日本政府によるグレンデール慰安婦像撤去裁判への意見書提出の問題

カリフォルニア州グレンデール市に設置された慰安婦像撤去を巡る裁判が、グレンデール近郊に住む日本人によって起こされたのは記憶に久しい。この裁判は現地の裁判所で一審、二審とも原告側の訴えが退けられているが、この判決を受け、原告側は先月、連邦最高裁判所に上告をした。

米国グレンデール市慰安婦像訴訟 日本国政府の意見書提出 | 外務省

 

こうした原告側の上告を受け、日本政府は、連邦最高裁判所に対し、「像の設置はアメリカ政府も支持する日韓合意の精神に反する」などとして、上告を認めて審理を行なうよう求める意見書を提出した。

 

また日本政府は、「像の設置は、国際社会で互いに非難や批判をすべきではないとした合意の精神にも反する」と意見書提出の正当性を訴えている。

 

外務省は「これまでもあらゆる場面で政府の立場や取り組みを説明しており、今回の意見書もその一環だ」と説明しているが、日本政府は、こうした行動が、米国をはじめ国際社会にどのように受け取られるかを、全く考慮していないのではないか。

 

まず、こうした日本政府の行動は、日本政府の立場や取り組みを説明しているものとは映らない。その動機が慰安婦像撤去に向けた意思表明であってもなくても、こうした意見書の提出は、日本政府による司法への介入、ひどい場合では外国権力による弾圧だと米国側に受け取られるだけだ。

 

三権分立の徹底している民主主義国家において、外国政府が第三者として司法に対して立場を示し、市民の起こした裁判の上告を求めるように要求をする事は、普通あり得ない。こうした行動が通常あり得ないことを認識してか、日本のメディアは『異例』という表現をするが、この『異例』は、米国にとっては呆れるばかりの『非常識』なのだ。

 

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                 米国連邦最高裁判所

地元に住む日本人の起こした裁判そのものについて、裁判を起こす権利が二審判決で認められた点を踏まえ、原告側の主張や目的に同意するかしないかは別として、彼らが裁判を起こす権利がある事は認める。しかし、国民の行動と政府の起こす行動では意味が全く違う。

 

一連の日本政府の介入が、何故米国では権力による不当な介入と受け取られるかを説明しよう。

 

欧米社会では、政府は国民の権利を剥奪し得る権力として見做されている。また実際、強権を振るい、自国民の権利や自由を取り上げ、弾圧する国々が世界にある事を踏まえれば、こうした見方も一概に誤っているとは言えない。特に保守派の間では出来るだけ国民の自由や権利、活動に介入しない「小さい政府」が望ましいとされ、リベラル派の間では保守派に比較して、やや「大きな政府」を主張するが、その目的は「国民の自由や権利を更に拡大する為にある」と考えられ、いずれにせよ国民の自由と権利に関しては介入しない国家が求められている。権利の侵害や自由を拘束される事を嫌う気質がある英米では特に、国民は国の介入を拒絶する。自由と引き換えに、自由の責任を自分で負う覚悟も持たなければならない社会なのだ。

 

対して日本は、政府が国民の必要を満たす国家である。しばし誤解されるが、実際の日本は『全体主義国家』ではなく、『Nanny State』と呼ばれる方が相応しいだろう。これは、乳母が幼児の必要をすべて満たすように、国家が国民の必要を満たすシステムを指す。勿論日本では、しばし『全体主義国家』の『専制君主』がするように、国が国民に対して威圧や暴力を使ったことは皆無と言って良く、古い時代からかなりの法治国家でもあった。しかし国民は危険を避ける傾向があり、自らの責任を負うこともしない。日本人の多くの投資や勤労が無駄になるのは、その為である。勤勉な努力に相応する個人の成功も僅少だが、比較的安定をした社会ではある。親が子供の責任を負うように、リスクは政府が負ってくれるし、外交から内政まで、他国では介入しないような国民の為の諸問題まで、政府が介入する事を期待されているのである。

 

であるから日本人の間では、「政府は何をしている」「外務省は何をしているのか」という声がしばしあがる。これは英米では殆ど上がらない声である。まさに「国があなたの為に何が出来るか」を問う国民気質ではないからだ。

 

こうした文化的違いを念頭に、連邦最高裁判所への意見書を提出した日本政府の『外交』を考える前に、この慰安婦像を巡る裁判と米国司法制度について、簡単に纏めてみる。

 

まずこの裁判の一審では、グレンデール市が連邦政府に代わって外交を行なう事は憲法違法であるという原告の訴えそのものが棄却され、上告も二度却下されている。同じ裁判を、再び繰り返し審理してはならないという『一事不再審理原則』によって、連邦最高裁判所がこれを取り上げるとすれば、控訴判の手続きに不備があった場合である。そして、これが慰安婦像を巡る裁判である事をわきに置いて落ち着いて考えれば、一度訴えが棄却され、更に二度上告が却下された裁判に、手続きの不備があったとして、連邦最高裁判所で取り上げられるとは、常識的に到底考えられない。

 

原告側は、連邦最高裁判所がこの訴えを取り上げるか否か、あるいは原告側の主張を認めるかどうかを「米国の裁判所がどれだけ公正に法律の規則に従って判断するかのモデルケースになる」としているが、もしそうであるならば尚更、「外国政府からの要請(圧力)によって、米国の司法が動いた」と見られる行動を日本政府が取った事は、決定的な誤りである。

 

日本という外国政府による口出しが、米国司法に影響を与えることは勿論絶対にない。もし司法が、外部からの圧力によって特別処置を取るとすれば、それは法治国家ではない。法治国家としての米国司法の威信にかけても、こうした「要請」や「意見書」は、無視されるだろう。

 

勿論こうした日本政府の行動に影響がない訳ではないが、メディアや反対派は日本政府による司法への介入を厳しく咎め、現在の日本に対する誤解を広める助けとなるだけだ。

 

意見書提出にせよ、在韓大使を召還にせよ、日本政府とすれば、韓国側民間人の行動に怒りを感じる日本国民への理解や対処のつもりかもしれない。しかしそれならば、2014年から2015年にかけて、産経新聞の加藤記者が韓国政府によって自宅軟禁処分を受けた際に、日本政府が大使召還を決断しなかった理由は何か。大使召還という厳しい外交措置を取りたかったとして、最もそれに相応しく、国際的に理解を得られた機会は、加藤記者の人権が韓国政府によって侵害された際だ。あの時大使召還をしていても、日本の主張を支持せず、韓国政府を糾弾しなかった民主主義国家は無かっただろう。

 

政府は、国民の感情よりも、国民の人権や権利や報道の自由を守るべきではないか。

 

自国民の人権や報道の権利が、外国政府によって何か月に渡って侵害されていた際に何もせず、外国の民間が設置したただの像の為に異例な強硬手段を取るところに、日本政府が気にかけているのは、国民の権利や自由ではなく感情であり、名誉といった実態の無いものである事が伝わる。

 

安倍政権が「ナショナリスト」による政権だという外国の味方が間違っているならば、なぜそういった誤解を受けるのか、自身の行動を振り返るべきだ。