『南京大虐殺』 人口は増えたのか、目撃者はいなかったのか 

南京大虐殺は起こらなかったという『まぼろし派』の主張のよりどころは、①ラーベの報告書の人口が20万人から南京攻略後25万人に増加した。人口が増えたということは虐殺が無かった事の証拠である。②目撃者がいない等の点が挙げられます。

まず①のラーベの報告書は、およその人口推移の把握でありますが、虐殺が無かったという証拠であるよりは、『安全区外から安全区内に移る中国人がいたこと』を示したものだと思われます。何故住人が移動したかを考えますと、『安全区外』に於いて多くの虐殺が行なわれていた為だと考えるのが自然でしょう。

因みに以下が『南京事件論争』による人口推移への理解です。立場によって考え方が違います。

 

南京事件論争 - Wikipedia



『南京城区(南京城と城外人口密集地)の人口は、1937年3月には約102万人(首都警察調べ)であったが、空爆などで避難のために人口が流出する こととなり、11月はじめには50万程度(ラーベ説。ただし、根拠はわからず)となったとされる。その後も避難のための人口流出とともに、農村部からの被 災者の人口流入もあったため、最終的に南京包囲戦が12月に開始した段階での人口は、諸説あってはっきりしない(40-50万から20万という数字もある)。 なお、陥落のとき、南京城内の南京安全区(英語版)へ向けて非常に多くの生存市民が避難した。

安全区の推定人口は、南京安全区国際委員会が 陥落前にすでに約20万人になると予測(食料配布等を考えて南京安全区国際委員会が予測)した。その後、陥落からひと月後の1月に、登記された城内人口が 16万程度であるが、これは子供や一部の老人が含まれていないので、南京安全区国際委員会は25-30万人と推測した。そして、同委員会のジョン・ラーベ は、安全区の人口は1月17日時点で25万人と推測。なお、安全区の外の人口は陥落後は非常に少なかったが、ジョン・ラーベは1月時点で安全区外も住民は 存在したと記録に残っており、安全区外から安全区内に移る中国人もその時点でいたと考えていた。 つまり、陥落時に南京(正確には安全区)の人口は20万人であったというのは正確な数字でなく、人口の流入はあったが1月までに25万人に増加したとまでは言い切れない。』

また目撃者については、必ずしもすべての報道関係者が「見なかった」と言っている訳ではありません。南京に滞在していた日本人の新聞記者が、虐殺について書かなかった理由を、秦郁彦氏は「日本軍の検閲によるため」と説明されていますが、「自分達は見た。いつか、これについて書ける日が来る」と話していたそうです。ただし、南京攻略戦が始まってひと月後に南京入りを果たした作家の石川達三は、目撃した残虐行為を基にルポタージュ小説を書き、案の定、4か月の禁固刑を受 けています。

 

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南京大虐殺の犠牲者の殆どが捕虜や敗残兵の不法殺害であった事を考えれば、正式な裁判を経ず、その場での処刑が大半を占め、従軍記者でない 限り、報道関係者が現場を目撃するというケースは少なかった事も当然です。ましてや外交官となれば、つぶさに日本軍の戦いぶりを観察する立場ではありません。

また、一般人への不法殺害を考える場合、例えば強姦のあと女性を殺害したケースや、掠奪に抵抗し た市民を殺害したケース、敗残兵、或いは便衣兵と間違われ処刑されたケースが挙げられますが、これも報道関係者や外交官の登場を待って殺害するという類のものではなく、その場の後始末や勢いで殺害されたと考えるのが自然であって、目撃者が少なくても不思議ではありません。

『絞り上げた48人以外の関係者』の証言を、兵士への聞き込みも含めて、阿羅氏が何故排除をしたのか考えますと、『無かった』という証言集を作り上げる為に、敢えて情報の操作をされたのではないかと考えます。

「中国から帰った兵士は全て中国に洗脳されて、中国側の良いように証言をする」と仰る方もいるようですが、全ての中国からの帰還兵が『撫順収容所』のような収容所に入れられた筈もありませんし、洗脳とは成人に対しては殆ど効果がありません。