日露戦争と第二次世界大戦

2015年の終戦70年を記念しての安倍談話で、「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と安倍首相が言及されたのが、日露戦争です。

平成27年8月14日 内閣総理大臣談話 | 平成27年 | 総理指示・談話など | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ

 

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安倍首相は、第二次世界大戦に対しては「満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした『新しい国際秩序』への『挑戦者』となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」とし、同じ『戦争』でありながら、日露戦争と第二次世界大戦に対する評価を違えています。
 
時折安倍首相は、左翼から「軍国主義者だ」、「反省が足りない」などと批判される事があります。安倍談話に於いても、殆どのメディアがこの談話を高く評価し、未来へ前進していく姿勢に共感を示している中、それでも難癖をつけたがるJAPAN TIMESが、何とか苦し紛れに「日露戦争によって、韓国へ迷惑をかけた筈だ」と非難する一方、日露戦争の功績そのものは認めるしかないようで、それを称えた事への非難は上がりません。

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日本のナショナリスト的な考えでは、第二次世界大戦中の『日本無謬説』から成る功績が語られるばかりですが、本当に海外から高く評価をされ、称えられるべき戦争は日露戦争です。
 
真珠湾攻撃は、ルーズベルト大統領が「知っていた」か「知らなかった」に囚われるあまり、ルーズベルトによる陰謀説まで信じられ、「日本は騙し討ちをするほど卑怯な国ではない」といった主張を聞く事すらありますが、実は日露戦争では宣戦布告の2日前に「奇襲攻撃」「騙し討ち」がなされています。
 
奇襲攻撃も戦法の一つと考えられていたからです。
 
歴とした奇襲攻撃、騙し討ちで始まった日露戦争が高く評価されている理由はいくつかありますが、その背景として、まず英国との日英同盟が結ばれていた事が挙げられます。当時の日本は、英国の同盟国として、英国を模倣する親英米国家でした。国際社会に認められる事を願って紳士的に振る舞うことが奨励され、実践されていました。
 
日露戦争で活躍をした乃木希典大将は、人道主義者でもあり、命を捧げて戦う兵士を想い、子供を戦争で失った父親の顔は、申し訳なさで直視できないと歌に詠んでいます。兵士の命を消耗品のように扱う、あまりにも精神面を強調した戦陣訓は、日露戦争時代の日本軍にありませんでした。

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命を尊ぶ考えは、捕虜や一般市民の扱いにも影響を与えています。日本軍は物資に瀕していたにも拘らず、捕虜と一般市民の扱いは、国際法に則るように努めていました。また状況に応じて必要な際には投降をする事が勧められ、自決が避けられていました。
 
日露戦争に於いては虐殺や強姦も起こりませんでした。日本軍の規律が守られていた事は、ロシア側にも認められ、感謝をされています。
 
日露戦争時の日本軍への行ないは、イギリスの歴史家リチャード・ストーリーも、「日露戦争中の日本軍による、捕虜や中国人への扱いは尊敬に値するし、実際に、世界中からの称賛に値する」と記しています。
 
日露戦争を考えてみれば、第二次世界大戦中の日本軍の戦い方や、それに影響していた考え方が、果たして「日本の歴史や文化に根ざし」、「必然的」であったかという疑問が生じます。
 
日露戦争から第二次世界大戦までのおよそ30年の間に、日本は反英米色を強め、第二次世界大戦中は、英米の定めた国際法を順守する指針より、戦陣訓によって定められている行動規範が身近となります。
 
南京大虐殺の責任を問われ処刑された松井石根総司令官は、昭和23年、巣鴨拘置所で、「私は日露戦争のとき、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、支那人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とはまったく変わっておった。」と語られています。
 
日露戦争中の風紀と第二次世界大戦中の風紀を知る松井大将が、その違いを述べ、嘆かれている中、そのどちらも経験していない私たちが、それぞれの風紀に違いは無かったと主張する理由は何でしょう。

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