異論を超えて

朴裕河氏の『和解のために』を読んでいるが、さまざまな言い分に耳を傾ける朴氏の姿勢には、改めて感銘を受ける。ドキュメンタリー映画『主戦場』が、両サイドから主張を公平に聞くとしながら、実際には、右派の主張の根底には差別意識や政治的陰謀が原因としてあるかのように見せ、それを良識ある左派学者が論破していくといった勧善懲悪映画のような出来になっているのに対し、朴氏の書かれるものは、論争の背景や流れには様々な出来事やサイドがある事を紹介し、まずそれらにじっくりと耳を傾け、多々ある意見を交差させ、議論させている。『主戦場』も右派の主張に時間を割いているとは言うものの、要は極論の紹介であり、その後には左派の反論が、決定打であるかのように紹介され、意見の交換はなされていない。

勿論、朴氏も、ご自分の考えを持たれ、それらを述べられている。朴氏の意見の中には、なるほど共感できるものもある。しかしながら私は、朴氏のお考えに全て賛成している訳ではない。むしろ、国家や政府の役割、責任とは何かについての考えが、朴氏と私では基本的に異なっている為、多くの解釈や結論を異にしているのだ。とは言うものの、政府の役割や責任に対して、ともすれば朴氏の方が、一般的な日本人の考え方と近いのかもしれない。

私が正しいと信じるのは、特に米国保守派が主張する 「小さな政府」であり、政府の責任や介入を極力小さくし、代わりに「個人の自由(責任)」を強く主張する考えである。であるから、例えば米マクグロウヒル社の歴史教科書に、事実と異なる内容が史実として記述されているという日本人学者の言い分には同意しながらも、安倍首相や日本政府に歴史教科書問題への介入を求めた日本人保守の要求は、学問の自由という観点から鑑みて奇妙に聞こえた。政府介入に対する反発という点から言えば、米学者らの言い分こそ同意できた。また歴史家としての秦郁彦氏の 功績は世界的に高く評価されており、その他の歴史学者とは全くスケールが違うのだが、政権に近い「お抱え学者」であるかのように見られる事が災いし、学問は権力に対立こそすれ、それからは距離を置くべきと考える欧米人にとって却ってマイナスの印象を与えかねないとも危惧もする。学問だけではなく、国民生活の文化的、倫理的側面にまで政府の指導を期待する主張には違和感を覚えるし、時には反対の声も挙げる。
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私は政府の役割は、法を定め、司法の判断を行ない、それらに沿って政治を行なう際に、個人の自由を保証し、選択肢を広くする事にあると考えている。個人の自由や選択の権利を主張すると、まるで自分の権利を主張するばかりで自らの責任を認めない活動家のように聞こえるかもしれないが、実は個人の自由、権利には、必ず責任が付きまとう。政府の役割を小さくする代わり、個人の選択や自由、権利を大きくすれば、政府の責任は小さくなり、当然ながら国民の側の選択肢ともに責任が大きくなる。政府とは世俗社会における妥協や、最大限の自由を保証する傍ら最低限の不自由を強要する公的機関であり、決して正義感や倫理を押し付ける機関ではない。政府が国民に対して倫理や正義を強要すれば、政府機関による個人的選択への侵害は止める者なく横行するだろう。

そのように、徹底した個人的選択や自由への権利、またその結果に伴う責任を弁える社会に慣れてしまうと、良しかれ、悪しかれ、個人の選択による悲劇の責任を政府に求める主張には、反対に違和感を覚える。その為、朴氏も述べられている通りの、親によって売られたり、騙されて働かされた元慰安婦たちの経験した悲しみや怒りに同情しながらも、その責任は現在の日本政府に課せる類ではないと考えるのだ。朴氏は、女性が慰安婦として親に売られていった背景の一端に、当時の日本や朝鮮半島における個々の家庭に巣食っていた「家長制度」があると挙げられている。それにある程度同意できるとして、私には、家長制度の責任を日本国政府に問う事は不可能であると考える。

文化的弊害の責任はあくまでも個人にあり、決して政府に押し付けられるべきでない。もしこうした家長制度の弊害といった、父親という個人の選択や文化の責任が政府にあるならば、論理から言えば、個人の行動への決定権が政府になければおかしい。しかしながら、実際には、家長制度の下に、娘を売る等の決定は、政府が行なったのではない。政府の力は法的拘束力にあり、法による権力の行使を行なっていない限り、政府の責任を文化に問う事は出来ても、蔓延る文化の責任を政府に押し付ける事は不可能である。

このように考えると、朴氏と私の考え方の間の隔たりは大きい。朴氏の持つ、個々の悲劇にじっくりと耳を傾ける姿勢は尊敬に値するし、ある既存する歴史観に対し、別の見方を提供する歴史という学問への誠実さは稀有と言って良いだろう。しかしながら、考え方や結論に隔たりがあれば、和解が不可能であるとか、平和共存が出来ないとは考えない。むしろ、それぞれ別の考え方や思想、価値観を持ちながら、尊敬し合い、協力できるところは協力し合う関係が、民主主義国家同士の関係では無いだろうか。

私は、同じ一つの事実を見て、或いは同じ出来事を体験したとしても、人と人が同じ感想を持ち、同じ結論に至るとは考えていない。十人いれば、十通りの考え方があり、誰かが自分の考えを正しいと信じていても、それを他人に押し付ける事は出来ないのだ。もし他人が自ら別の考えに説得され、納得すれば、意見の共有はあり得るだろう。しかしながら、歴史や国益、政治などについては、それぞれの立場によって考えが違って当然なのだ。

それでは歴史観が共有出来ないと踏まえて、日韓はどのように協力し、関わり合うべきだろう。この問いは、実は多くの人々が、歴史問題のあれこれよりもずっと真剣に考えるべき問いなのだ。その際、考え方が違っていたとしても、それでも日韓の和解を探っている多くの方々は、朴氏も含め、やはり日韓の平和にとって貴重な存在なのだと思う。