アメリカから見た第二次世界大戦 (2)

「アメリカが中国やアジアにおける列強の利権を守る為に、日本に対して戦争を仕掛けた」という説がありますが、実はアメリカは、ヨーロッパ列強の植民地支配や帝国主義を支援していた事はありません。

 

例えば、戦後オランダがインドネシアを去ったのは、アメリカからの強い「支援拒否」があったからです。

 

f:id:HKennedy:20160505180015j:plain

 

大戦中オランダは、ドイツに占領されている状態で、アメリカの援軍が無ければ、自国の開放も、植民地の再興も不可能でした。イギリスも同様にアメリカの援軍無しでは自国の防衛が出来ませんでした。

戦後のヨーロッパ列強による植民地の再興は、アメリカの協力拒否の為に不可能に終わりました。この実際的な「非協力」によって、日本にせよ、ヨーロッパにせよ、アジアから追い出した、或いは「解放した」と言えます。

アメリカが望んでいたことは、アジアの「自由貿易」体制の確保であり、アジアの植民地化による「排他的貿易」には強く反対していたという方が近いでしょう。

 

それに到るまでの背景を述べたいと思います。

 

1911年の辛亥革命後の中国に対してアメリカはそれまでの意見を大きく変え、中国が民主主義国家となると期待していました。対して日本を侵略的な国家と見る傾向が強まっています。また、満州事変を起こし、万里の長城を超えて宣戦を拡張していった日本軍の行動が、このアメリカの考えにお墨付きを与えていたようです。

 

日英同盟が失効したのは1923年ですが、この条約が失効した理由は、第一に日英両国内の国民にあった条約更新反対論、第二に日本海軍の戦力を危惧するアメリカ、オーストラリアの思惑、また日本政府の対米協調路線がありました。代わって日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四か国条約が結ばれ、日英同盟は拡大解消します。

アメリカが日英同盟に警戒した理由は、日本海軍の戦力の拡大とともに、日本が中国を排他的貿易地域と変えるのではないかと危惧した為です。この為に日英二国間に基礎を置く「排他的安全保障体制」から「多国間安全保障体制」に替えられ、各国が太平洋方面に持つ属地や領土、権益の相互尊重、及びそれに起因する国際問題の平和的処理の仕方が定められました。

日英同盟の継続がされなかったことを以て、同盟国が無い状態となりましたが、もともとアメリカは日英同盟のに於いて対米戦は参戦条項の適用外であったので、対米戦で参戦を義務付けられた同盟国はもともと存在しませんでした。

 

戦争がはじまる前の1920年代は、欧米は新たな植民地獲得に対する考えを変え始めていた時期でした。それまでは植民地を得ることを肯定的に捉えていたのに対し、1920年代に入り否定的に考えるようになりました。20世紀の初め、イギリスは日本の韓国併合や台湾の植民地化を支持しましたが、アメリカは強い反対はしないものの、公的にはいつも反植民地獲得の立場をとっていました。

 

また欧米にとって、日本の野心は欧米の権限を脅かすものと見られ、何よりも日本がナチス・ドイツと共に帝国を築き上げることに脅威を感じるようになりました。日本がドイツ、イタリアと三国同盟を築くのは1940年のことですが、36年には日独防共協定が結ばれています。1938年にナチス・ドイツがイギリス、フランスなどと結んだミュンヘン合意はナチスの領土拡張、及び戦争のキッカケとなり、この頃からナチス・ドイツの脅威が浸透し始めます。ナチス・ドイツは、極東のイギリス植民地、及びイギリス連邦諸国からイギリスへの人的、物的支援を絶つことによって、イギリスとの戦争を有利に進めようとしていた為、日本は米英との開戦一年前には、すでにイギリスの安全保障に対する脅威となっていました。

 

なお、アメリカの退役軍人ボランティアを集めた「フライング・タイガース」によるビルマでの対日本空軍への参戦をもって、「アメリカと日本は真珠湾攻撃の以前に戦争状態にあった」という意見もありますが、ボランティアによる参戦は、現在もさまざまな国からさまざまな国際紛争や戦争に於いて見られる通りであって、これによりアメリカという国家が日本と戦争状態にあったとは定義出来ず、アメリカという国家の中立は違反されていません。

戦争前、アメリカの世論は中国に同情的であり、日本の侵略のための犠牲者だと見られていたことは事実です。また中国はアメリカにとって友好国だと見られていました。それでも中国に対するすべての支援は私的な組織によるもので、アメリカ政府によるものはありません。アメリカ政府とすれば、私的な支援、及び中立に違反して、日本との戦争にならないように注意を払ったと言えます。

(日露戦争においては、イギリスは条約により参戦することは出来ませんでしたが、日本海軍の訓練や指揮、技術援助など、違反しない範囲で日本を援助していました。)

アメリカからのボランティアたちは、1930年代後半のスペインの内戦においても、フランシスコ・フランコの独裁に対して戦うために、同じようにスペインで戦いました。

ボランティアによる戦闘を正式な国家間の戦争と定義するならば、アフガニスタン戦争、イラク戦争をはじめ、戦後日本は多くの戦争を戦っていたことになります。

 

因みに、日本の一部には、「インドネシアの独立に貢献をしたのは日本である」という説があります。実際に、戦後もインドネシアに残ってオランダ軍と戦った日本の部隊もありました。

ただし、オランダやイギリスに味方をしてインドネシアの独立派と戦った部隊もあります。

Indonesian National Revolution - Wikipedia, the free encyclopedia

 

あまり知られていませんが、日本の敗戦後、インドネシアの独立派と戦っていた中には日本の部隊もあり、「スマラン事件」という事件も起きています。

「スマラン事件」とは、第二次世界大戦直後の1945年10月15日から19日にかけてジャワ島スマランで起きた、旧日本軍とインドネシア独立派の間の武力衝突事件です。日本軍の武器の引き渡しを巡って対立が生じ、インドネシア側に1,000〜2,000人、日本側にも200人近い死者が出ました。インドネシアでは「五日間戦争(Pertempuran lima hari)」として知られています。

 

これには、「インドネシア独立派」と言ってもさまざまなグループが存在していたことが原因の一つにあるでしょうが、「日本」が「インドネシアの独立の為に戦った」と主張するからには、「日本」は「インドネシアの独立派に敵対して戦った」側面とも併せて考えられる方が公平だと思われます。

少なくとも、両方の事実を知っておくことは、いずれの歴史事実も決して嘘では無い事を弁える上で、大切でしょう。