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歴史問題と心の癒し

 
最近の事だが、ホロコースト否認者として有名な英国の歴史家、デイビッド・アーヴィングの起こした裁判を扱った『The Denial』という映画を鑑賞した。これはアーヴィングが、自分自身を「反ユダヤ主義であり、歴史の事実を歪曲している嘘つき」と呼んだアメリカの学者デボラ・リップスタッドを名誉棄損で訴えた裁判をもとに作られた映画だが、非常に興味深いやり取りが、デボラと彼女の弁護士との間で行なわれる。

Irving v Penguin Books Ltd - Wikipedia

 

ユダヤ人に対する民族浄化を目的としたホロコーストがまぎれもない歴史の事実である事を法廷で証明する為に、デボラはホロコースト生存者を証人として招こうと提案する。これは「生存者の意見を全く聞かずに、ホロコーストの有無が法廷で議論される事は耐えられない」とする生存者の願いを受けての事だが、これをデボラの弁護士は一蹴するのだ。
 
「生存者の証言は不正確なものだ。本来はドアが右側についていたものを、彼らはドアは左側についていたと証言する。否認者らは、こういった小さな矛盾をついて、生存者としての彼らの証言の信憑性を否定するのがパターンだ。彼らの通り抜けてきた苦難は想像を絶するが、彼らの苦難の記憶は否認者らの攻撃材料となるべきではない。法廷は彼らの魂の癒しの場ではないのだ。彼らの必要としているのはセラピー(カウンセリング)であって、法廷での争いではない。」
 
目撃者や被害者の記憶が不正確である事は、エリザベス・ロフタス博士も書かれている。

Creating False Memories

The fiction of memory: Elizabeth Loftus at TEDGlobal 2013 | TED Blog

 

「記憶というものは、多くの人々が考えるような、録画装置のように機能するものではない。何十年に渡る研究の結果が教えているのは、記憶は作られ、また再建されるのだ。それは、ウィキペディアのように、自分も他人も、行って変える事ができるのだ。」
 
韓国人元慰安婦たちの記憶の不正確さも、作られ、作り替えられる部分が多くあるからだろう。活動家らの期待に応えるかのように、元慰安婦たちがより過激な『体験談』を提供する場合もあるかもしれない。しかし記憶の塗り替えは、元慰安婦たちだけでなく、戦争の体験者やトラウマとなるような体験の生存者には頻繁に見られる傾向である。こうした生存者や被害者が訴えているのは自身の中の傷であり、悲惨な体験から来る痛みなのだ。
 

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そうした面を踏まえ、政治活動家や一部の学者らは、彼らの痛みに配慮した形で、彼らの証言の信憑性を疑うことなく「歴史の事実」として遺そうとする。こうした極端な「歴史の記憶」に対抗する為に、もう一方には、ホロコースト否認論者と同じように、小さな矛盾や記憶の不正確さをついて「すべてがでっち上げ」であり「悲惨なことは何も無かった」かのように反論を試みる政治活動家や一部学者が控えている。
 
しかしながら、生存者や被害者らの証言の矛盾をついて、彼らが意図的に嘘をついているかのように弁証する試みは、証言というものがどんなものだかを知る研究者らを説得する事が出来ないばかりか、大多数の人々を説得する事も出来ない。一般の人々からすれば、エスカレートする話の全てが信じられないにしても、何らかの悲惨な体験が被害者に起きた事は間違いないと思われ、やはり心情的に、実際に苦難を体験したと思われる側により同情の念を感じるたくなるのだろう。
 
ホロコースト生存者の証言が例え不正確にドアの位置を記憶していても、ホロコーストの有無そのものを争う議論に説得力が無いのと同様だからだ。
 
であるからこそ、歴史の真実を知る為には、政治的意図を持たない歴史家による、客観的な姿勢による研究が重要なのだ。歴史の真実への研究は、生存者による悲劇的な体験談よりも物的証拠を重視する。こうした研究は、『被害者』の証言を絶対視する事が無い代わりに、否定論者にとっても都合が悪い情報も容赦なく提供する。いずれの立場の心情の癒しの為にも学問は存在していないのだ。
 
プロパガンダに対抗する為には、被害者の心情に対して無慈悲と思えるほど客観的な姿勢を保ち、物的証拠によって事実関係を調査する歴史家の研究に頼るしかない。しかし同時に、こうした客観的研究は、プロパガンダに対抗する為に、真逆のプロパガンダを広めたい否認論の政治活動にとっても不都合である事を覚悟するべきだ。
 
私は「被害者」の"心の癒し"の為に、歴史研究が政治化される事には反対している。しかしながら、歴史研究が「否認論者」の"自分探しの旅"の為に政治化される事にも反対する。誠実な歴史家として欧米からは高く評価されている秦郁彦氏は、歴史論争の難しさに関して、「多くの人々が歴史問題を名誉の問題と混同している為、冷静な議論がなかなか出来ない」と嘆いておられた。秦氏の慰安婦問題への研究は高く評価されているが、同じ姿勢で研究をされた南京事件への研究に対する評価は、歴史問題を名誉問題として捉えるナショナリストの間では頗る低い。評価が低いだけではなく、秦氏の研究そのものが売国行為であるかのような怒りさえ口にする人々さえいる。それは秦氏の慰安婦に関する研究がナショナリストらの政治目的には都合が良いが、南京否定論者の政治目的にとっては都合が悪いからだろう。
 
しかしながら、歴史に『名誉』や『都合』は関係が無いのだ。「先人の名誉を守る為」「日本に着せられた汚名をはらす為」という姿勢では、都合の良い情報を選り好みした「ファンタジー史観」に浸るだけで、他者に対する説得力は皆無だ。冷静に考えれば、他者に対する説得力が皆無である限り、「日本の立場の弁護」が出来る可能性は当然皆無である。もし日本が、自分たちの極論の与えてきた影響を直視するような大人の国家であるならば、戦略の誤りには当然気付き、方向転換をしていただろう。しかし日本は、国家が国民の感情的必要を含め全ての責任を負う「Nanny State(ナニー国家)」と揶揄される通り、愚行の責任を政府に押し付け、個人が負うことはない国なのだ。
 
こうした幼稚な思い違いは、勿論日本人ナショナリストに限った事ではない。韓国人活動家にしても、本当に元慰安婦たちの「名誉回復」や「心の癒し」を求めるならば、80歳を過ぎた老婆を世界中引きずり回し、70年前の恨みや憎しみ、悲しみに浸る生活を強要するべきではないのだ。
 
高齢の元慰安婦たちの心の癒しを本当に求めるならば、日本軍に性サービスを行なっていた過去を恥としなくて良い社会環境を整えるべきだ。その際には、親日であった事が売国行為であるかのような反日社会は、改められる必要があるだろう。元慰安婦たち以上に和解のハードルを高くする韓国人活動家らは、自らの「慰安婦ビジネス」の為に問題を拗らせているという印象を与える。
 
また日本人ナショナリストらは、長い日本の歴史上の一時的政策や行動への批判を、自らの全人格への否定でもあるかのように受け取るべきではない。一時の政府の行動や政策に関する批判ならば、今日も普通に行なわれている筈だ。戦時中の日本政府の政策や軍事行動への批判する事は、村山元首相や鳩山元首相、また安倍現首相への批判が、日本の名誉を汚した事にはならないのと同様である。歴史の紐を解けば、一時の政策や行動に評価するべき点があるのと同時に、批判すべき点が見つかるのはどの国にとっても自然な事であり、日本もそれを免れない。
 
実質的な癒しや名誉回復が双方に起こらない理由は、実は双方のナショナリストらが歴史や政治問題を、自らのアイデンティティーの延長線上に見出している点に尽きるだろう。