読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『不自然な国境線』? (2)

イギリス、並びフランス、ロシアが国境線を引いたのは、中東と言ってもオスマン・トルコ帝国の支配下にあった地域で、この地域を欧米が植民地化した事実はありません。

 

国境を引かなければいけなかった理由は、オスマン・トルコ帝国の崩壊があります。トルコ帝国はヨーロッパにまで勢力を広げた為、現ルーマニアやポーランドのような国は、その侵略に悩まされていましたが、その帝国の勢いにも陰りが見え始め、第一次大戦での敗北をきっかけに、帝国の崩壊を迎えました。

 

f:id:HKennedy:20160217114823p:plain

 

崩壊するまでのオスマントルコ帝国の人口構成は、トルコ人、クルド人、ギリシャ人、アルメニア人、アラブ人などです。

 

このうちの『アラブ人』が誰を指すのかと言えば、『シリア人、パレスチナ人、エジプト人、マグリブのアラビア語系住民、身体的形質の上では黒人とされる人々を含むスーダンやモーリタニアなどの「ブラック・アフリカ」におけるアラビア語話者、さらにベルベル系の諸民族やソマリ人などアラビア語以外の言語を母 語とする者』までがアラブ人として自己規定されていて、必ずしも、『アラブ』という国や民族が、オスマン・トルコ帝国の支配下に組み込まれるまで、存在していた訳ではありません。

 

それどころか、アラブ人という意識も、20世紀に入ってオスマン・トルコの支配に反対する民族意識が生まれるまでは、存在していませんでした。

 

因みに、『パレスチナ人』となりますと、その言葉自体が作られたのは1964年であり、それまでは彼らは『エジプト人』『ヨルダン人』と呼ばれていました。

 

『ヨルダン人』が何かと言えば、19世紀に入って、当時この地方を支配していたオスマン帝国によって、『ロシアから逃亡してきたチェルケス人をシリア地方 の人口希薄地帯に住まわせるようになり、次第に活気付き始めた』とあるだけで、『ヨルダン人』という民族も、『ヨルダン王国』も、第一次世界大戦後のオスマン・トルコ崩壊前には存在しませんでした。

 

またイラク人、クウェート人、モロッコ人、シリア人なども民族として存在しませんでした。(クルド人の民族主義は比較的強いものですが、それはクルド人が古代の神話と自分達の民族の物語を強く信じているからだと思われます。)

 

またオスマントルコ帝国の支配者層となる『トルコ人』という概念も、「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母国語からトルコ語へ 言語を変更した人々も含まれていました。これはオスマン・トルコ帝国における民族概念が、DNAの違いに表われるような生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示しています。

 

オスマン・トルコ帝国、また中東の人々を分けていたのは、実は言語であり、次に宗教(宗派)でした。

 

国境線が引かれる際には、一つの独立国家として、議会政治や法の下で国を治めていけるかどうかが考慮されました。

 

f:id:HKennedy:20160217113302j:plain

 

国家という考えは西側の価値観であり、中東に暮らす人々にとっては新しい概念でしたが、中東の国境は、イギリス、フランス、ロシア、トルコとの協議の上、オスマン帝国内の地方指導者や宗教指導者からの意見を組み入れて引かれたものでした。

 

先述した通り、欧米は中東を植民地化したことすらありませんので、欧米の利権を基に国境が引かれた事実はありませんし、国境の線引きに米国は全く関わっていません。

 

そうかと言って、国家という概念を建てあげる事が『成功』した訳ではありません。

 

例えば、イラク人のごく一部のみが自分達をイラク人だと考え、クルド系イラク人には、自分たちはクルド人だという意識があるだけで、イラク人としての意識 はありません。シーア派のイスラム教徒は自分達をシーア派と考え、スンニ派のイスラム教徒は自分達をスンニ派と考えるだけです。

 

それはイスラム教が、国家による支配ではなく、イスラム教宗教指導者(後継者)による支配を教えている為、かつて帝国を有していたトルコ人やイラン人は別として、多くのイスラム教徒にとっては、国家による支配や国家主義というものが理解しがたいのでしょう。

 

このような地域に国境を引いたのですが、『不自然な国境』という非難をする場合でも、ではどのような国境が『自然』な国境であるのか、現実的な代案は出せないのではないかと考えます。