本当にあった食人事件…父島事件

『アンブロークン』という映画がアメリカで公開されたのは、一年前のクリスマスでした。

この映画についての噂に、日本には人肉を食する儀式的な習慣があったという描写が映画の中でなされていると言うものがありましたが、実際にはそのような描写も、そのような習慣についての言及もなされませんでした。

勿論、日本には食人の習慣も儀式もありませんが、戦時中、捕虜を殺し、その肉を食した事件はあります。

あまり知られてはいませんが、いわゆる『父島事件』と呼ばれるもので、父島に不時着した米軍兵士ら8人が捕虜として捕まり、日本軍による食人の犠牲となりました。

父島に於ける食人事件の最後の犠牲となった米国人捕虜であるホール中尉は、日本軍の堀江参謀に英語を教えながら、仄かな友情を感じる仲となっていたようです。

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『「自分は母親の手で育てられ大学まで出してもらった。戦争が済んだら、捕虜期間中の給料が一度に出るから、母親に美容師の仕事をやめてもらいたい。楽をさせたい。」と語り、「戦争はもうすぐ終わるのだから、メイジャー(参謀)もダンスと自動車の運転をやりなさい」とすすめた。』  (秦郁彦著・昭和史の謎を解く下、P.264)

とあります。このホール中尉は、後にグアムで開かれた軍事裁判で死刑となる立花中将によって連行されたようです。

『寺木(軍医)は言われたとおり、斬首され絶命したホールの死体を教材として衛生兵たちに内蔵のデモンストラチオンをやり、キモを切り取った。その夜、308大隊の全将校は防空壕内の部隊長室に召集され、ホール中尉の試食を目的とする大宴会となる。』 (同、P.265)

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終戦を迎え、9月2日、米艦が到着し、日本軍は正式に降伏しますが、予備会談の場で米軍側は開口一番、「パラシュートで降下した連合軍のパイロットは何名いたか。どうなっているか知りたい」と聞いて来たそうですが、堀江参謀が「防空壕で全員爆死しました」と答えると、相手のスミス大佐は露骨に不満のそぶりを見せます。

日本側は既に口裏を合わせていましたが、ひそひそ話は広がり、米軍は日本へも調査団を派遣し、帰国者から証言を聞きだし、証拠を集めていたようです。

グアムで開かれた軍事法廷で、父島事件に関する被告は25名に上りました。

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『もっとも注目を集めたのは父島事件で、凄惨な証言が次々に登場した。なかでも立花中将の登板兵が人肉を供した酒宴のようすを述べ、立花が「これはうまい、おかわりだ」と要求したくだりになると、法廷は水をうったようにシーンとなってしまった。

米軍新聞のグアム・ニュースは連日、「カニバリズム」の大見出しをつけて裁判の経過を報道し、一部は米本土の新聞にも転載されたがある日、記事がぱたりと止まった。堀江参謀が聞くと、米本土の母親たちが「息子は名誉ある戦死と信じていたのに敵に食べられてしまったとはと大統領に訴えたので、記事掲載が禁止されたのだという。堀江は『申し訳ありません』と担当官に泣き声で謝るほかなかった。』 

BC級犯罪を調査している岩川隆は「人肉嗜食という行為は猟奇の感を免れないが、法的には、いわゆる「死体棄損侮辱」という種類のもので、グアム法廷の長であるマーフィ大佐も、特にこれを戦争犯罪として訴追しなかった。曲がりなりにも、感情と法は別、という態度がみてとれた」と書いている。

そして米陸軍の裁判規定(SCAP規程)を準用できるのに、米海軍郡法会議独自のルールや手続きを適用、日本人戦犯にも米人被告人に与えられているのと同じ「被告人としての権利・地位」を与え公平な裁判を貫こうとした、と指摘している。』(同、P.267~269)

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連合軍によって裁かれた食人の事件は父島事件だけですが、これが起こったのが飢餓状況の下でなかった事に人々は驚きました。父島の食糧事情は本土よりも恵まれていました。空襲も断片的、散発的で、条件としては、他の地に比べ恵まれていたようです。

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『そうなると、原因はある種の集団的異常心理としか考えられないが、死刑になった中島大尉が判決直後に「捕虜になると国賊扱いにする日本国家の在り方が、外国捕虜の残虐へと発展したのではないでしょうか。捕虜の虐待は日本民族全体の責任なのですから、個人に罪をかぶせるのはまちがっていませんか。……私は国家を恨んで死んでいきます」とボロボロ涙を流しながら堀江に訴えたのが、カギになるかもしれない。
 
たしかに捕虜になるのを禁じられた日本人に、敵の捕虜を愛護する感情が生まれるはずはなかった。孤島父島の将兵は、いわば逃げ場のない袋のネズミであった。きっかけがあれば、その抑圧感からモラルがとめどなく堕落していく可能性はあったと思われる。』 (同、P.272)

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矛盾をしているかもしれませんが、私には、殺された兵士の無念も、息子を食べられてしまった母親の無念も、「自分の命さえ大切に考えられていない中で、捕虜の命など尊重できない」と泣く日本兵の無念も、もっともだと思えるのです。

ユネスコの記憶遺産には登録されなくても、こうした一人一人の無念と、その上に立つ和解や平和の有難さは、忘れるべきではないと考えます。