それから

2014年11月、私は父に会おうと、実家近くの駅に向かっていた。父に会うのは10年ぶりだった。母が亡くなった翌年、私は夫と子供達3人を連れ、渡米していたからだ。

母が亡くなった直後、父は生前の母の写真数百枚を寝室一面に貼りつけたり、母に似せた観音像を墓地に建立したり、挙句の果てには、母が生前お世話になった人々に贈り物を送る際、その差出人を母の戒名にするなど常識を逸脱した行動を、誰も止める人の無いまま繰り返した。
人にはそれぞれの、死者を悼む方法がある。父の悼み方は、母をほぼ宗教化し祀り上げる事のように思われた。
私は自分の出来る範囲で父を訪問し、週日には電話をしたり、週末の夕食を一緒に取ったりするようにした。父も私を助けてくれたことがある。光を産んで4ヶ月程して私は、急に今まで経験した事のない高熱を出し、倒れた事があった。その時父が私を病院に連れて行ってくれた。光は哺乳瓶を嫌った為、私は病院で点滴を打たれながらも光に授乳していた。診断は「産後の疲労がたまった」という事だった。その間、夫は香と基の面倒を家で見てくれていた。
そうしてしばらくは父とも仲良くやっていけた。ところが伯母が主に行なっていた遺品整理によって私に割り当てられた母のミンクのコートやハンドバッグなどを、父が、その頃父の仕事を手伝いし始めた従妹に上げると言い出した。私は、父が従妹に興味を持ち、何かプレゼントをあげたいなら、何も母の遺品をあげなくても、父が自分で新たに買った物をプレゼントすれば良いと言い、母の遺品を父が持って行く事を拒否した。それに憤った父は、私を「金目当て」と言い、「お前とは縁を切る。お父さんが死んでも、お前には遺産は一切行かないように、弁護士と相談をしている」と電話を切った。母の双子の姉である伯母がそれを聞き、東京からやって来て「お父さんはひどいね。伯母ちゃんが絶対、そんなバカなことが無いようにしてあげる」と慰めてくれた。
思えば、父には私が小学生の頃にも「お前には友達はいない。お前の友達はみんな、お父さんがお金を持っているから、友達をやってくれているんだ」と言われ、激しく泣いたことがある。自分の子供に本当の友達がいないとか、お前は愛されていない等と言う事は、どんな場合でも不必要な行為であるのだが、今から考えれば、恐らく「自分には本当の友達はいない」という不安は父が感じていたのかもしれない。或いは父は、不安に思う以前に、「金銭があって初めて友情は得られるもの」という考えを、真実として受け入れていたのかもしれない。いずれにせよ私には、「縁を切る」と言われつつ、自分の生活に無理をしてまで父と関わるつもりは全くなかった。私と父との間には、少しの事には揺るがない関係の為に必要な、深く伸びた根のような信頼が育っていなかった。根があったとすれば、それは薄く横に伸びてしまったもので、少しの日照りや風でダメになってしまう代物だろう。
私たちはその後、父に会う事なくアメリカに渡った。アメリカに渡った後、様々な変化があった。私は夫と離婚した。3人の子供は、共同親権のもと、双方によって育てられている。離婚後4年して私は再婚したが、元夫ととも家族であり続ける約束によって、彼とは兄妹のように関わっている。父が脳梗塞によって入院した為、経営していた会社が倒産し、自己破産をしたという知らせも伝わってきた。舞ちゃんは結婚し、男の子を出産した。舞ちゃんが男の子を産んだ後、舞ちゃんの母である叔母が癌で亡くなった。叔母が亡くなる前に、一目でも会いたかったのだが、この願いは叶わなかった。アメリカ人である夫との再婚前に日本へ一時帰国してしまえば、その間にビザが切れてしまい、アメリカへの再入国が困難になってしまうからだった。
アメリカで暮らすうちに、私は次第に鬱状態に陥っていった。直接の引き金は、渡米から始まり、離婚やら、叔母の死やら、米国で暮らす毎日のストレスであったかもしれないが、私はもっと根本的な、私の人生を生きる事の難しさを感じるようになっていた。アメリカ人との夫の再婚後も、私はただ裏庭にやって来る色とりどりの野鳥を見るだけで、何か月も過ごした。金銭的には恵まれていたので、家事等を手伝ってくれる人たちを雇うことも出来た。夏には義母の所有する湖のほとりのコテージで朝日が水面を照らしながら昇るさまを見たり、テニスをしたり、静かな会員制クラブで食事をしたりする事もできた。主人の家族はみな気さくな人たちで、特に義母は愛情深く、楽しい人だった。クリスマスやイースター、独立記念日や感謝祭など、家族の集まる時には、私の子供たちだけではなく、元夫まで温かく迎えられた。ところが私は、そういった恵まれた環境の中に置かれながらも、一人だけ大きく重い荷物を背中に負わされている気がした。しかも重荷を負いつつ単距離だと思って走ってきたコースが、実は果てしもない長距離であると知らされた人のような、途方もない疲労感を感じていた。
私はアレックスという心理学者によるカウンセリングも受けた。彼によれば私は大きな怒りを抱えているのだという。その怒りが、怒りとして外側に出るのではなく、内側に向かう為、鬱状態となっているのだろうと説明してくれた。そうした解釈が正しいならば、鬱から解放される為には、怒りが外側に向けられる必要があるのだろうか。そうだとしても、私は誰に怒りをぶつけるべきなのだろう。母は既に他界をしていたし、父は脳梗塞を患い、倒産、破産した身なのだ。
私は特に母に対して、痛みを負った、つらい人生だっただろうという同情すら感じるものの、怒りを感じる事は不適切に思われた。アレックスによれば、母は恐らくアルコール依存症であったと言う。私の感じ方では、母は自分自身、母親から拒絶されたという思いを抱えながら幼少期を過ごしていた。私に対して、決して誤りを認めたり、感謝や愛情を表現したりする事の無かった母の傷を思うと、怒りという感情は起こらないのだった。
そうこうするうちに、私はナショナリスト的な立場から、いくつかの記事を日本の政治言論誌に掲載する機会が与えられた。2014年に日本に滞在するうちに、何人かの国会議員や、主だった学者、言論人にも会う事ができた。そうするうちに、父から是非会いたいと連絡があった。
実は私は2014年の春にも来日しており、その時にも私が帰国する事を他の親戚から聞いた父は、私に会いたいと言ってきた。その時私は、父に会う事を拒んだ。私には父が私に会いたがる理由がわからなかったし、父に会いたいとは全く思わなかったからだ。父や母に対して怒ってはいないと思いつつ、やはり私の心は、赦しとは遠いところにあった。
特に私は、ミチルやミルクら犬たちが受けた仕打ちに対して、赦せない思いでいた。いや正確に言えば、私は自分の心の中で計算をしていたのだ。つまり、母から受けた酷い仕打ちは、母も感じていたであろう苦痛や、「大事に想っている」という最期の言葉で帳消していた。父に対しても、病院に連れて行ってくれた事などで、かなり差し引きされた嫌悪感しか感じていなかった。このように、私自身に対する仕打ちは、自分に対して示してくれた親切などによって赦さなければならないと考えておきながら、親切を受けることなく死んでしまったミチルやミルクたちの為の怒りだけは正当化できると考えていたのだ。言って見れば、私はミチルたちを通してでなければ、単純な計算によっては帳消しできない鬱積された怒りを感じる事ができなかったのだろう。
私は、自分が父を赦していない事を承知しながら、それでもこれが最後となるかもしれないという思いで、父と会う約束をした。但し、その夜にある会合の為に東京に戻らなければならないという口実を設け、二時間だけ、と断っておいた。
10年ぶりに会った父は、小さく、みすぼらしく、別人のようになっていた。年をとったのだろう。私の顔を見ると、照れ笑いを見せた。
知り合いのレストランで遅い昼食を取る為に、父の車に乗ったのだが、今までは国産車でも最高の種類の車に乗っていた父が、今では明らかに中古の小さな車に乗るようになっていた。あれほど羽振りが良かった父がこのように落ちぶれた姿に切なくなった。これが「お前にはいっさい遺産を遺さないように、弁護士と相談をしている」と啖呵を切った父なのか。父と食事の間に何を話したか、殆ど記憶に無い。ただお金が無くて、歯医者に行くこともままならないという事を言っていた。私は父に頼んで郵便局に車を止めてもらい、そこからクレジットカードで40万円程日本円をおろし、父に渡した。私はその二時間を居心地悪く過ごしたのだが、今思えば、父は心から嬉しそうだった。父は別人のようになっていた。
それからも父からは何度か、金銭援助をして下さい、というメールが来た。それに応えて送金を続けた時期もあったが、言っている事の辻褄が合わないように思われ、父からのメールは一切無視した時期もある。それでも父は、私が読んでいようといまいと、誕生日やら、クリスマス、お正月にはメールを送ってくれていた。父はもう、昔の父ではなかった。
何か月か前に、年老いた父につらく当たるのは止めようという思いが浮かんだ。神さまは「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨(恵み)を降らせて下さる」という言葉が思い出されたのだ。年を重ねた父は、以前の父でないのだ。既に別人となっている父に怒り続けて、私は何を得ようとしているのだろう。私は父につらく当たる事で、自分も苦しい思いをしていた事に気が付いた。
それから月々、生活の足しになる金額を送金しようと考え直した。父からのメールにも返信するようにし始めた。私は、もう両親の支配下にはいない。虐待環境には置かれていないのだ。長い間、私自身怒りを抱えてきたが、私は怒り続ける事にも疲れを感じていた。違う生き方を始めても良い頃なのだろう。
母が最期に言った「大事に想っている」という言葉を、遅くならないうちに、今度は私が父に言ってあげられたら、そして『贈る言葉』の最後部分の歌詞を歌ってあげられたら、それはどんなに良いだろう。


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