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昭和天皇と第二次世界大戦 (1)2・26事件(上)

日本の歴史、政治

昭和天皇の「戦争責任」が追及されなかったのは、GHQの占領にとって都合が良かったからという見方が、左翼・右翼両側からなされています。そういった一面があった事は否定しませんが、終戦当時のアメリカの世論は、昭和天皇の戦争責任を追及する声が強く、GHQと言えども、昭和天皇に対する態度を決めかねていたのが本当のようです。

 

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戦前、戦中に、さまざまな政策が「天皇の名によって」とられていった事は否定しようのない事実です。しかしながら、果たしてそれが「天皇の意思によって」とられていった政策であったかという視点で見た場合、満州事変から始まって戦線の拡張や米英との戦争などは、ことごとく昭和天皇の「意思に反して」、日本軍内皇道派を含む強硬派によって行われてきたのが事実です。

 

昭和天皇は「和平派」として知られていますが、「和平派」は、5・15事件、2・26事件以来、陸軍内の『皇道派』など強硬派によるクーデターと国家改造の企てを恐れ、陸軍の行動を事後承認するより他が無かったようです。

 

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「強硬派」にとって大切なのは、「天皇制」という制度でした。和平派であり、親米英派であった昭和天皇は「天皇らしくない」として、あからさまに煙たがられ、退位をさせて弟の秩父宮を代わりに即位させる案も語られていましたが、陸軍出身の秩父宮は病に伏す事となり、二番目の弟宮の高松宮は海軍出身で、反陸軍として和平派の先鋒であり、三番目の弟宮は陸軍の行動にさらに批判的な立場を取っていた為、代わりとなる直宮がいなかったのが実情です。

 

最近の保守派の風潮として、戦前の日本の行いの全否定をかたくなに拒むあまり、戦前の日本が一致した意思のもとに政策を追行していたような錯覚が見られます。

また、動機を尊ぶあまり、過激な思想であってもそれらを許容し、その純粋な精神を「今に見られない高い精神性」として評価しようとする主張までありますが、果たして戦前の日本に見られた「強硬派」は、その「純真さ」のゆえに評価されるべきなのでしょうか。

 

これからは、「昭和天皇」と皇道派の起こしたクーデターである「2・26事件」を見てみます。

 

1936年(昭和11年)の2月26日に起こされたクーデターによって、岡田啓介首相の妹婿で、姿格好が似ていた為に岡田首相と間違えられた松尾伝蔵首相秘書、軍の予算を縮小しようとしていた高橋是清大蔵大臣、側近として昭和天皇と近しくあった斉藤實内大臣、皇道派と距離を置いて「天皇機関説」を支持した渡辺錠太郎教育総監らが殺害されました。後の終戦時の首相となる鈴木貫太郎は重傷を負っています。その他、警備にあたっていた警察官が5名殉職し、1人が重傷を負いました。

 

ウィキペディアには斉藤實内大臣の殺害に関して、

『その後内大臣に就任した斎藤は、天皇をたぶらかす重臣ブロックとして中堅、青年将校から目の敵にされ、二・二六事件において斎藤は殺害された。2月26日未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。

 

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春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。春子から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に軽機関銃を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。』

とあります。 

 

また渡辺錠太郎の殺害に関しては、

 

『1936年2月26日に渡辺は二・二六事件で陸軍将校に殺害された。61歳没。渡辺は元々は襲撃目標リストに入っていなかったが、先述の通り天皇機関説を支持するような訓示をしていたとして直前になって目標に加えられた。渡辺邸への襲撃は斎藤実内大臣を襲撃した高橋太郎少尉及び安田優少尉が指揮する部隊が実行し、時刻は遅く、午前6時過ぎのことだった。

殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。父の死を目の前で見た和子の記憶によると、機銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。布団を楯にして応戦したという記録もあるが、和子によるとそれは事実に反し、銃撃を避けるため畳の上に体を横たえて拳銃を構えていたという。

 

渡辺邸には警護のため牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長と憲兵上等兵が常駐していたが、襲撃前に電話を受けて2階に上がったままで、渡辺に警告することも護衛することもなく、不審な行動だったとして和子に疑問を抱かせている。結局渡辺は一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであった。

 

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渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。

渡辺は天皇機関説を徹底的に弾圧した前任の真崎とはまったく人物の度量が異なっており、渡辺の自由主義的な発想や意見は、そもそも人文社会科学的な教養に乏しい過激青年将校の憎悪を招いた。』

と書かれています。

 

渡辺錠太郎が『皇道派』から憎まれるキッカケとなったのが、「天皇機関説」ですが、これは天皇を議会の上に置く「天皇主権説」に対して、天皇と議会を等しく置く、民主主義議会政治の確立へ向けた、天皇の役割の解釈です。昭和天皇は当然のこととして天皇機関説を支持していたと言われています。

 

 

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