基を産んで

生まれた子供は男の子だった。基(もとい)と名付けられた子供は、香とは違い、新生児でありながら、一日合計約8時間しか眠らず、あとは延々と泣き続けた。新生児の時の香は、起きていてもお腹が空いていたりおむつが濡れていなければ泣かなかったので、その静かさにあっけなく感じたものだが、基は全く違い、授乳の後、やっと眠ったと思っても、布団に寝かせた途端、起きて泣き出す子供だった。

「赤ちゃんの仕事は、泣く事」と誰かが言っていた。私もそう考えていたが、そうした基準で考えれば、基はウォーカホリックと言えるくらい、いつも泣いていた。殆ど手のかからない新生児であった香と比較して、基はとにかく起きている時はずっと泣いており、子供によってここまで育児は違ってくるのかとビックリした。オシメが濡れている訳でもなく、お腹が空いている訳でもないのにずっと泣いていた為、基を世話してくれていた看護婦さんが「ずっと泣いていますね」と驚いた程だった。

退院後、基の肌に吹き出物ができ、医師から塗り薬が処方された。ところがその薬が合わなかったようで、吹き出物が悪化してしまい、基は痒さの為か、さらに激しく泣いた。翌日、別の薬を処方してもらい、やっと吹き出物が収まった時には、基は、黒目がちの瞳に涙を溜めながら、やっと笑い顔を見せてくれた。基を産んで一月ほど、ホッとした事が無かったのだが、基の笑顔を見て、やっと出産に一段落ついた気がした。基は体が弱かった訳ではないが、手がかかった。体の弱い子供を持つと、親は更にその子にかかりきりになる事が想像できた。

私の両親は、基の出産後、病院に一度見舞いに来た。ところがこの事はあまり記憶に無い。母が香に向いて「赤ちゃんのお名前はなんて言うの?」と聞き、「もとい君って言うの。すてきなお名前でしょ?」と香が答えた事だけは記憶に残っている。私と両親は、それからまた行き来し始めた。特に母が私たちのアパートを訪れる事が多くなった。母がいてくれると香の相手をしてくれるので、実際に助けられた。乳幼児を抱えると、乳幼児の必要を満たす事が優先され、どうしても上の子供が後回しにされる。そういう時に、一人でも上の子供の必要を優先させてくれる大人が増える事は、有難かった。

私は、自分が弟と比較して放って置かれた事を恨んでおり、悲しく思っていた。私が4,5歳くらいの時は、弟は皮膚の手術の為に東京の病院に長い期間入院しており、母はずっと弟に付き添っていた。生まれつき弟には広範囲にわたって大きなあざがあり、何度かに渡って手術が行なわれたからだ。体が弱かった弟は、あざの他にも、色々な手術の為に入退院を繰り返した。一度、弟の入院に付き添っていた母がしばらくぶりに帰ってきた時に、私は母に抱きつきながら昼寝をした事を覚えている。「ママがずっと一緒にいてくれたら、どんなに良いだろう」と考えたのだ。そして母が東京に行ってしまった時には淋しかった。その分、いつも母と過ごしている弟を羨ましく思った。ところが母は時折、体の弱かった弟の不運を悲しみ、私に向かって「お前は幸福の星の下に生まれたけれど、あの子(弟)は不幸の星の下に生まれてしまった」と嘆いていた。母は一度、幼い息子が、手術前に「ママ、もうすぐボクは、おくすりがシュウって出てきて、死んじゃうんだよ。もうすぐ、おくすりが出てきて、ぼくは死んじゃうんだよ」と言って、手術室に運ばれて行った事、またその姿を送る切なさを語った事がある。私はいつも、母が弟だけ連れて家を出ていこうとしたり、弟の誕生日にだけプレゼントを買ってくる両親の行動を見て、弟は母に愛され、私は嫌われていると考えていた。ところが基が「ぼくはもうすぐ死んじゃうんだよ」と言いつつ手術室に運ばれて行く姿を想像しただけで、親としてたまらない気持ちになった。もしかすると母は、弟の不幸を少しでも是正しようと、弟への関わり方と私への関わり方への差をつけたのかもしれない。それが正しい事かどうかは別として、運命に対して少し逆らってでも、子供の不幸を是正してあげようとした母の気持ちは理解できた。

私は二人の子供を持つ親として、母の気持ちが少しばかりか理解できた。一人の健康な子供と、もう一人の体の弱い子供を持った場合、親はどうしたら良いのだろう。恐らく、一方を甘やかし、もう一方には厳しくする、という接し方は間違っているだろう。それでも、運命が一方に厳しくある場合、その一方に対して、何かの形で補ってあげたくなる誘惑に一体どれだけの親が勝てるだろう。                    
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基が生まれ4ヶ月くらい経った頃、私は母に、自分が愛されていないと感じながら過ごしてきた事、ところが手のかかる二番目の子供を持つ親として、母が特別に弟を可哀想に思った気持ちは充分に理解できることを伝えた。それ以上の事は言わなかった。私も母も泣いていた。私は泣いているところを母に見られるのがイヤだったし、恐らく母もイヤだっただろう。これからは少しずつ違う関係が築いていけるかもしれないと期待できそうだった。

それからひと月くらいして、母は大腸がんの手術を受けた。実は癌は一年ほど前に見つかっていたらしいのだが、腫瘍が余りにも小さいという事で様子見となり、ある程度の大きさになってから手術をするという計画だったらしい。大きな個人病院に入院した母は、眺めの良い、大きくて贅沢な個室を貸し切った。手術は成功したと言われ、皆、安心した。術後の回復も順調であると言われ、母は月に一度の術後検診に通う以外、普通に日常を過ごし始めた。ところが私の方は、睡眠不足からくる疲労がたたり、いきなり高熱を出したり、何でもない時に涙が出て止まらなくなったり、口が開けられなくなったりした。基が一才を迎える頃には、私は何週間も長引いた風邪の為、味覚を完全に失くしてしまった事がある。香も基も、咳や鼻水程度の症状があったが、一番ひどかったのが私だった。この時は母が「一緒に行ってあげるから、いい加減、医者に行きなさい」と小さな医院に連れて行ってくれた。医院は風邪を引いた人で溢れてあり、待ち時間が二時間近くあった。香も基もじっとしている事が難しかったが、母が相手をしてくれていた。医者は「こんなにひどくなるまで、なぜ放って置いたんですか?もっと早く来なきゃ」と言ったが、べつに私の事情を知りたかった訳ではなさそうだった。

お正月を過ぎて何週間か経ち、私は再び妊娠した事に気付いた。子供は3人欲しかったので、嬉しかった。ただあまりにも基に手が掛かったので、子供は出来れば香のような女の子が望ましかった。両親に妊娠した事を知らせると、二人とも喜んでいるようだった。母はとにかく香と基を可愛がった。孫の為にはどんな事もしてあげる、というような祖母へと変わっていった。相変わらず、こちらのスケジュールにお構いなしに計画を立てたりする事はあったが、第三子を妊娠した頃には、私の方も融通が利くようになっており、いちいち目くじらを立てなくなった。つわりがひどくなり、疲れも溜まる為、母がどこかに二人の子供を連れだしてくれれば、それだけ休めると考えるようになったのだ。

 

ある春の日、母がやって来て、また体調を崩している私を気遣い、「ばあばが香ちゃんと基くんをお散歩がてら、お買い物に連れて行ってあげましょう」と、幼い子供二人を連れて出してくれたことがある。基はよちよち歩きであり、何メートルか歩くと、すぐに「抱っこ」をせがんだようだ。そうかといって香もおんぶされたがったらしい。そうやって甘える二人の孫を抱えて、母は2時間ほどかけて散歩と買い物に行ってくれた事がある。帰って来た時に母は疲れたようだったが、「香ちゃん、よく頑張って歩いたね。もと君も、頑張って、偉かったね」と二人を労っていた。その翌週、私は父から電話を受けた。

「お母さん、今、検査で国立病院に入院しているんだけれど、もう癌が転移していて、末期らしい。あと三ヶ月から六ヶ月って言われてるんだ」

私は、父が何かの冗談を言っているのか、医者の言っている事を誤って解釈しているのだろうと考えた。末期癌と言っても、手術は成功したと言っていたではないか。その後の経過も順調だったはずだし、先週は子供をおぶって買い物にも行ってくれたではないか。母は何度か咳に血が混じっていた為、一年前に手術を受けた病院の医師に状態を伝えたのだが、原因が判りかねるという事で国立病院を紹介され、そちらに検査入院したらしい。

とにかく医者が家族に説明をするというので来てくれ、と言われ、指定された日に、父と弟と国立病院に赴いた。小さなオフィスに通された私たちは、母の肺を撮影したレントゲン写真を数枚見せられた。暗い背景に大きなぼた雪が降りしきっている写真のようだった。ぼた雪と見える白い影が癌細胞だった。私は再び、深々とした雪景色だけが見える、音の無い世界に入りこんでしまったように思えた。父は国立病院の医師に何かを色々言っていた気がする。恐らく今までの経過を述べる事で「こんなバカな話はない」と言いたかったのだろう。今までの診断にミスがあったとして、それは国立病院に勤める目の前の医師の責任ではない。それでも医師は、父の不満も憤りも、忍耐して聞いてくれていた。私は最後に一言だけ、「あとどれくらい、普通の生活が過ごせるのでしょうか」と聞いた。医師は「もう、普通の生活はできません」とだけ答えてくれた。私たちは礼を言い、医師のオフィスを出た。

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