占めるイスラム教主義国への配慮をした結果であると思われます。

 

ユダヤ教の聖典にはイスラエル、或いは聖地であるエルサレムはイスラエル人の土地、聖都として669回言及され、シオン(エルサレムの別語)は154回言及されています。ユダヤ教で最も神聖な建物は神殿であり、この神殿が建てられたのが現在「神殿の丘」と呼ばれる土地です。

キリスト教の聖典である聖書は、エルサレムを154回、シオンを7回言及していますが、キリスト教の聖典もこれらをユダヤ人の土地として書いています。対してイスラム教の聖典であるコーランは、イスラエル、或いはエルサレムに対して一度も言及していません。それもその筈、イスラム教徒の聖地はサウジ・アラビアにあるメッカ、メディナだからです。

 

これは現在、イスラム教主義国が多数を占め、全てを「多数決」で決める国連の決議が何と言っても、変わらない事実です。

 

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           アル・アクサ寺院でのイスラム教徒・メッカに向かって祈りを捧げている

 

歴史的に見ますと、イスラエル(カナン)の土地は紀元全14~13世紀の間にユダヤ人の地となり、紀元前11世紀のダビデ王の時代に王朝が建てられます。その後王朝はユダヤ人の王家が2家誕生し、イスラエルは北イスラエルと南ユダに分裂します。エルサレムは南ユダの首都、又ユダヤ教の聖地として、以来何世紀も巡礼者を迎えます。

紀元前8世紀に北イスラエルの王朝がアッシリア帝国によって滅ぼされ、紀元前6世紀に南ユダがアッシリアを滅ぼしたバビロン帝国によって滅ぼされます。ユダヤ人の『ディアスポラ(追放、離散)』はこの時期に始まり、その後の歴史でも、支配帝国による迫害の度に、世界各地への離散が行なわれます。

 

バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ帝国によって紀元前538年にユダヤ人の神殿の再建設が許可され、ユダヤ人のイスラエル帰還が456年から始まります。その後ギリシャのアレクサンダー大王によってアッシリアが滅ぼされ、イスラエルの地は、ユダヤ人の国としながらもギリシャ帝国の一部となります。その後、ユダヤ人の王朝が建てられ、ギリシャ帝国がローマ帝国に滅ぼされて後、ユダヤ王国はローマ帝国の一部となり、ローマ皇帝を戴きつつ、ユダヤ人の王朝も続きます。この時代にキリスト教がユダヤ教の一派として誕生します。

ローマ帝国は4世紀まで続きますが、その間にキリスト教が東ローマ帝国(別名ビザンチン帝国)の国教となり、帝都の首都はコンスタンティノポールとなります。エルサレムは(ユダヤ人)キリスト教徒の聖都となり、ユダヤ教徒はエルサレムへの訪問は許されますが、在住は許されなくなりました。ローマ帝国はその後、東のビザンチン帝国と西ローマ帝国に分かれ、イスラエルはビザンチン帝国の一部となります。7世紀にサザン朝ペルシャがビザンチン帝国を侵略し、再びエルサレムへのユダヤ人(ユダヤ教徒)入植が許されますが、ビザンチンのヘラクレス帝王は、ペルシャ打倒の際にはユダヤ人がエルサレムを支配するなど、ユダヤ人の権利拡大を約束し、ユダヤ人の協力を得てペルシャを撃退しますが、約束は反故され、エジプト人キリスト教徒の一派であるコプト教徒がこの責任を感じ、断食する騒動が起きています。

 

7世紀(634年から636)年にアラブ人がこの地を占領し、8世紀にはアル・アクサ寺院が建設され、この何世紀の間はイスラム教徒がこの地の大多数人口を占め、この地での礼拝も行なわれ始めます。但し、アル・アクサ寺院での礼拝も、イスラム教の聖地であるメッカに向いたものとなります。

 

イスラム教徒が大多数の人口を占めた時代のエルサレムも、毎年巡礼者はエルサレムを訪れ、ヘロデ大王(治世紀元前37年 - 紀元前4年)の時代のエルサレム神殿外壁で現存する部分「嘆きの壁」で祈りを捧げます。

 

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                      嘆きの壁で祈りを捧げるユダヤ教徒

現在でもユダヤ教徒に聖地はどこか聞けば、エルサレム、特に「神殿の丘」と答えるでしょうが、イスラム教徒に同じ質問をすれば「メディナとメッカ」と答えます。礼拝を捧げる為「エルサレム」に向くイスラム教徒はいません。

イスラム教徒が「神殿の丘」に建てられたアル・アクサ寺院での礼拝する権限を侵害する意図はイスラエル政府にはありません。その上で、神殿の丘とユダヤ教との関わりを否定する国連の意図は、そのまま国連という組織の腐敗を意味します。

 

イスラエルはこの決議に強く反発し、ネタヤフ首相は、「ユダヤ人とエルサレムの関係を否定する事は、中国人と万里の長城を、エジプト人とピラミッドの関係を否定するようなものだ。これはイスラム教徒による、ユダヤ教徒へのテロを誘発しようとしている決議に他ならない」と声明を発表し、ユネスコとイスラエルとの関係を停止すると宣言しています。

 

この決議にイスラエル以外で反対票を投じた国家はアメリカとイギリスのみです。

日本の「名誉」を重んじる方々は、ユネスコの『南京大虐殺』を問題視されますが、他国に対してどんな決議が採決されているかには殆ど関心を持たれません。「神殿の丘」決議で、なぜ日本が反対票を投じなかったのか、まずそれを考えてみる必要があるかもしれません。

 

日本が反対票を投じなかった理由が、イスラム教諸国、アラブ諸国との経済的関係を重視してのことであるなら、同様に、日本に対する非難決議や「南京大虐殺ユネスコ登録」も、多くの国は中国との経済的関係を重視して票を投じている事も理解されるべきです。

ユネスコに歴史の真実を定義する権限はなく、こうした権限をユネスコに与えるべきではありませんが、他国に関する『真実』に対する姿勢を見る限り、日本という国家が殊更「歴史の真実」に対して忠実であるとは思えません。