舞ちゃん

中学生二年生だった冬に、隣の白い洋館に住む叔母夫婦に、待望の赤ちゃんが生まれた。結婚後8年目にしてようやく生まれた女の子の赤ちゃんで、叔母夫婦は、それこそ目に入れても痛くない程、可愛がった。赤ちゃんは舞ちゃん(仮名)と名付けられた。

舞ちゃんは、黒目がちの大きな目が可愛い女の子で、私たちはみんな舞ちゃんが大好きだった。叔母が舞ちゃんを宝物のように大事に、慎重にベビーバスで洗いながら、「可愛い舞ちゃん、大事な舞ちゃん」と楽しそうに愛情を込めて話しかける姿を見て、私は「親というのは、こういうものなのか」と知ってビックリした。

舞ちゃんは生後一か月検診の時に、「心音に雑音がある」という事で、専門の病院に入院する事になった。愛娘の状態を心配し、悲嘆にくれた舞ちゃんの父親である叔父について、「可哀そうに。あんまりにも泣いて、顔が別人のようになってしまった」と母が漏らしていた。舞ちゃんの入院する病院にお見舞いに行った事を覚えている。舞ちゃんは大きな目をくりくりさせ、叔母に抱かれながらガラス越しに笑っていた。

舞ちゃんはしばらくして退院した。叔母夫婦は「うちの子は、世界で一番可愛い」と公言し、「宝ちゃん」と呼んだり、「可愛いベイビー」話しかけたりした。叔母は、舞ちゃんには難にしても、センスの良い良質なものを与え、離乳食も時間をかけて手作りした。舞ちゃんが一歳になる頃には、殆ど毎日、叔母に連れられて朝10時くらいから私の家に遊びに来る事になった。お昼を食べ、時にはお昼寝をして帰って行くのだが、私は舞ちゃんのオシメを替えたり、お昼寝に付き合った。舞ちゃんは本当に可愛かった。おしゃまな女の子として、叔母の口調に真似て話を始めるのも可愛らしかった。舞ちゃんが二歳くらいになると、買い物にも連れて行った。私の家や叔母夫婦の家から買い物に行くには、長い坂を昇り降りなければならない。時折おんぶをせがむ舞ちゃんは、何としても守ってあげたい小さな存在だった。

小さかった舞ちゃんを巡るエピソードとして、母が香港へ行くために購入したばかりのスーツケースに舞ちゃんを入れ、暗証番号を設定した上でカギをかけた事があった。私はその場にいた筈なのに、その時の記憶がハッキリしない。舞ちゃんの母親である叔母も祖母(菊子)もその場にいたようで、誰も、母の悪ふざけと考えていた。もちろん母とて、舞ちゃんをずっと閉じ込めるつもりは無く、カギをかけた直後に開けようとしたらしいが、暗証番号が一致しない事に気付き、初めて慌てだした。舞ちゃんは「おばちゃーん、あけてー」と中から呼び、たまたま仕事帰りの叔父が姿を見せた事で、母は更に焦ったようだ。幸いなことに、母が暗証番号を何度目かの試みののち思い出し、舞ちゃんは無事に中から出てきた。

この時の事は、家族親戚の間で語り草をなっていたので、事実関係には間違いは無いようだ。母も舞ちゃんを可愛がっていたのだから、舞ちゃんには「怖い思いをさせて、ごめんね」と誤ったかもしれない。私は、舞ちゃんもそうだが、特に母にとっては義理の弟にあたる叔父について、直接強く言えない分、さぞ嫌な思いがしただろうと気の毒になった。

母と叔母の関係は、普通の姉妹関係よりも、ずっと一方的な上下関係でもあった。気が強かった母は、少しでも自分の非を認めたり、批判に一応の耳を傾ける事をしなかったし、言葉や態度も威圧的だった。叔母は、母といて楽しく時間を過ごせる事もあったと思うのだが、妹とは言え、既に別の家庭を築いている叔母を自分の子分のように扱う母に、時折辟易していたと思う。母と叔母の関係が気まずくなると、舞ちゃんは遊びに来られなかったし、私が叔母の家に行くことも禁じられた。そういう時は、母の気の強さが本当に恨まれた。

よくよく考えて見ると、母は色々な人と諍いを起こした。大抵、誰かが言った批判めいた言葉に母が過剰反応を示し、その人を家に呼びつけ、その人の考えがいかに誤ったものか、何時間も説教するというパターンがあった。そうしたパターンの被害者の中に、父方の祖父母もあった。

父方の祖父、昭彦(仮名)と祖母妙子は、どういう訳だか、母方の祖父母の敷地内にある小さな家に住んだ事があった。母方の祖母である菊子と、妙子が姉妹同士なので、アパート代の節約をする事が目的だったのかもしれない。私は昭彦と妙子の家に遊びに行き、たくさんあった妙子の本を読む時間が大好きだった。祖父は優しく穏やかであり、祖母も歴史の本を読む趣味を共有できる孫が嬉しかったようだ。ところがある夜、母が自分の義理の両親を呼びつけ、延々と説教した事がある。勿論、私に対するような怒り方では無いのだが、「ちょっと、そこに座って下さい」というような態度で、ビールを飲み、またタバコを吸いながら、義理の両親に向かって延々と話をしていた。昭彦はしばらく母の話を聞き、「よし、わかった」とキッパリ言い、すっと立ち上がった。そして「今まで世話になったね。有難う」と威儀を正して礼を言った。いつも着物姿であった妙子は昭彦を見上げ、自分もゆっくり立ち上がった。残念そうだったが、何を言っても仕方がないという諦めの表情を見せていた。私には何があったのかわからなかったが、気が付くと、祖父母は違う市に引っ越しをして行った後だった。私は、息抜きの空間を与えてくれた祖父母がいなくなって淋しくなったが、そう言っても何も変わらないので諦めた。

また母は、自分の母、菊子の妹であるアンツに電話をして誤解を解くよう、父に命じた事があった。アンツとは勿論ニックネームであり本名では無いのだが、米国に留学した後、米国の大学で教え、永住権を持ち、独身を保ちながら日米を行き来していた彼女を、親戚は英語の「Aunt(叔母)」から、そのままアンツと呼んでいた。母に言われるまま、当時日本に一時帰国していたアンツに電話した父は、しどろもどろながら、自分が決して妻の尻に敷かれている訳では無い事を説明した。途中、何か言い過ぎたのか、或いは言い足りなかったのか知らないが、傍で一部始終を指導していた母に小声で怒鳴られる事がしばしあった。言っている事とやっている事がまるで逆なのだが、母は真剣だった。きっとアンツは、母の気が強い事、父が言いなりになっている事を、それとなく漏らしたのだろう。アンツの言葉は母の心に突き刺さり、母はそれを以て自分の言動を顧みるとか、或いは違う意見として聞き流す事など全くできなかったようだ。アンツはしばらく父の言葉に耳を傾けた後、自分の発言には、何も深刻な意味が無かった事、二人とも幸せならばそれで構わない事を父に伝えた。涙を流しながら悔しがる母の姿を見て、母がアンツの言葉から逃れられず苦しんでいる事を理解できた。

舞ちゃんが二歳か、三歳くらいの時に、舞ちゃんに弟が出来た。叔母が出産のために入院している間、舞ちゃんは毎朝、叔父が出勤前に私の家に連れてきた。舞ちゃんは増々おしゃまで可愛い女の子になったのだが、叔母が入院していた期間は、舞ちゃんにとっても淋しい時だったのだろう。何故か突然聞き分けが悪くなったことがあった。それ以前も、眠くなったり、疲れていたりすると機嫌が悪くなる事があったが、この時は明らかに私への反発をし始めた。私は訳が分からなかったのだが、舞ちゃんに「ちゃーちゃん(舞ちゃんは私をこう呼んでいた)なんか、バカ。ちゃーちゃんなんか、キライ」と目に一杯の涙を溜めて言われた時、ふと、舞ちゃんはママに会えなくてたまらなく淋しいのかもしれない、と思った。

「舞ちゃん、ママがいなくて淋しいの?」と聞いてみた。舞ちゃんは怒った顔をしつつも小さく頷いた。(舞ちゃんは、大好きな母親とずっと一緒にいられなくて淋しいんだ。)普通であるなら簡単に理解できる事なのだが、当時の私には、すぐには思いつかない事だった。

舞ちゃんに「おいで、抱っこしてあげるから」と言うと、舞ちゃんは声をあげて泣きながら走ってきた。私は、大きな声をあげて泣いている舞ちゃんを抱きしめ、「ママはもうすぐおうちに帰ってくるからね」と言ってあげた。泣き続ける舞ちゃんを抱きしめ、舞ちゃんの背中をさすりながら、私は心から「いいなぁ」と思った。その時、改めて、従姉妹同士とは言え、私の生い立ちと、舞ちゃんのそれが違う事に気付いた。舞ちゃんはいつも「宝、大事」と呼ばれていたし、舞ちゃんも自分が愛されている事を知っていた。叔母だけではなく、叔父も舞ちゃんを溺愛していたし、舞ちゃんは叔父の事も大好きだった。舞ちゃんが両親に対して感じた絶対的な安心感や信頼感情は、私には知り得ないものだった。

叔母と舞ちゃんの弟が退院してしばらくすると、母と叔母の間に小さな衝突が繰り返されるようになった。叔母とすれば、四人家族となり、今まで以上に自分たちのペースや空間が必要となったのだろう。それは決して責められる事では無いのだが、何事でも自分の思い通りにならなければ気がすまない母にしてみれば、叔母の意見は自分の正しさへの身勝手な挑戦としか受け取れなかったようだ。

ある日、母と叔母の関係は、祖母、菊子の処遇を巡って決定的に悪化してしまった。当時、祖母は私たちと同居していた筈だが、祖母がこぼした何気ない愚痴が原因で、母の双子の姉である東京に住む伯母が母を批判した。その批判に逆上した母は、自分の母親を追い出し、祖母菊子は、隣にある叔母の家に住むこととなった。祖母として見れば、大したことの無い愚痴だったのだろうし、伯母としてみても、どういう事なのか事情を聴きたかっただけなのかもしれないが、母は自分への言われなき誹謗中傷と真剣に受け取り、祖母と伯母に対して許せない気持ちになったようだ。私たちの家を出るとき祖母はガッカリし、涙を浮かべていたように記憶している。それから少ししばらく、私が叔母の家に行くことは許されていたが、それとなく祖母の肩を持った叔母に母が怒り、二人の関係は絶交状態となった。

私は母に「もう舞の家には絶対に行っては行けません」と言い渡された。私には舞ちゃんに会えない事が悲しかった。時折舞ちゃんは、洋館のブラインド越しにこちらを見上げ、そっと手を振る事があった。母は舞ちゃんを遊びに来させない叔母を批判したが、原因を作ったのは母であった。

この頃、高校生となっていた私には、母の癇癪も、怒りも、怖いというよりも迷惑な存在となっていた。母が少しの批判めいた言葉さえ看過できない為に、どれくらいの関係が台無しになっただろう。私とすれば、父方の祖父母も、母方の祖母も遠のけられてしまった。妹のように可愛がっていた舞ちゃんとも会えなくなってしまった。

それだけでは無い。私は何度、突然爆発する母の癇癪の為に、息も出来ない程、胸が痛く、苦しくなっただろう。母は朝起きて、突然怒る事が多々あった。その前の夜には機嫌よく過ごしていても、である。厳しい目で睨まれ、「お前なんか死ね!」「ブス!」「大っ嫌い!」と怒鳴られ、罵られると、朝食など喉を通らない。しかし、食べ残せば、母はまた怒るのだ。少しでも嫌な顔をすれば、「生意気な態度を見せた」として顔や頭を叩かれるので、出来るだけ落ち着いて、丁寧に接しなければならないのだが、その為には、ある程度心を感じさせない努力を必要とした。現実逃避というか、実際に起きている現実について、実際には起きていないか、或いはまるで夢の出来事であるかのように否定する努力だ。私はそうした努力を身に着け、朝学校に行くまでの時間を過ごす事が多かった。     

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そうは言っても、私には、母がなぜ怒鳴っているのか、なぜそこまで私を憎むのか、どうしてもわからなかった。母には何度も「死ね!」と怒鳴られたが、どうしてだろう。舞ちゃんの母親である叔母が、舞ちゃんを叱る事はあっても、それでも「死ね!」「ブス!」「お前なんか、大っ嫌い!」と罵るだろうか。私は何か、特別に悪いのだろうか。あまりの惨めさに、実際に死ねたらどれほど楽になるだろうと考えた事もある。けれど私にはどんなに「もう生きているのはイヤだ」と思っても、死ぬための方法がなかった。ただ何となく、「もうすぐ私の人生は終わるから」と自分自身に約束し、生きる事からの解放を期待して待つしかなかった。打ちのめされた時の心は重く、痛い。息をするにも、酸素を吸う事が難しく感じられる。それでも、そうした中で目につく、玄関先に植えられた梅の木の赤い蕾が朝露を光らせ、何とも美しく感じられたりもする。青い空が高く、清々しく感じられたりもする。隣の洋館で歌を歌う、舞ちゃんの楽しそうな声もする。ただ、そうした美しさや優しさは全て、他の人の為であり、私の為では無いように思われた。

ある早春の朝、いつものように母にさんざん罵られたあと家を出て、今まで呼吸を忘れていた人が息を吸い込むかのように深呼吸をしながら坂を下ろうとすると、母が玄関から飛び出し、私の名前を呼んだ。私が母を見上げると、母は目に涙をいっぱい溜めて、「これ、あげるから」と言って、私に向けて一万円札を何枚か投げた。

恐らく母は、あまりにも怒鳴り、罵った事を後悔し、謝りたかったのだろう。ところが母には、謝るという事がいつの場合にも出来なかった。もし謝る事が出来たら、母自身もどんなに楽だっただろう。母は、謝るという選択肢を全く遮断してしまった為に、得られたはずの赦しさえ拒絶してしまっていた。

母が投げた何枚かの一万円札を拾いながら、私は「有難う」と言った。母を見上げて、私も泣けてきた。母があまりにも可哀想だったのだ。私は、悪い事をしていないのに、いつも謝らせられている気がした。勿論、悔しいし、時には悲しくなった。しかしながら、謝りたくても謝れない痛みもある事を、私は涙で一杯になった母の目を見て知った。もしかしたら、そうした痛みは、謝罪を強制される痛みと同じくらい、あるいはそれ以上苦しいものなのかもしれない。

母が突然の怒りをぶつける事はその後何度もあったのだが、母の人生のつらさを最もよく表す出来事として、この朝の事は、悲しく思い出される。

(6/12)