慰安婦問題の論争を考える

私が歴史論争に於いて、最近見かけるオンラインの議論に不満を持つのは、争点が『日本軍は、歴史上稀にみる残虐行為を行なった』か、『日本軍は歴史上稀に見る品行方正な軍隊で、悪い事を一つも行なわなかった』に限られてしまっているように感じられるからです。

 

そして落ち着いて考えれば、そのどちらも間違っています。

 

ここでは歴史論争の中で、特に慰安婦問題を取り上げてみますが、国連クマラスワミ報告書に記されたような、慰安婦の『肢体切断』や、『釘のうち出た板の上 を釘が彼女の血や肉片で覆われるまで転がした』という記述、マクドゥーガル報告書の『慰安婦の75%が殺され、25%のみが生き延びた』などという批判 や、吉田清治氏による『20万人の韓国人女性の強制連行』、中国政府の主張し始めた『40万人の性奴隷』、しかも『その半数以上は中国人女性』などが史実 ではなく、解釈や主観の違いなどでは済まされない事は明らかです。

 

こういった史実の歪曲に対しては、勿論、客観的事実に基づく論理的反論をするべきだと思います。

 

さて、「日本は罪を認め謝罪した事がない」等という意見と議論する事は簡単なのですが、慰安婦問題に関して言えば、「多くの慰安婦の女性たちは非常な苦しみを受けた」(あるいは受けなかった)という議論は難しいと感じております。苦しみの度合いを測るものがまず主観である事が、難しさの一番の原因であると思います。

 

生活の糧を得る為に自ら風俗業に従事し、貧困から免れ、自分自身や家族を養っているという別の誇りを感じる女性もいる一方、風俗業に売られる事を恥辱と受け止め、誇りを失う女性が多くいる事も事実です。ですから、女性の境遇や、境遇への受け止め方について語る場合、元慰安婦の方々の悲惨な体験が、何と比較して悲惨だと言えるのか考えなければなりません。

 

『当時の他の女性と比較して悲惨だった。』 『現在の女性と比較して悲惨だった。』 『もし慰安婦とならなかった場合の人生と比較して悲惨だった。』 ありとあらゆる比較がされるべきですが、慰安婦問題の本質を語る際に一番重要な比較は、『もし日本軍の慰安婦とならなかった場合の人生との比較』である筈です。そして大多数の慰安婦の方々の場合には、『(当時の他の女性と比較すれば悲惨だったと言えるが)もし慰安婦とならなかった場合の彼女たちの人生と比較したら、 悲惨ではなかった』が本当ではないでしょうか。(この点は、ほぼ3年間慰安婦たちと身近に接したオーストラリア人元捕虜のゴードン・トーマス氏の手記に記 されています。)

 

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ところがそれは、『元慰安婦たちは同情に値しない』という突き放した考え方には結びつけられません。彼女たちの悲惨な境遇の責任の所在は、多くの場合、日本軍や政府にはありませんが、それでも「売春婦として、高給を稼いでいたのだから良いではないか」という考えは、『大金さえ稼げば、売春婦として売られても良い』と言っているかような極端な印象を与えます。

 

勿論、日本側の誰一人として、そのような極論を言っているのではないのですが、現在も人身売買などによって少女たちが性奴隷として売られていく悲惨なニュースを耳にするアメリカ人には、極論を言っているように聞こえるのです。(実際にそのような欧米人のコメントを読む事があります。) ですから、そうした議論の仕方を目にする時に、これでは却って日本の主張の為にはならないと考えている次第です。

 

議論というのは、自分の言いたい事を言い放てば良いのではありません。態度を決め兼ねている人々を説得する事も出来ずに、却って反発ばかり招くとしたら、 そうした議論は有益ではないと思えるのです。

 

ですから、事実関係の議論をする際にも、慰安婦だった女性を罵ったり、嘲るような言葉使いはしない方が、議論のためにも懸命でしょう。何しろ彼女たちは、戦場でわが日本兵たちに慰安を与えてくれていた存在だったのですから。