最後に

虐待について、私は何の資料も目にしていない。ただ自分の経験の一部を書いただけである。これらは私の目線を通した記録であり、私の家族には別の目線があり得る事も認識している。目線の違いで言えば、母は生前、祖母に見捨てられたと感じながら育った一方、母の双子の姉である伯母は、祖母が母を一番可愛がっていたと記憶していた。私は両親が私の弟を贔屓していたと感じていたが、弟にしてみれば、私の方が自分勝手な生き方をしたと考えているだろう。母は私の弟ばかりが手術や入院を繰り返した為「不幸の星の下に生まれた」とつぶやいていたが、私は母と一緒にいる弟を羨ましがったし、母に見捨てられると感じていた。
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こうした見方の違いは、加害者の方が被害者よりも、加害の事実を過小評価しやすい傾向があるのも一因だろうが、もしかすると私たちが個々感じ得る不遇に対する怒りや悲しみは、加害者による『調節』や『計算』によって、根本的には解決されないからかもしれない。私の事で言えば、私は、金銭的にずいぶん弟より恵まれていた。ある朝、母が目に涙を溜めながら一万円札を投げつけた事は書いた通りだが、その他にも米国への留学や旅行をさせて貰った。こうした贅沢を弟がする事はなかった。しかしながらこのような『調整』は、私が虐待されたという意識を変えるには至らなかったし、私はこうした『調整』を、被害を被った事に対する当然の代価のように受け捉えていた。『被った被害に対する当然の代価』と受け捉える限り、そこには感謝や感動も無かったのだ。
また私は、父や生前の母による虐待を書く事によって、両親を告発しようとしているのではない。そうではなく私は、虐待している親の多くが、実は親自身、助けを必要としている人々である事を知って頂きたいのだ。虐待している親の多くは、凶悪な犯罪者であるのではない。むしろ複雑な問題や痛みを抱えた人々であり、彼らも傷付いている場合が殆どである。しかも彼らの動機は子供への躾にあり、自分の方法が誤っていると薄々は気付きながら、それを修正する能力や方法を取得できないまま、結果的に子供の福祉を虐げ続ける場合が多いのではないだろうか。

私はこれらの親が助けを得やすくなるように願っている。その為には、虐待する親へのイメージを、まるで連続殺人犯に対するような明らかな犯罪者として設定しない方が良いと思う。虐待する親のイメージを凶悪犯罪者として設定してしまうと、虐待そのものの発見が遅れてしまうと思われるからだ。

これを書くにあたって冒頭に言及した栗原心愛ちゃんは、亡くなる以前、様々な機会を用いて、自分の身に起こっていた虐待の体験を大人に訴えていた。彼女は幼くして、自分への暴力が許されるべきでない事に気付いていたし、社会に対して助けを求めていた。ところが彼女が置かれていた暴力的環境は、躾の一環という父親の言い分や日本における親権の在り方によって見逃され、彼女は助ける人なく、命を落としてしまった。私たちは彼女が生きている間に、彼女を救出する事ができないでいたのだ。それは私たちが、加害者である親の権利や、躾という言い分を重視するだけで、結果として幼い命が失われる可能性を余りにも蔑ろにしているからではないだろうか。
たとえ劣悪な環境を生き延びたとしても、虐待とは、終わってしまえばそれで癒しが始まるものではない。その後の生き方が難しいのだ。これは、戦争によって破壊された街を再建してく作業に似ている。激しい爆撃を生き抜いたとしても、再建能力が培われたかどうかは全く未知である。住民が住み、経済発展を果たす街となる為には、途方もない労力を要するものだ。
私の場合で言えば、特に新しい家族を持ち、子供を持ったあと、子供の反発や反抗、病気、お互いのストレスなどに遭遇した時に、どのように対処して良いのか、全くわからない事が多くあった。また心理学者とカウンセラーによって診断された私自身のPTSDや鬱状態によって、子育てどころではない時期もあった。私自身の子育てや、その失敗、教訓についても、いつか書いていきたいと思うが、決して成功例ばかりではない。むしろ山のような失敗を犯してきた。それでもこれまで何とかやってこられたのは、何よりも現在の夫の協力と知恵、忍耐、模範があったからだと思うし、離婚後も家族の一員として近くあり続けてくれた元夫の存在があったからだ。また折に叶った助けを与えてくれた友人たちには、心から感謝をしている。

最後になるが、私が自分の幼少時から今に至る記憶の一部を書き留めるよう勧め、励ましてくれた夫、子供たち、多くの友人、また困難を覚えつつ育ててくれた両親に、心からの感謝を述べたいと思う。

 

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