イスラム教過激派と、平和を愛する穏健派との違い ---スレイヤ・スィミ・ラーマンの場合

異教徒を殺害するイスラム教過激派と、平和を愛する穏健派との違いは何なのか…という疑問は、多くの人々が感じる事ですが、この疑問に頭を悩ませる穏健派イスラム教徒もいるようです。

 

イスラム教過激派によるテロや虐殺がのニュースを受けて、そうした疑問を考え始めた元イスラム教徒(イスラム教徒からは背教徒と呼ばれ、死罪の対象となります)の記事を纏めてみます。

 

彼女の書いた記事は、もともとはフェイスブックの投稿でしたが、フェイスブックから『コミュニティー・スタンダードに違反している』という理由でブロックされたようです。

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『私は、彼らと私の間の違いを考えてみようとしました。きっと何か大きな違いがあるだろうと思ったのです。そして、カリフォルニアでのテロも鑑みながら、 長い時間をかけて辿り着いた結論は、そのような違いはないという事です。

 

彼らが引き金を引く時まで、誰が穏健で、誰がジハードを行なうか、見分ける事は出来ないのです。(カリフォルニアの女性テロリスト)タシフィーンは、私達 の間に住み、不審に思われる事も無く、普通の母親として振る舞い、治安の良い地域に住みながら過激化したことで、「穏健派は本当に穏健である」という説 を打ち壊してしまいました。

 

そして、それこそが問題なのです。全く同じ教えを信じる彼女のような人々は沢山いるのです。彼らは未だに過激な聖職者によって触発はされていませんが、機会がやってきたら、それに従うのです。まるで火をつけられるのを待っているダイナマイトのようにです。火薬は既に入れられているのです。 (中略)

 

私はアメリカの中南部に行き、ヒジャブ(被り物)を被り、8年住みました。その時、ISNA(北米イスラム教ソサイエティー)の会合にも参加し、私と同じように教育を受け、専門職に就き(彼女自身は医師)、同じ疑問を抱えている人々にも会いました。勿論、イスラム教を近代化させようとした試みは為されていましたが、それは表面的な改革ばかりでした。私たちにはそれ以上はできなかったのです。何故なら、イスラム教の中核には、どんな近代論理をも受け付けないジレンマ があるからです。

 

それは、コーランが神からの最後の言葉であり、完全で、決して変えてはいけないものだという教えで、コーランに疑問を持つという事すら冒涜であり、背教に繋がるという教えです。

 

ですから穏健派の考えを理解するには、それは過激派と同じ流れで繋がっているのだと捉える必要があります。けれど、自由主義的な考えを持てば持つほど、 (近代の論理では正当化出来ないという)壁が見えてくるのです。同性愛者への糾弾や、男性と女性の扱われ方の違い、従属的な女性の立場などについて考えれ ば、大きな壁があるのです。そしてその壁を乗り越えようとすれば、永遠の火と呪いへの恐れがあると教えられます。

 

けれど、答えはそこにあるのです。今日、穏健派のイスラム教徒であるということは、足に重しや鎖をつけて競争を走るようなものです。その壁を超えなけれ ば、本当の人生は始まりません。冒涜を恐れてその壁に登って辺りを見ない限り、永遠に閉じ込められたままです。疑問の壁と、自分達こそ本当のイスラム教徒であると主張し、コーランを完全に実践するジハーディストの間に、挟まれたままになるのです。』

(後略)

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この女性の出した答えは、イスラム教の近代化には限界がある事、同性愛者や背教徒、異教徒、女性の従属的立場に関する教えという面から見れば、イスラム教の教えは、穏健派であっても過激派であっても違いはないという事でした。

彼女の出した結論は、イスラム教の背教(教えを棄てる)事だったようです。

 

http://www.patheos.com/blogs/camelswithhammers/2015/12/moderate-muslims-have-hit-their-wall/