プーチンを権力の座につけた未解決犯罪 ①

米国民主党のシステムへのハッキングや、ウィキリークスを利用しての情報流出、ドナルド・トランプ氏へのあからさまな支持から、プーチン大統領について更に学ぶ機会を得ました。その中で、プーチン大統領に関して得た一部知識を語る事は、私に与えられた道徳的責務のように感じられます。
 
以下は、ロシア専門家のジャーナリスト、デイビッド・サター氏がナショナル・レビュー誌に書かれた「The Unsolved Mystery Behind the Act of Terror That Brought Putin to Power---プーチンを権力につかせたテロ行為の裏のに解決のミステリー(原題)」の訳の一部です。記事全体が長いので、数回に分けて訳していこうと考えております。
 
当面、ヴラジミール・プーチンという人物やロシアの実状について調べ、調べたものを纏めるうちに、視野を広げていきたいと考えます。
 
『私は、ヴラジミール・プーチンは、自国民へのテロ行為の結果として権力を手に入れたと信じる。
 
第二次チェチェン戦争の原因となり、プーチンを大統領へと押し上げた、1999年に起きたモスクワ、ブイナクスク、ヴォルゴドンスクのアパートメント爆破テロは、実はロシア連邦セキュリティー・サーヴィス(FSB)の仕業であった事を示す膨大な証拠がある。それにもかかわらず、世界は無関心を決め込み、ドイツ連邦議会議事堂放火事件以来、最大級の政治挑発であるこの事件を把握しようともしていない。私はこの爆破テロに何が隠されているのか、1999年以来訴え続けてきた。世界一の数の核兵器を持つ男がテロ行為によって権力の座についたことを無視する事はそれだけで危険であり、道徳的義務すら感じていたからだ。
 
ロシアの人権活動家のセルゲイ・ユシェンコフ、ユーリ・シェコチーヒン、アンナ・ポリトコフスカヤ、又アレクサンドル・リトヴィネンコらも、このアパート爆破テロについて調査をしていた。しかしこの全員が、2003年から2006年の間に殺害されている。2007年に下院外交委員会でアパートメント爆破テロについて証言を行なった時、私は、生きている人間で、プーチン政権を公式の場で非難する唯一の存在となった。
 

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     自宅アパートのエレベーター内で射殺された、ジャーナリストで人権活動家のアンナ・ポリトコフスカヤ
 
高層アパートメント爆破テロは、ロシア中を恐怖に陥れた。ロシア当局はこの事件でチェチェン反乱分子を非難し、新たなチェチェンとの戦争への大衆からの熱狂的支持を取り付けた。ボリス・エリチン大統領(当時)とその側近は、ロシア中から搾取をして憎まれていたが、FSBの長であったプーチンは首相に任命され、無辜の市民を犠牲にした殺人者への報復を誓う事で一夜にして人気を得ている。彼は戦争の方向性を示し、開始当時の勝利によって、大統領として選出されたのだ。
 
しかしながら、この爆破テロには、エリチン大統領とその側近の運命を救い出すのに、これ以上の方法はないと計算されているような、不信な疑いが始めからあった。この疑いは、モスクワの南東にあるリャザン市の建物の地下で、5つ目の爆弾が、チェチェンのテロリストではなく、FSBのエージェントによって置かれた事が判明して、さらに深まったと言える。
これらFSBのエージェントが地元警察に逮捕されると、(プーチンの後を継いだ)FSBの長であるニコライ・パトルシェヴは、リャザンの建物地下に置かれていた爆弾は偽物であり、模擬訓練の為にリャザンに置かれたものだと発表した。この爆弾は、しかしながら、4つのアパート爆破テロで使われた爆薬であるヘキソーゲンに陽性反応を示していた。リャザンでの事件の調査はノヴァヤ・ガゼータ紙に掲載され、世論の不信感はFSBをして、その高官と建物の住人との間の会合をテレビ中継する事に合意をさせた。
 
FSBはこうする事で、公明正大を宣伝したかったようだが、この会合は災害的であったと言える。この会合は、リャザンの事件が一連の政治挑発の失敗のケースであった疑いを、却って濃くしただけだった。それでも、この会合がテレビ放映された3日後、プーチンは大統領として当選を果たし、リャザンの事件への関心も薄れ、これらの爆破事件はロシアにおける未解決犯罪のリストを更新しただけだった。プーチンが当選を果たした2000年の4月、私はリャザンを訪問してみた。爆弾がおかれたのヴォセロヴ通り14-16の住人は、心臓の病やうつ病に苦しみ、子供たちは夜眠りにつくのに恐怖を感じるようになっていた。
 
私が会った住人は、この事件が「模擬訓練」ではないと確信していた。「そんなこと、誰が考えられるでしょう?」不審行為を第一に通報し、FSBエージェント逮捕のキッカケを作ったヴラジミール・ヴァシリエヴは逆に聞いてきた。「そんな主張は、全く理にかなっていません。国全体がパニックに陥っている中、人々の警戒の様子をテストするなんて事があるでしょうか?」
 
ロシア議会による二度にわたるリャザン事件の真相究明に向けた調査の動きは、プーチン率いる統一党の堅固な反対により失敗した。2002年2月には、議会による3度目の調査の動きが失敗し、議員や人権活動家らが『公共委員会』を設立し、独自の回答を求める事にした。この委員会の委員長はセルゲイ・コヴァルイェフ議員で前ソヴィエト時代の反体制派、もう一人の議員セルゲイ・ユシェンコフが副委員長を務めた。この委員会は公式な類ではないものの、議員らが政府に対して質問が自由に出来るように定められた。』