昭和天皇と靖国神社 ---『A級戦犯合祀』

「私たちはこれを政治問題化したくないんです」

 
靖国神社権宮司にお会いし、お話をお伺いした時に、そうおっしゃった事を覚えています。国を守る為に戦地に赴かれて亡くなられたこと、『英霊』の方々にもご家族がいらっしゃったこと、人としての人生があった事、それらをいつまでも覚えていたいと願い、お祀りする気持ちに、国境はないと思われます。
 
ところがそれにもかかわらず、靖国参拝が政治問題化している理由の一つに、『A級戦犯合祀』の問題があります。
 
A級戦犯合祀に関しては、昭和天皇の発言とされる『富田メモ』が話題になりました。このメモを日経新聞がスクープ報道したのは、2006年7月20日です。メモの記録者である富田朝彦元宮内庁長官の未亡人が宮内庁在任中の日記とメモを旧知の井上亮記者を通じ日経新聞に託したのが2006年4月で、社内チームが読解に当たり、半藤一利氏と秦郁彦氏の検証を経て公開されました。徳川元侍従長の回想録などの既存情報と符合し、全体として、昭和天皇の肉声を伝える第一級の歴史的記録として判定されています。
 
このメモの中で、反響を呼んだのは、1988年4月28日に昭和天皇がA級戦犯合祀について語った以下の部分です。
 
私は 或る時に、A級が合祀されその上松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない、それが私の心だ
 
 
このご発言を、A級合祀に踏み切った松平永芳宮司の『歴史観』と、昭和天皇の『歴史観』に焦点を充てて考えたいと思います。
 

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旧皇族、山階宮家に生まれ、筑波侯爵家を起こした筑波藤麿宮司の死に伴い、旧福井藩家臣筋で、明治神宮総代であった石田和外氏と、日本遺族会事務局長後継者、またABC級戦犯の遺族で構成される白菊会のメンバーである板垣正氏の推薦で、幕末の福井藩、最後の藩主松平春嶽の孫で、最後の宮内大臣であった松平慶民の長男にあたる松平永芳氏が後継となり、靖国神社宮司となります。
 
A級戦犯合祀に踏み切った松平永芳宮司は、少年時代の一年間を旧家臣筋であった平泉澄の家で過ごし、それ以来平泉を師と仰ぐようになります。同じ平泉の門下生には、徹底抗戦を叫ぶ陸軍の堅将校グループが、クーデター(未遂)と近衛師団で一時皇居を占拠する「宮城事件」を引き起こした畑中健二少佐、竹下正彦陸軍中佐、井田正孝陸軍中佐などが見られます。
 
松平氏のさまざまな発言の記録を見れば、「『勝手な時代迎合論を振り撒いて過去の戦争を批判している同胞』は反省せよ」、「国籍不明の日本人が氾濫」、「皇太子殿下(当時)のご自覚を促す」、「もはや国は破滅の一途を辿るのみでありましょう」、「ご祭神を被害者と加害者に分けて批判するが如きは……神を冒涜するも甚だしき事柄」、「(宮中側近)上下を通じ(天皇に)直言する無私純忠の士が殆ど見当たらず……心痛」、「側近要路の方々に対し、如何に思われようとも意に会する事なく、進言して憚らないのは両親の施した生涯教育」等、宮内大臣であった実父に代わって天皇、皇室の正しい在り方を説きつける責務があると信じていた事が伺われます。
 
 
松平宮司にとっては、戦後変わりゆく日本の精神構造を、また戦後体制を憂い、日本を再建する為には、東京裁判史観の否定が必要であり、そのためのA級戦犯の合祀だったことを本人が繰り返し述べ、強調しています。松平宮司が最も気に入らなかったのは、その東京裁判を「肯定」する昭和天皇の歴史観だったようです。
 
松平宮司は、合祀の判断が正しかったとする信念を生涯堅持し続けました。1985年の講演会では、「生涯のうちで意義のある事をしたと私が自負する事が出来るのは、A級を合祀したこと」と発言し、「私は就任前から、『すべて日本が悪い』という『東京裁判史観』を否定しない限り、日本の精神復興は出来ないと考えておりました。それで就任早々書類や総代会議事録を調べますと、その数年前に、総代さんのほうから『最終的にA級はどうするんだ』という質問があって、合祀は既定のこと、ただその時期が宮司預かりとなっていなんですね。(中略)それならと、千数百柱をお祀りした中に、思い切って十四柱をお入れしたわけです」とも語っています。
 
ところが、サンフランシスコ講和条約によって東京裁判の判決を受け入れ、西側陣営の一翼として国際社会への復帰を果たした日本政府にとって、東京裁判を否定する事は無理な注文と言えました。
 
特に在日米軍基地の存続は、米軍撤退に伴い日本の国軍による自衛を促したマッカーサー元帥を飛び越える形で昭和天皇が直接米国務長官に交渉し、日本が米国の保護のもと、同盟国となる道を整えられて在ります。それ以降、同盟国として米国に保護されつつある日本が、一旦締結した条約の謳う東京裁判を改めて否定する事は、道義的に正しい事ではないという判断があったようです。
 
「戦争裁判の永久平和の理想追及の大きな流れを軽視し、今後の裁判の直接の反響のみを見てはならない。真剣真面目に深く自ら反省する処がなくてはならない」という昭和天皇の述懐も記録されています。
 
アメリカの占領下で新憲法の制定を裁可し、平和主義と民主主義を積極的に受容する方向での国家再建を目指されていた昭和天皇の意向は、松平宮司にも伝えられていたことが複数の侍従らの日記にも記録されています。
 
昭和天皇は、A級戦犯が合祀された後の靖国神社へは親拝されませんでした。当時の侍従次長だった徳川義寛参与によると、昭和五十三年秋にひそかに合祀される前、神社側から打診があり、「そんなことをしたら陛下は行かれなくなる」と伝えられたようです。 また、共同通信の記者は、晩年の松平宮司から「合祀は(天皇の)意向はわかっていたが、さからってやった」と聞いています。
 
 
以下、秦郁彦氏『靖国神社の祭神たち P.208~209) 』
 
---『もうひとつの新資料は、昭和天皇の作歌を指導していた歌人岡野弘彦が、06年末に刊行した『昭和天皇御製 四季の歌』の記述である。それによると、徳川侍従長が86年秋、持参した御製三、四十首のなかに、
 
 この年のこの日にもまた靖国の
  みやしろのことにうれひはふかし(1986年8月15日)
 
という歌があり「何をどう憂いていられるのか」と尋ねると、徳川は次のように答えたという。
 
ことはA級戦犯の合祀に関する事なのです。天皇はA級戦犯が処刑された日、深く謹慎して悼みの心を表していられました。ただ、後年、その人たちの魂を靖国神社へ合祀せよという意見が起こってきた時、お上はそのことに反対の考えを持っていられました。
 
その理由は二つあって……戦死した人々のみ魂を鎮め祭る社であるのに、その性格が変わると、もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとお考えなのです……お上のお気持ちは、旧皇族のご出身の筑波宮司はよくご承知で、ずっと合祀を抑えてこられたのですが......松平宮司となるとすぐ、お上のお耳に入れることもなく合祀を決行してしまいました。それからお上は、靖国神社へ参拝なさることも無くなりました。』 ---
 

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私見ながら、国の為に戦われ、命を捨てられた「兵士」の霊を「優れ、秀でた霊」として祀る意図があり、そのための靖国神社であると考えておりましたが、確かに兵士ではなく三国同盟を結んだ松岡洋介元外務大臣までもが祀られている事には政治的意図があり、靖国神社の性格が変わる、というのはその通りでしょう。
 
しかも、松平宮司ご本人が「東京裁判を否定する為にA級合祀を決行した」事を考えれば、「政治問題化したくはない」と言っても、政治目的を持った合祀であったことが理解できます。
 
 
日本を未曽有の敗北へと導いた一連の流れを知りつくされた昭和天皇が、「A級戦犯が処刑された日、深く謹慎して悼みの心を」表されれながらも、決してかつての日本社会、政治、精神構造を再興されようとは考えていられなかったことに、静かに想いを馳せるべきかもしれません。