虐待に気付くまで

私が高校二、三年生の頃、母は更年期を迎えていたらしい。 そのせいで、という訳でもないのだが、 この頃の母の行動は常識を逸脱していたように感じる。一度、 ある考えが浮かぶと、それを制御したり、しばらく様子を見る、 という事が全く出来なくなった。

母の苦痛はどこから来ていたのだろう。 母は自分への批判は一切受け入れられなかったし、 少しの非難めいた言葉を聞き過ごす事も出来なかった。 どんな些細な否定的意見からも、徹底的に自分を守らなければ、 自分自身の存在が危うくなるかのように振る舞っていた。 だから全てにおいて自分の言う事を聞いてくれる父を必要としてい たのだが、あまりにも自分の言う事を聞く父を尊敬できず、 父の意見等は、結局は当てにならないと感じていたようだった。

家に帰ると母が何かの事で父に対して怒っており、 ビールを飲みながら、だんだんその怒りが悲しみに変わり、 なだめようと聞いていた父がウトウトし始めても、 それでも延々と泣きながら自分の人生の惨めさを訴えている事が多 々あった。時には明け方まで続いた口論にもならない口論、 涙の訴えのきっかけは何だったのだろう。母は16年も前に亡くな っており、今はその理由を直接聞く事も出来ない。 小学校低学年までの頃は、 私がいなければ母は不幸でなくなるのだと信じていたが、 高校生の頃には、もしかしたら他の要因もあるように思えてきた。

母の長時間に及ぶ説教において母が悔しそうに語ったのは、 自分の学歴の無さだった。 母は伯母と共に高校受験に失敗している。 第一志望に絶対合格するものと過信して、 滑り止めを受験していなかったらしい。母に言わせると、 自分よりも成績の悪い友達らが別の高校に進むのに、 自分たちは高校に進学できなかった為、 友人らが学校に登下校する時間帯は、出来るだけ外にいないで、 彼らに鉢合わせないようにしたらしい。母に言わせると、 祖父の次郎も、祖母の菊子も、 娘たちの教育に対して全く熱心ではなかったようだ。 似たような事は、隣に住んでいた叔母も語っていた。「まったく、 おじいちゃん(次郎の事)もおばあちゃん(菊子)も、 受験の前の日だっていうのに、勉強よりも、あれを手伝え、 これを手伝え、って言うんだから。」

高校の受験に失敗した事で、やがて母は働きに出た。 いずれは県立の夜間高校に通って、好成績で卒業したのだが、 それでも祖父母が高校、またそれ以上の学歴を持ち、 妹らも県立高校や女子大を卒業したし、自分一人が( 本当は双子の伯母も同様なのだが)高校に進めなかった、 という悔しさは残ったようだ。その悔しさは、特に「 絶対に馬鹿にされたくない」という意地や、或いは「 馬鹿にされている」という被害妄想に繋がったのかもしれない。 しかも私も裕福な子弟の通う私立の一貫教育校で学んだ為、 いよいよ娘から馬鹿にされるかもしれないという恐怖感に拍車がか かったように思えた。母はしばし、 例えば絵画や音楽の趣向のような些細な事柄にすら、「 お前は生意気」から始まって「 誰もお前の事をすごいとは思わない」「 お前よりもお母さんの方がもっとすごい」 などと躍起になっていたのだが、 まるで深い海で溺れている人が何とか足場を探すように、 私を自分の足下に敷かなければ安心できないようだった。

そう考えてみると、母は、私が悪い成績を取ると、 まるで自分が恥をかかされているかのように憤る一方、 私が母を超えて社会的に成功する事にも脅威を感じていたのかもしれない。そう仮定すると、幾度となく私を貶めるような行動をとったのも、ある程度説明がつく。 例えば私が三年生の時、 家庭科の料理実習で必要だった卵を忘れたのだが、 母は何度電話してお願いしてもそれを届けてくれなかった。「 同じ班の他の人たちに迷惑がかかるから」と言ってお願いしても、 母は「お母さんが今助ければ、忘れ物をする癖は治らないから」 と言って突っぱねた。結局は幸いなことに、 余分の卵を持ってきた友達に卵を貰って、 私の班は難なく過ごせたのだが、 一部始終を見聞きしていた友達は「本当の子供なの?」 と聞いてきた。

中学生の頃から、周りが塾に通い始めても、 決して塾には入れてくれなかった。家庭教師はついたが、 せいぜい宿題を見る程度の介入であり、殆ど役には立たなかった。 高校生の頃には、私の日記を読み上げ、( それだけでも酷いのだが) 私の好意を寄せていた人の家に連絡を取り、 向こうの気持ちを聞いてみる、などといった行為をやってのけた。 このように私は、家でだけではなく、 社会的にも恥ずかしい思いをさせられたりした。

一番悪質であったのが、 私がカレッジから夏休みに帰って来ていた時に、 家でアルバイトをしていた親戚の若い男性に、私を「 買い物に連れ出し、ホテルに連れ込み、 強姦をする一歩手前で止めて、『生意気に振る舞っていると、 こういう目に遭うんだ」と言ってやって」と頼んだ事だろう。 親戚の男性は「第一、 ボクとそんなところについて来る訳ないじゃないですか」 と断ったらしい。これは母本人から「お母さん、 そう頼んだんだけれど、断られちゃった」と聞かされたので、 私には言葉の出ない程、ショックだった。思えば、 この事がキッカケで、私は母の言動が、 単なる怒り過ぎや厳しい躾では無い事に気付いたのだ。

尤も、実際に虐待であった事に気付くのは、 それからずっと何年ものあと、私が結婚、出産し、 赤ん坊である長女を抱いていた時だ。

実は長女出産の際、初産という事で、出産にも時間が掛った。 母は分娩の待合室に、私と一緒に何時間も待機しながら、 陣痛に苦しむ私に怒りをぶつけ始めた。要は時間がかかり過ぎる、 という不満だった。「もういい加減にして!お母さん、 もう疲れちゃった。いったい何時間かかるの。大体お前は、 何だって真剣さが足りない。 だから子供だって生まれないんだから」と怒りをぶつけてくる。 時折様子を見に来る看護婦に対しては丁寧に接し、私の夫(当時) には「私が付き添っていますから、大丈夫です」と言いながら、 私に対しては、小声で激しい怒っていた。 私は陣痛に苦しみながら、母に「もう帰って良いから」 と一人にしてくれるよう頼んだ。母は「だって、お母さん、 感動の場面にいたいから」と言い、ブツブツ不満を述べていた。 長女が生まれたのは、それから30分くらい経っての事だった。

やっと長女が生まれた後も、私は親への感謝が溢れるどころか、 親の見舞いがイヤでイヤで仕方なかった。母は私の夫(当時) について「気が利かない」と悪口をこぼし始め、 父に至っては面白がって出産後の便秘で座るにも苦しい私の尻部を ぴしゃりと叩き、 痛さに口がきけない私の様子が面白くてたまらないかのように笑い 転げていた。母は私の退院後、 実家で世話を受けるのが当然だと命令するのだが、 その滞在とて高額有料の滞在であり、 私は例え自分で全ての事をしなければならないとしても、 自分たちだけで静かに退院後の生活をこなしていければどれ程楽だ ろうと考えた。ところが、そうした考えは、 母にとって自分の親としての権威や評判を傷つけるものであったよ うで、到底受け入れられない。私は自立し、結婚し、 子供を産んでも、まだ母の支配下にあったのだ。そうして私は、 母の怒りや暴言に嫌な思いをしながら退院後の二週間を実家で過ご し、夫とのアパートに帰って行った。
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子供というものは、天使のように笑う。 静かな生活で子供の眠る姿、笑う姿を、指を動かしたり、 あくびをしたりを飽きることなく何時間も見つめて過ごした。 子供が泣いても、赤ちゃんの仕事、として苦にはならなかった。 そうやって長女を大事に抱きしめ、世界がこの子の為に、 優しい世界であるように祈ったものだ。 出来るだけ優しい言葉で話しかけ、言葉の分からない長女に、「 ママの大事さん、ママの宝ちゃん」と呼び掛けた。 むかし舞ちゃんが、そう呼びかけられていた事を思い出した。 そうするうち、ふと、 毎日のように母から浴びせられてきた暴言の数々が思い出された。 これらは決して「お母さん、怒り過ぎちゃった」 では済ませられる類のものではないと、初めて気付いたのだ。

私は長女に「ママはもうすぐ死んじゃって、 あんたは後悔するから」と教え、 悲しく不安な思いをさせるだろうか。 どんなに腹が立ったとしても「死ね!死ね!死ね!」 と怒鳴り続けるだろうか。長女が強姦の恐怖を味わうように、 いつか誰かにそれを頼むだろうか。これらの問いかけに対し、 私は真剣に考えてみる必要すら感じなかった。これらの暴言は、 単なる怒りではない、虐待なのだ。私は虐待されてきたのだ。 首がやっと座った長女を抱きしめながら、 溢れこぼれる涙をどうする事もできなかった。 抑えようと思っても、涙はどんどん溢れてくる。私はやっと、 自分の為に悲しいと思ったのだ。けれど、 私が悲しそうな顔をすれば、長女は自分も悲しそうな顔をする。 私は子供が悲しい思いを味わう事が耐えられない。

私は長女の顔を見て、ニッコリしてみせた。「可愛い。 宝ちゃんは、可愛いママの大事さんね。天使さんね。」

長女の柔らかい肌着は、洗濯とミルクの匂いが混じり、甘く、 優しい匂いだった。

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