オスマン帝国とヨーロッパ

イスラム教徒とヨーロッパのキリスト教徒との間の諍いの歴史は古く、イスラム教が誕生した6,7世紀にはじまったと言えます。イスラム教が誕生して以来、17世紀に到るまで、優勢を誇っていたのはイスラム教徒側でした。

 

オスマン・トルコ帝国のイスラム教徒は、ヨーロッパ大陸の多くを侵略し、征服していました。ギリシャ、スペイン、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、セルビア、アルバニア、クリミア、現在のウクライナの殆どなどは、イスラム教徒によって支配されていたのです。

 

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イスラム教の軍がウィーンを征服しようと2度戦争を起こした事もあります。そのうちの最後の戦いは1683年に行なわれ、この戦いが起点となって、イスラム教徒は敗北をし始めました。このウィーンの戦いをキッカケとして、イスラム教徒はハンガリー、ギリシャ、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアを失い、イスラム教が始まって以来初めて、キリスト教徒による支配の下に置かれる事になったのです。 勿論、イスラム教徒にとって、キリスト教徒の支配に置かれると言う事は、考えもつかない屈辱でした。

 

Battle of Vienna - Wikipedia, the free encyclopedia

 

ロシアはオスマン・トルコ帝国の全域の征服を目指しましたが、これを止めたのはイギリスとフランスであって、そのためにおきた戦争がクリミア戦争です。勿論、クリミア戦争は、イスラム教徒を救う為ではなく、ロシアの巨大化を防ぐ目的がありました。

 

アラブ人のナショナリズムを生じさせ、中東を支配していたオスマン帝国を崩壊させようとしたのはイギリスです。

日本が第二次世界大戦中、アジア諸国のナショナリズムと独立心を育成してヨーロッパの植民地支配を崩壊させましたが、 実はそれはイギリスが第一次世界大戦中、中東で行なった事でした。

 

中東に於いては、イギリスこそ反植民地勢力だったのです。

 

イギリスとフランスの助けによって、アラブ諸国はオスマン帝国の支配に反抗し、イラク、クウェート、ヨルダン、エジプト、シリアなどの独立国として誕生する事になりました。繰り返しますが、中東を植民地支配していたのは、オスマン・トルコ帝国というイスラム教国でした。

 

勿論、イギリスとフランスは、親ヨーロッパの政権を樹立しようとしました。これは日本がその後、ブルマやインドネシア、タイなどに親日派による政権を樹立させようとした事と同じです。

 

イギリスなどのヨーロッパ諸国が中東を植民地支配した事実はありません。

 

また、ヨーロッパ人に対してイスラム教徒が抱えている意識は、決して劣等感ではありません。彼らは歴史の殆どの期間、ヨーロッパよりも力を持ち、ヨーロッパ大陸のその殆どの面積を支配していた為、自分達はヨーロッパ人よりも優越であると考えていました。

 

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今でもイスラミストは、スペインをアンダルシアと呼び、イスラム教の支配下に置く事を公言しています。彼らからしてみれば、ヨーロッパは自分たちの支配していた地域であり、自分達の支配下にあるべき土地なのです。

 

中東地域の歴史は、紀元前の遥か昔より、それぞれの民族や帝国が、残酷で残虐な侵略を周辺国につくし、勢力を伸ばし合っていた背景があります。中東がもともとオスマン・トルコ領だった事実はありませんが、17世紀までトルコが中東とヨーロッパのバルカン地方を支配していました。

 

また、それぞれの民族による残酷性、非文化度を考えた時に、歴史上一番残虐だった民族は、アッシリア人(現在のイラン/シリア周辺)であったと言われています。

 

オバマ大統領に言わせれば、今日のイスラム教テロの原因は中世のキリスト教徒にあるようですが、これは彼の無知を表したものです。

 

勿論、歴史というものは、一致した事実があるようで、実はそれぞれの立場によって史観が異なるものですが、それでも歴史を公平に見つつ、オスマン・トルコ帝国の侵略性、拡張主義について考えた場合、ヨーロッパこそイスラム教徒の侵略に悩まされていたと言えます。

 

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