昭和天皇と第二次世界大戦 (2)2・26事件(下)

皇道派にとって、天皇の親政政治を目指した「昭和維新」が、昭和天皇その人の強い反発と怒りを買ったことは全くの計算外だったようです。昭和天皇は伏見宮を通した「昭和維新の大詔渙発」などの上伸にも、「自分の意見は宮内大臣に話し置いてある」「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である」と取り合いませんでした。

 


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本庄繁侍従武官長は、決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上しましたが、これに対して天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などない」と一蹴されています。

 

昭和天皇は、川島陸相が反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明ようとした際にも、「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速やかに事件を鎮圧せよ」と命令され、反乱軍の動機や意向をまったく顧みられていませんでした。また、反乱軍首謀の自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案する奏上を、本庄侍従武官長から受けた昭和天皇は、「自殺するなら勝手にさせればよい。このような者共に勅使など論外だ」と叱責されています。

 

27日には、昭和天皇は本庄侍従武官長に対して、「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧を命令しています。

 

秦郁彦氏の『昭和天皇五つの決断』(文春文庫P35) によれば、

『この辺りは本庄日記の圧巻だが、本条がなぜ天皇との一問一答、しかも自己に不利な言行を、口答えの類まで精細に記録しておいたのか、理解に苦しむところだ。

本庄はなおも言いつのる。

「彼ら将校としては、斯くすることが、国家のためなりとの考に発する次第なりと重ねて申し上げしに、それはただ私利私欲の為にせんとするものにあらずと言いうるのみと仰せられたり」

何を言っても通じないか、通じないふりをしている本庄に、さすがの天皇も憮然としたのであろう。

「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん」と言い出したのは、この日のことだ。それでも本庄は「真に恐懼に耐えざるものあり」と記しつつも「では近衛師団を呼びましょう」とは答えず「決して左様の御軫念に及ばざるものなることを、呉々も申しあげ」握りつぶしてしまった。』

とあります。

 

本庄侍従武官長がこのように頑強に抵抗した理由は、木戸日記によれば、皇道派の中心人物であった真崎甚平三郎陸軍大将による「中間暫定内閣」を樹立したい意思が働いていたようです。


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ところが、天皇の強硬姿勢と、殺されていたと思われていた岡田首相の生存救出によって内閣が瓦解しないことが明らかになり、それまで曖昧な情勢だった事態は一気に叛乱軍鎮圧に向かうことになりましたが、皇道派が陸軍内部で一大勢力を誇っていたこともあり、皇道派の精神や思想は深く浸透していたため、「自己を犠牲にして蹶起した彼らの目的を達してやるのが武士の情である」と主張する同情論が根強くありました。

 

昭和天皇は、このような主張に対して同意をされていません。それどころか、反乱軍に対して同情的であった皇道派の本庄侍従武官長が主張したような、「その精神は国を思うものから出たものですから、必ずしも咎めるべきではありません」という考えを、真っ向から退けられています。

 

これは、「真摯」であることや「自分勝手でない」ことが高く評価され、動機が純粋でありさえすれば、暴力を含むあらゆる行動も容認される傾向にある日本文化の中では、「情緒」に反する極めて珍しい「近代合理主義」とも言えます。

 

しかしながら、虚構や過激思想を「真摯に信じ込み」、これらの思想の為に「私利私欲なく、自らの命を捧げる」人々によって、世界中の至る所で悲劇が繰り返されている事を直視すれば、「目的の純真さのためには手段を選ばず」というなのような行動は、厳しく拒絶されるべきです。

 

昭和天皇の、生物学研究に象徴される学者的・合理主義的な、この時代としては珍しい性格は、皇太子時代の訪欧体験、西園寺公望元老、牧野伸顕らの教育によもので、天皇は広い意味での「大正デモクラシー(民主主義)の子」であり、明治のリベラリスト(自由主義者)の考えに近かったようですが、昭和天皇の見せた論理的思考は、弟宮である秩父宮や、近衛文麿とも時代感覚を異なっています。

 

前出の秦氏は、「2・26事件の青年将校の心情が全く理解できなかったのは当然だろう」とも書かれています。

 

ここに、昭和天皇の、天皇としての絶対的な立場的な孤立だけでなく、精神的な孤独も見てとれます。