イスラエルとパレスチナの確執...

イスラエルとパレスチナの確執についてさまざまな誤解がありますが、①宗教的な視点から見れば、イスラエルの土地はイスラエル人のものです。

 

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ユダヤ教の聖典にはイスラエル、或いは聖地であるエルサレムはイスラエル人の土地、聖都として669回言及され、シオン(エルサレムの別語)は154回言及されています。キリスト教の聖典である聖書は、エルサレムを154回、シオンを7回言及していますが、キリスト教の聖典もこれらをユダヤ人の土地として書いています。対してイスラム教の聖典であるコーランは、イスラエル、或いはエルサレムに対して一度も言及していません。それもその筈、イスラム教徒の聖地はサウジ・アラビアにあるメッカ、メディナだからです。ですから、イスラエル・エルサレムの地に後から侵略してきたイスラム教徒が寺院(アル・アクサ寺院)を建設しても、それが彼らの『宗教の聖地』とはなり得ません。

これは現在、イスラム教主義国が多数を占め、全てを「多数決」で決める国連の決議が何と言っても、変わらない事実です。

The Muslim Claim to Jerusalem :: Daniel Pipes

 

②、歴史的に見ますと、イスラエル(カナン)の土地は紀元全14~13世紀の間にユダヤ人の地となり、紀元前11世紀のダビデ王の時代に王朝が建てられます。その後王朝はユダヤ人の王家が2家誕生し、イスラエルは北イスラエルと南ユダに分裂します。

紀元前8世紀に北イスラエルの王朝がアッシリア帝国によって滅ぼされ、紀元前6世紀に南ユダがアッシリアを滅ぼしたバビロン帝国によって滅ぼされます。ユダヤ人の『ディアスポラ(追放、離散)』はこの時期に始まり、その後の歴史でも、支配帝国による迫害の度に、世界各地への離散が行なわれます。

Jewish diaspora - Wikipedia, the free encyclopedia

 

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バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ帝国によって紀元前538年にユダヤ人の神殿の再建設が許可され、ユダヤ人のイスラエル帰還が456年から始まります。その後ギリシャのアレクサンダー大王によってアッシリアが滅ぼされ、イスラエルの地は、ユダヤ人の国としながらもギリシャ帝国の一部となります。その後、ユダヤ人の王朝が建てられ、ギリシャ帝国がローマ帝国に滅ぼされて後、ユダヤ王国はローマ帝国の一部となり、ローマ皇帝を戴きつつ、ユダヤ人の王朝も続きます。この時代にキリスト教がユダヤ教の一派として誕生します。

ローマ帝国は4世紀まで続きますが、その間にキリスト教が東ローマ帝国(別名ビザンチン帝国)の国教となり、帝都の首都はコンスタンティノポールとなります。エルサレムは(ユダヤ人)キリスト教徒の聖都となり、ユダヤ教徒はエルサレムへの訪問は許されますが、在住は許されなくなりました。ローマ帝国はその後、東のビザンチン帝国と西ローマ帝国に分かれ、イスラエルはビザンチン帝国の一部となります。7世紀にサザン朝ペルシャがビザンチン帝国を侵略し、再びエルサレムへのユダヤ人(ユダヤ教徒)入植が許されますが、ビザンチンのヘラクレス帝王は、ペルシャ打倒の際にはユダヤ人がエルサレムを支配するなど、ユダヤ人の権利拡大を約束し、ユダヤ人の協力を得てペルシャを撃退しますが、約束は反故され、エジプト人キリスト教徒の一派であるコプト教徒がこの責任を感じ、断食する騒動が起きています。

7世紀(634年から636)年にアラブ人がこの地を占領し、8世紀にはアル・アクサ寺院が建設され、この何世紀の間はイスラム教がこの地の主要宗教となります。アラブ社会ではイスラム教が栄える以前から奴隷貿易が盛んに行なわれ、イスラム教誕生後も、奴隷貿易により、多くのアフリカ人やユダヤ教徒、キリスト教徒が売買されていきました。

 

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BBC - Religions - Islam: Slavery in Islam

 

11世紀に、イスラム教徒の支配下にあるエルサレムを奪還するために十字軍が起こりますが、やがてイスラム教徒の領主とキリスト教徒と騎士たちとの間のエルサレム奪還合戦となります。

 

十字軍に随行したごろつきや貧民などによってイスラム教徒とユダヤ教徒の虐殺などが行なわれた事は事実ですが、イスラム教徒の領主と騎士によって率いられた正規十字軍との間の戦闘は、「騎士道精神」に則ったもので、捕虜の交換や引き渡しも行なわれていました。第六回の十字軍などでは戦闘行為は行なわれず、交渉によってエルサレム奪還をしています。

第6回十字軍 - Wikipedia

 

1260年からこの地域はモンゴル対エジプトの戦線の地となりますが、その為人口は著しく減少します。1291年にはエジプトの奴隷出身の領主(マルムーク・スルタン)がモンゴルを制圧し、十字軍は終結します。

マルムーク・スルタンの支配は1517年まで続き、イスラエルはシリアの一部となり、ユダヤ人は「マクペラの洞窟」と呼ばれる、ユダヤ教にとっての第二の聖地での礼拝を禁止されます。十字軍の戦争は終結しましたが、同時にユダヤ人迫害がヨーロッパ各国で起こります。

シリアの一部となったイスラエルは、1516年から第一次世界大戦後の1920年まで、中東一帯から一部ヨーロッパを制圧したオスマン・トルコ大帝国の一部となります。

オスマントルコ帝国はその領土を広げ、東ヨーロッパの国々を支配し、西ヨーロッパの国々にも戦いを仕掛けますが、1683年に起きた『第二次ウィーン包囲』というキリスト教国連合への敗北で、国力を急激に衰退させ、領土の分割が行なわれ始めます。

 

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第二次ウィーン包囲 - Wikipedia

 

『シオニズム運動』と呼ばれるユダヤ人によるイスラエル帰還運動は、19世紀頃から主に東ヨーロッパの国々で起こります。当時、世界中のユダヤ人の半数はロシア帝国内に暮らしていましたが、迫害とナショナリズムの高まりを受け、何百万人のユダヤ人がこの期間にアメリカに移住します。

1870年に、イスラエルのヤッハに「イスラエルの希望」という第一番目の農業学校がフランス・ユダヤ協会によって設立されます。続いて1878年から、ロシアからのユダヤ人移民がイスラエルに移殖し、80年には「シオンの愛」というユダヤ人居住地区が作られます。その後も次々のユダヤ人の帰還が続き、1882年から1903年には、イスラエル地域の人口の大部分はイスラム教徒のベドウィンやアラブ系キリスト教徒であったにもかかわらず、ユダヤ人がエルサレムの人口のマジョリティーとなります。

1882年から1903年の間にはおよそ35,000人のユダヤ人の帰還があり、1904年から1914年までには約4万人のユダヤ人がイスラエルへ帰還します。それ以来、組織的なユダヤ人の帰還運動が起こります。

第一世界大戦が始まると、イギリス政府はユダヤ人の協力を得ることによって、アメリカ政府の大戦参加を求めます。1917年にはイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアー卿が、イギリス政府によるシオニズム運動支持表明である「バルフォアー宣言」を発表します。

第一次世界大戦の敗戦国となったオスマン・トルコ帝国の解体に伴い、英国、フランス、イタリア、日本など主要戦勝国と、敗戦国であるトルコ帝国の間にセーヴル条約が結ばれ、レバノンやシリアはフランスの保護領となり、イラク、パレスチナ地方はイギリスの保護領となります。アメリカはトルコ帝国の分割に議会の賛成が無く、この条約には参加をしていませんが、国際連盟はこれらの領土の解体を承認しています。因みに日本は、第一次世界大戦後、ドイツ帝国の領土であった南太平洋地域の領土を保護領とします。

South Pacific Mandate - Wikipedia, the free encyclopedia

 

オスマン帝国は、このセーヴル条約によって広大な範囲の領地を失いますが、条約を締結したオスマン政府(イスタンブール政府)に対し、それに反対するトルコ大国民議会(アンカラ政府)がこの条約に反対し、又条約締結後に更なる領土の拡大を図ったギリシャがトルコに対して戦争を起こし、対ギリシャ戦に勝利したトルコ大国民議会がソ連と単独に条約を結んだため、旧連合国は再度の交渉を行ない、『ローザンヌ条約』を結び、現在のトルコ領が確定します。

http://www.the-american-interest.com/2016/05/16/the-bullshistory-of-sykes-picot/

Treaty of Sèvres - Wikipedia, the free encyclopedia

 

革命後のロシアやポーランドで起こり始めていた10万人のユダヤ人虐殺を逃れるように、ユダヤ人帰還が続きますが、同時に、フランスによるシリア・アラブ王国への勝利を受け、アラブ人のナショナリズムが台頭し、1921年には暴動が発生します。

Franco-Syrian War - Wikipedia, the free encyclopedia

 

1924年から1929年の間には82,000人のユダヤ人がユダヤ人がポーランド、ハンガリーで行われている迫害を逃れ、また1924年に可決され、ユダヤ人受け入れを拒否したアメリカの移民法を受け、パレスチナに帰還します。1925年にはエルサレムにへブル大学が設立されますが、この頃から世界各地でユダヤ人迫害が多発します。
1928年にはユダヤ・ナショナル委員会が、パレスチナ・ユダヤコミュニティーの主要施設として誕生し、政府機関と同じ役割を果たすようになり、イギリスの同意を得て、税金徴収も行ない始めます。1929年には住民に対する公共サービスも行ない始め、その代表を選挙で選出し始めます。

1936年から1939年のアラブ人の反乱によって、イギリス政府は『ピール委員会』を設立し、ガリラヤと西海岸地区をユダヤ人地区とし、それ以外をアラブ人地区とする提案を行ないます。これをユダヤ人側代表のチェイム・ワイズマンは受け入れますが、アラブ人側が拒否した為、この案は廃案となります。

ワイズマンはピール委員会の前で参考人として語り、「ヨーロッパには600万人のユダヤ人がいますが、世界はユダヤ人の為に、二つに分割されています。一つの世界にユダヤ人は住むことが出来ず、もう一つの世界にはユダヤ人は移民する事も出来ません」と証言をしました。

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1929年から1938年の間に、25万人のユダヤ人がパレスチナに帰還します。ファシスト国家がポーランド、ハンガリー、ルーマニアや、ナチスによって作られたクロアチア、スロヴァキア、またドイツとオーストリアなど、ヨーロッパに誕生し、極端な反ユダヤ主義がはびこり、ユダヤ人から市民権が剥奪され、大規模なユダヤ人迫害が起こり、ユダヤ人の追放が始まります。1939年にはアラブ人とナチスの間を折り合いをつけようとしたチェンバレン首相によって1939白書が提案され、ユダヤ人、アラブ人のいずれからも反発を受けます。この白書はユダヤ人国家の建設に反対するものの、ユダヤ人移民に関してはアラブ人の合意を得た範囲で、「5年間に7万5千人の移民を受け入れる」という内容です。ヨーロッパ各国から追放されているユダヤ人たちは、この案がユダヤ人という民族の存在の危機となると反対しました。

White Paper of 1939 - Wikipedia, the free encyclopedia

 

1939年から1945年にかけて、ユダヤ人の民族浄化を目指す、ナチス・ドイツによる『ホロコースト』が起こります。600万人のユダヤ人が虐殺され、そのうちの4分の一は子供たちだと言われています。

 

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第二次世界大戦が始まり、ユダヤ人指導者はイギリス政府に対して協力し、戦うことを提案します。チャーチル首相はこれに賛成をしましたが、イギリス軍と政府はこれに反対し、イギリス軍兵士として戦うユダヤ人の数は、アラブ人の数と同等にしなければならないとします。ところがイギリスに協力して戦うアラブ人は殆ど無く、アラブ人指導者はナチスに参加しました。

ユダヤ人有志によるパルマック部隊が、枢軸国の北アフリカ地域侵攻に対して、イギリス政府からの武器供給拒否にも拘らず、応戦します。その犠牲と活躍に、イギリス政府はようやく1944年6月にユダヤ人部隊を編成し、対イタリア戦の参戦に合意します。

Palmach - Wikipedia, the free encyclopedia

 

ユダヤ人の移民は増え続け、戦争末期にはパレスチナの人口の33%を占めるようになります。第二次世界大戦終了後、イギリスは「ユダヤ人国家建設」を約束していた労働党が政権を獲得しますが、約束を反故して、「1939年白書」を再び提案します。ユダヤ人側はこれに反発し、対イギリス相手のゲリラ戦が起きますがイギリスによって制圧されます。イギリスはパレスチナ問題を国連総会に委任します。

国連のパレスチナ特別委員会は1947年にパレスチナを訪問し、ユダヤ人側代表と会談しますが、アラブ人側はこの会談をボイコットしました。国連パレスチナ特別委員会は、「アラブ人による独立国家を認める」、「ユダヤ人による独立国家を認める」、「エルサレムは国際管理人の管轄とする」という報告を纏め、1948年2月1日までのイギリスのユダヤ人入植補佐を命じましたが、イギリスも国連安全保障理事会も、石油の重大性やアラブ側の反発を恐れ、行動を起こしませんでした。

 

ユダヤ人側は委員会の報告を受け入れましたが、アラブ側はこれに反発し、パレスチナ各地で内乱が発生します。この時にアラブ人の富裕層は国外のアラブ社会へ移住し、内戦を以てアメリカは分割案支持を撤回しましたが、イギリスはアラブ側地域のヨルダン同化を提案します。アラブ人とユダヤ人の間の内戦に勝利し、次々と占領地区を拡張したユダヤ人側は、ハイファに陣取っていたイギリス軍を撤退させた1948年5月14日、独立による『イスラエル国家』の誕生を宣言します。

 

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独立宣言後、すぐにアメリカのトルーマン大統領とソヴィエトのジョセフ・スターリンは、イスラエル国家を承認しましたが、イスラエルと、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラクなどのアラブ評議会の間に戦争が勃発します。イギリスは国連安全保障をして、国際社会に対して中東地域への武器輸出を禁止する決議50を通過させます。ところがこれに反してチェコスロヴァキアはイスラエル側に武器の提供をした事が明らかになっています。

イスラエルには第二次世界大戦のユダヤ人退役軍人やホロコーストの生存者が加わり、緒戦に連戦し、ついに1949年、イスラエルとエジプト、レバノン、ヨルダン、シリアとの間に休戦が公式に署名され、グリーン・ラインという休戦ラインが引かれます。

Green Line (Israel) - Wikipedia, the free encyclopedia

 

1949年5月11日、イスラエルは国連の加盟国として、国際社会の承認を受け、1979年3月26日にはエジプトはイスラエルを国家として承認し、平和条約を締結します。また1994年10月26日、ヨルダンがイスラエル国を承認し、平和条約を締結します。

Egypt–Israel Peace Treaty - Wikipedia, the free encyclopedia

 

1993年8月20日には、イスラエルとパレスチナPLOの間に『オスロ合意』が結ばれ、イスラエルとパレスチナ間の自治、領土、テロ問題の解決に向けた合意が結ばれます。 

Oslo I Accord - Wikipedia, the free encyclopedia

 

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オスロ合意は、イスラエルとパレスチナとの間の諸問題の解決に向けた合意ですが、イスラエルとの和平交渉に不満を持ったイスラム教過激派の『ハマス』がパレスチナ政府の議席を勝ち取ります。もともと「ハマス」はイスラエルに対して敵対していなかったムスリム兄弟団から枝分かれしたイスラム教原理主義の分派ですが、PLOに敵対し、PLOがイスラエルとの和平策を探った事をきっかけに反乱を起こし、イスラエル軍兵士やイスラエル市民に対して、ロケット攻撃や自爆テロなどを繰り返し、今に至るようになります。

 

オスロ合意は、領土や自治問題の解決の前提として、お互いに対する敵対行為、テロ行為を禁じ、イスラエル、パレスチナPLOをそれぞれの政府を代表するものと承認する合意ですが、2006年のパレスチナ議会の選挙で、PLOのファタワ党に代わってハマスがパレスチナ政府の議席を多数勝ち取り、政権政党となります。中東カルテットと呼ばれる、アメリカ、ロシア、国連とEUは、新しくパレスチナ政府の代表となったハマスに対して、将来にわたるパレスチナへの援助の条件として、A)暴力テロの否定、B) イスラエル国の承認、C)今までイスラエルとの間に交わされた合意の遵守を要求しますが、ハマスはこれらすべてを拒否し、ユダヤ人排除のイスラム主義国建設を主張しています。

Gaza–Israel conflict - Wikipedia, the free encyclopedia

Hamas - Wikipedia, the free encyclopedia

 

ハマスなどのイスラム教過激派の起こすテロに対して、イスラエルは近代的な軍事力でもって応戦する場合があり、時として多くのパレスチナ人市民が巻き込まれます。これを報道するメディアの報道を以て、イスラエルが一般のパレスチナ人を殺害しているような錯覚を起こす場合がありますが、ハマスが意図的に子供たちを含む市民の多い場所から攻撃をし、市民を「人間の盾」として用い、犠牲を増やすことで、国際社会に対して、反イスラエルの気運を起こそうとしている事を元CIA長官が証言しています。

 

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WATCH: Former CIA Director Explains How Hamas is Responsible for Palestinian Deaths | United with Israel

 

最後に、③政治的な視点からイスラエルとパレスチナの確執を考えますが、そもそもパレスチナ人という人種は、1967年、ソビエトによって人工的に作られるまで歴史に存在したことがありません。

Palestine–Russia relations - Wikipedia, the free encyclopedia


この点は、PLO(パレスチナ解放機構のザヒール・ムーセンや元PLOテロリストでキリスト教徒に改宗したワリッド・ショーバット、イスラエルのゴルダ・メイヤー故首相らも認めています。現在パレスチナ人と呼ばれる人々は、人種的にはエジプト人、ヨルダン人、シリア人、アラブ人、レバノン人です。

1967年6月4日、彼らは反イスラエル(シオニズム)、反英、反米の組織である『パレスチナ解放機構』の創設時に、新たに『パレスチナ人』として呼ばれる事になりました。彼らの殆どは宗教的にはイスラム教に属していますが、PLOは創設時以来、共産主義との強い繋がりがあります。冷戦時には、イスラエルを支持する欧米と、パレスチナを支持するソヴィエト共産党の確執が、イスラエル、パレスチナ関係においても表れました。

1948年に再建国されたイスラエルですが、イスラエルは中東における唯一の近代民主主義による、法治国家です。イスラエルにおいては、ユダヤ人、アラブ人の間に差別はありません。イスラエル軍の中にもアラブ系イスラエルの将軍は何人も存在し、アラブ系ジャーナリスト、アラブ系政治家が多く活躍しています。アラブ人はイスラエルの人口の20%を占めますが、アラブ人だけでなく、イスラエルにおける少数民族の人権は保護されています。

また、報道、言論、宗教、学問、思想の自由がそれぞれに保証され、女性の人権も男性と同等に与えられています。同性愛者であっても差別される事はありません。

http:// https://www.youtube.com/watch?v=2tYdL-jiBQE

対してハマスが政権政党となったパレスチナ政府は、どのような姿勢を掲げているでしょう。彼らはイスラム教以外の宗教の自由を認めず、女性の人権を認めず、少数民族の人権も認めていません。彼らは子供たちに対して、家庭では「イスラエル人を刺し殺せ」と教育し、学校では「イスラエル人の刺し殺し方」という図式入りのパンフレットを配布して、子供に殺人方法を教えています。

                  

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Stabbing for kids : Palestinian girl gives demo - YouTube

http:// http://www.nydailynews.com/news/world/stab-jew-taught-palestinian-children-article-1.2401446

イスラエル人を襲うテロを奨励し、テロを実行した者に対しては、パレスチナ政府からの給与が与えられます。

http://www.palwatch.org/main.aspx?fi=1005

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今までご紹介した政治的、宗教的、歴史的な視点から鑑みて、イスラエル人(ユダヤ人)にイスラエル居住の権利があると考えるならば、非難されるべきはハマスであり、ハマスの牛耳る現在のパレスチナ政府です。