安倍談話「事変 •侵略•戦争」 中西氏への反論 ⑥ (最終)

「日本は侵略戦争を起こさなかったのか」

中西氏への反論 ⑥ (最終)

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『日本が絶対に「侵略」と認めてはならないのは、次の四つの理由があるからである。

第一は、何と言ってもそれは歴史の事実ではないからである。このことを実証的、歴史学的に論じるには数冊の本が必要だから、私は今後、満州事変以後の実証的な歴史書を書いて啓蒙に努めたいと思っているところだ。

第二に、自らの国を犯罪を意味する「侵略」をやった〝前科者″として自らを断罪し続けることは、若い世代を中心に国民の精神的・道徳的退廃を招き、ひいては国の将来を危うくすることにつながるからである。歴史認識という問題は、まさしく「国家百年の計」なのであり、「侵略」との断罪を続けようとする安倍談話は、この意味で明らかに国家百年の計を誤っているのである。

第三に、近年のロシアによるクリミア併合やアメリカによるイラク戦争、あるいは中国による南シナ海の一方的占領など、まぎれもない侵略行為が横行し始めた時代に、日本が自ら七十年前の、あの戦争を「侵略」と称すると、北方領土で決定的に不利になることを知らねばならない。現に、この二月、ロシア外務省は、(中略)「(国連憲章を受け入れた)日本は(自らの侵略の結果、引き起こした)第二次世界大戦の敗戦国として、大戦時の旧連合国が行ったすべての行為の正当性を認めるべきだ」、と厚かましくも逆に日本に対して論駁し出しているのである(「産経新聞」二〇一六年二月二十二日)。これも安倍談話の副作用かもしれない。

しかし、「侵略」と言ってはならない、さらに重大な第四の理由がある。我々は、日本政府が自ら「侵略」と言い続ければ、天皇制或いは皇室の将来に大きな禍根を招く恐れがあることをぜひ、知らねばならないのである。(中略)

幸いなことに、たまたま米国の占領政策は昭和天皇の訴追を除外し、日本の皇室つまり天皇制の存続を許す選択をした。しかし、その後の戦後日本における日本人の歴史認識において、昭和天皇の、いわゆる「戦争責任」なるものを追求しようとする風潮が広がり、それが今の若い人は知らないだろうが、「天皇制廃止」のスローガンと結びついたのである。ただ、これも幸い、その後の左派勢力の退潮と共に消えていった。

しかし、昭和天皇のいわゆる「戦争責任」をめぐる、今の日本人の歴史認識が永遠に続く保証はない。また何よりも日本を取り巻く国際情勢は再び危うい方向へと大きな変化を来し始めた。将来、あの戦争に対する昭和天皇の「責任」、あるいは天皇制度そのものの「戦争責任」が問われるような世論(とりわけ「国際世論」)の変化が起こる可能性はなくはない。その時、日本の保守派の首相が自ら水戸ネタ昭和の対戦を侵略戦争だったとする議論が、内外の勢力によって、新たな「天皇制廃止」の論拠として利用・悪用される可能性すらある。(中略)

あまつさえ、歴史の事実に反しているのに、自ら「満州事変以後は全て日本の侵略」と考え、いまだにそれを言い募ってさえいる現代日本の要人たちの哀れを誘うほどの愚鈍(と言って悪ければ)あるいは愚直さ、その余りのことに正直、私は言葉を失う。(歴史通5月号106~109頁)

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 中西氏は、「安倍談話のキモは危ういほどの東京裁判史観である」として、「今は紙数に限界があるので、ここでは端的に日本のあの戦争に対して「侵略」という評価を下すことの非と、その結果生じる深刻な問題に集中して論じておきたい。」と書かれています。

 実際、「侵略と認めてならない」理由の第一は、「何と言ってもそれは歴史の事実ではないからである」とされながら、「なぜそれが歴史の事実ではないか」については、紙数の限界を理由に「今後、満州事変以後の実証的な歴史書を書いて啓蒙に努めたい」とされ、「乞う、ご期待」であるようです。

 その代わりに、第二、第三、特に第四の『日本が絶対に「侵略」と認めてはならない』理由に紙数を割かれていますが、これらは全て中西氏が天を仰いで危惧されているとは言え、強い思い込みを基本にされています。

 

 まず、第二の「若い世代」の精神的・道徳的退廃を歴史認識に求める説は、「夫婦別姓が若い世代の精神的・道徳的退廃の原因となっている」と主張するのと同じように、一見、理がありそうに見えて、実は殆ど関係がないものです。

 第三の領土問題についても、同様です。中国やロシアのような国々の主張はその時々の政権事情を示すものですが、彼らの「主張」は「主張」であって、それがそのまま現実化されたり、要求を呑まなければならないわけではありません。

 

 また「安倍談話のキモ」であるとして『東京裁判史観』を挙げられますが、東京裁判を否定される傍ら、ご自身は、日本側被告人に対する不正確な罪状である「共謀罪」を信じられているようです。このことは、中西氏が第四の理由として挙げられる「天皇の戦争責任」に関しても言えることですが、日本が侵略戦争を犯したと認めれば、どうしてそれが天皇制また皇室の存続に影響が出るのでしょう。昭和天皇が軍部と対立関係にあったことは、GHQだけでなく、多くの歴史家が認めています。

 

 この間の歴史を簡単に説明すれば、関東軍は昭和6年、南満州鉄道の線路を爆破し満州事変を起こし、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領をしていきました。

満州事変 - Wikipedia

 

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 日本海軍の将校たちは、昭和7年、5・15事件によって犬養毅首相を殺害し、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行おうとしました。このクーデターに失敗しつつも、軍の『暴走』は止められず、昭和11年には、1,400名を超す陸軍皇道派よって、陸軍の予算を削ろうとしていた高橋是清蔵相や天皇の側近であった斉藤實内大臣ら重臣を殺害し、または重傷を負わせる2・26事件が起きます。

五・一五事件 - Wikipedia

二・二六事件 - Wikipedia

 軍はその間も、昭和天皇による「万里の長城を超えてはならない」という命令や、政府の不拡大の方針を無視し、中国での戦線を拡大させていき、軍の行動に批判的な昭和天皇を強制的に退位させ、弟宮の秩父宮を即位させる計画すら立ち上げられます。

塘沽協定 - Wikipedia

ところが肺結核を煩わせていた秩父宮は療養生活に入り、弟宮の高松宮は陸軍に否定的であり、その下の三笠宮はさらに陸軍に否定的であったため、昭和天皇退位の案は実現されませんでしたが、昭和天皇を蔑視する公けの発言にもためらいはなかったようです。

 

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 「軍による暴走」を抑え切れなかったのは、彼らが既にクーデター(あるいはテロ)によって政府要人を殺害し、軍政を敷く可能性がいつでもあったからだと思われます。

 昭和天皇が軍の行動に反対していたこと、軍がその命令に絶えず逆らっていたことから考えても、昭和天皇に、日本軍の起こした軍事行動の責任があるはずがありません。ここに「共謀罪」などは存在しないのです。

 
 それでは、満州事変以後の軍事行動は、中西氏の主張されるとおり、「侵略戦争」ではなかったのでしょうか? 

 

「満州事変以後は、自衛戦だった」と仰る方々が多くいらっしゃいますが、自衛戦と言うからには、中国(中華民国)がいかに日本の「安全保障の脅威」となっていたか、考えなければなりません。

 普通に考えれば、利権、天然資源の必要性を鑑み、日本の必要としていたそれらが満州にあったとしても、中国は日本の安全保障に対する脅威ではありませんでした。

 「日本が侵略戦争を行なっていなかった」、「あの戦争は侵略戦争ではない」という主張には、無理があります。そして現在を生きる私たちは、一部の軍強硬派の暴走によって行なわれた一つ一つの作戦や行動を「国の名誉のため」と否定する必要はありません。

 

 これらの強硬派こそ、天皇と政府の方針に逆らい、天皇が信頼を寄せていた重臣を殺害し、クーデター・テロを決行し、反対意見を抹殺し、無謀な戦争に国全体を駆り立てていった人々です。たとえ彼らの動機が純粋であっても、彼らの行動は厳しく批判されるべきであって、彼らの「名誉」と、昭和天皇や殺害された重臣や和平派の「名誉」は混合されるべきではありません。

「事変、侵略、戦争」に言及した安倍談話は、間違った歴史観を語ってはいないのです。

 

 中西氏は、『自ら「満州事変以後は全て日本の侵略」と考え、いまだにそれを言い募ってさえいる現代日本の要人たちの哀れを誘うほどの愚鈍(と言って悪ければ)あるいは愚直さ』を「哀れ」に思われているようですが、「愚鈍」、「愚直」言ってみれば、「馬鹿正直」であっても、真実は認められるべきです。「侵略戦争」であると日本自らが認めなければ、世界を騙し続けられる」、あるいは「多くの人々の歴史認識に影響を与え、信頼を勝ち得る」とお考えになっていらっしゃるとすれば、それこそ「愚鈍」であると言わざるを得ません。

 

 私たちは、「日本の名誉」を守ると言いつつ、一部強硬派の考えや行動、またそれに追従する形で齎された政策を、「日本」を表すものとして弁護する必要はありません。名誉を守るならば、これら軍の強硬派によって殺害・左遷されていった「和平派」の名誉を、「共謀罪」の濡れ衣から守るべきです。