昭和天皇と第二次世界大戦 (5)国民の意識

第二次世界大戦末期の米国の世論は、昭和天皇に対して険悪であり、「世論の国」である米国としては、昭和天皇の戦争責任に対してどのような対処をとるか、苦慮していたようです。

 
ギャラップ社が1945年6月に米政府の依頼で行った非公開の調査結果によれば、「戦争のあと天皇をどう処罰するべきか」という詰問に対し、
 
①、殺せ。拷問し餓死させよ 36%
②、処罰また流刑にせよ 24%
③、裁判にかけ有罪なら処罰せよ 10%
④、戦争犯罪人として裁け 7%
⑤、傀儡として利用せよ 3%
⑥、何もするな 4%
⑦、その他、不明 16%
 
と、実に米国民の77%が、天皇の処罰を要求していたとあります。(秦郁彦著『昭和天皇五つの決断』P.189~190)戦時中の異常な心理であった事を考慮に入れても、目を見張る数字です。
 
終戦を願った昭和天皇の「ご聖断」を受け、日本政府は「国体維持」だけを条件にポツダム宣言を受け入れる方針を決め、中立国であったスイスを通してアメリカ政府に回答をしました。
 
トルーマン大統領は直ちに緊急会議を開き、日本の付した「留保条件」が、ポツダム宣言の『無条件降伏要求』に合致するか否かにおいて関係閣僚の意見を開きます。議論の末、バーンズ国務長官の「日本国の最終的な形態は…日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」という回答が、日本政府に送られました。
 
バーンス国務長官は、「誰が天皇になっても、天皇制さえ残ればいいんだろう」と囁いたとされ、裕仁天皇はどう裁いても良いと考えていたと思われます。
 
米国からの回答を受けた日本側は「国民の自由意思」が何を意味するのか、この解釈をもって意見が対立します。徹底抗戦を唱えていた阿南陸軍大臣は、「敗戦となれば、世論は勝者の意のままに操作されるので当てにならない」と主張し、東郷外務大臣は、「国体がどうあるかに関し、外国からの保障を求めるようなことは本末転倒である」と述べ、8月14日、御前会議が開かれ、再度の聖断によって『無条件受諾』が決まりました。
 
昭和天皇は12日に、木戸内務大臣に対して、「国民の気持ちが皇室から離れてしまっているのなら、たとえ米国から認められても、何にもならないではないか。国民の自由意思でハッキリ決めてもらえばいい」と語り、14日の御前会議では、「自分はいかになろうとも国民の生命を助けたい」とも発言しています。つまり、「戦犯として断罪されても、天皇制はなくなってもかまわないから、戦争はやめたい」という決意だったようです。
 
ところがこれが気に入らない陸軍の一部中堅将校は、「現天皇が天皇制(国体)はどうなっても良いと決める資格はない(竹下中佐)」『天皇らしくない天皇は天皇の名に値しない(畑中少佐)」と批判し、徹底抗戦を呼号して反乱を引き起こします。
 
また、八月末の連合軍進駐に前後して、戦争指導者たちの自決が相次ぎました。阿南惟幾陸軍大臣、本庄大将、田中静壱大将、杉山元元帥、また東条英樹元首相(未遂)と続き、近衛文麿元首相も、逮捕前夜に服毒自殺をします。
 
いずれも、「戦争責任を痛感し、生きて虜囚の辱めを受けるに忍びない」と遺書に書かれていますが、臣下の戦犯予定者が減れば、その分だけ天皇が危なくなることには、考えが及ばなかったようです。
 
進駐軍のマッカーサー元帥は、宣戦布告なしの真珠湾奇襲を実行した責任者たちをB級で軍事裁判にかけたいと主張しますが、アメリカ本国から「平和に対する罪」で裁く国際裁判であることを知らされます。日本側も最初は、戦場の残虐行為や捕虜虐待の処罰で済むと考えていたようですが、一種の国家裁判らしいと分かり、「それならば日本側で自主裁判をやろう」という案も出ましたが、これは天皇の強い反対で取りやめになります。
 
昭和天皇は、木戸幸一内務大臣に、「戦争責任者を連合国に引き渡すことは真に苦痛にして忍び難いところだが、自分が一人引き受けて退位デモして納めるわけにはいかないだろうか」と相談しますが、木戸内務大臣に「連合国はなかなかそのくらいのことに手は承知しないでしょう。ご退位を仰れば、共和制などの論を呼び起こす恐れがあります」と答えます。
 
米国議会でも天皇戦犯の決議が提案され、これは否決されますが、全米弁護士協会も、同様の要望書を各方面に配布していました。裕仁天皇だけでなく、軍国主義の源泉と見做された天皇制自体の廃止も叫ばれていましたが、これは、ニューヨーク・タイムズが「バーンズ会頭は天皇制を何ら保証していないが、あとから嘘をついたと言われないように、気をつける必要がある」と論じました。「天皇制について、日本国民の意思に任せる」と回答した手前、米国が決めるわけにはいかなかったようです。
 
天皇制を廃止できないとすれば、せめて裕仁天皇だけでも処罰しようとする意見が強まりましたが、まず、これを変えたのが、あまたの日本国民の間の『意識』であったようです。
 
1945年末から翌年にかけて実施された日本国民の間の世論調査では、「天皇制支持率」は、91%~95%の絶対多数を占めていました。
 
また、同時期には、マッカーサー元帥に宛てておよそ千通の手紙、ハガキが殺到します。差出人は全国津々浦々の無名の庶民階層だったようです。この手紙、ハガキは現在もワシントンDCの国立文書館のファイルに保管されています。
 
『敗戦直後の混乱期で、その日の糧もおぼつかない苦難の時期だったにもかかわらず、彼らの多くが住所、氏名を明記し、飾り気のない表現で、新しい主権者であるマッカーサー司令官殿に向かって、切々と語りかけているのだ。大多数が、天皇を戦犯にしないでほしいという陳情なのであるが、その中からいくつかの代表例をかかげてみよう。
 

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「天皇を裁判してはいけません」(山形県、長谷部ハル子)
「天皇の裁判はお許し下さいますよう御願い申しあげます。」(大分県、深田スエ子)
「天皇陛下の戦争犯罪を特別の御情を持ち御許し下さるよう伏して懇願奉り候」(大分県、小野太郎)
「天皇制の問題がやかましいですが、天皇制を廃止せねば民主主義にならないと言うのは間違って居ります……天皇と人民の間にあった特権階級の者共が人民を押さえ、横暴を振るっていたのです。」(広島県、山本利秋)
「日本天皇陛下は此の度の戦争犯罪人では絶対ない……真犯人は、(A)重臣関係、(B)大臣関係、(C)、軍閥関係、(D)、財閥関係、(E)、その他愛国の美名に隠れて民族を奴隷状態に置かしめたる官僚共……」(長野県、土屋ハゲシ)…… 』(同書P.183~184)
 
 
これら、日本国民の意識を受け、1946年1月4日、国務省からマッカーサーへの顧問として派遣されたアチソンは、
 
「日本を真に民主化する為には天皇制は廃止せねばならぬ、という私の意見は変わっていない」と前置きをしながらも、民衆が圧倒的に天皇を支持しているのは、「彼らに平和をもたらした人だという感謝の念」があるからで、その天皇を裁判にかけるようなことになれば、「いかなる政府も存立できないだろう」と大統領あてに勧告をし、マッカーサー元帥は、1月25日、「天皇を戦犯に指名するだけの証拠は見つからなかった」と述べ、そういう事態になれば「計り知れないほどの同様と混乱を確実に招き、日本は分解するだろう……永久とは言わないまでも、数世紀にわたって完結することのない相互復讐の連鎖反応が始まり、全ての民主化への望みは消滅し、日本は共産化するだろう」と打電しています。 (同書P.198)
 
 
クーデターや、反乱、暗殺、侵攻、戦争という昭和の動乱期を生きた当時の日本人にとって、一部強硬派の唱えていた「徹底抗戦」や「一億層玉砕」の破局から、天皇が救い出してくれたという実感は、現在の私たちが考えるより強かったようです。